「パッキャオは異例ですよ」――近未来を示すモンスターの言葉 井上尚弥はどこまで上昇を続けるのか?【現地発】

写真拡大 (全4枚)

はっきりと見えてきた井上の目指すもの

タパレスを圧倒して2階級での4冠を達成した井上。その快進撃はどこまで続くだろうか。(C)Takamoto TOKUHARA/CoCoKARAnext

“モンスター”はいったいどこまで上昇を続けるのか。

 昨年12月26日、ボクシングのWBC、WBO世界スーパーバンタム級王者の井上尚弥(大橋)は、有明アリーナでWBAスーパー、IBF同級王者マーロン・タパレス(フィリピン)に10回1分2秒KO勝ち。4回と10回に2度のダウンを奪っての完勝で、テレンス・クロフォード(アメリカ)に続き、男子ボクシング史上2人目の2階級での4団体統一を成し遂げたボクサーになった。

【動画】タパレスが吹き飛ぶ強烈な拳 世界が愕然とした井上尚弥のKOシーン

 この勝利後に井上の今後に注目が移ったのは当然だろう。2024年はどんな選手たちと戦うのか。そして、ここからどこまで階級を上げるのか。タパレス戦後のリング上での井上のコメントで、そんな近未来の“ミステリー”は、ひとまず終わった感がある。

「スーパーバンタム級ではこうして4つのベルトを集めましたが、今の適正階級はスーパーバンタム級だと思っているので、来年、再来年とまたこの階級でもっと強い姿を見せられるように精進していきたいと思います」

 わずか2戦でスーパーバンタム級の4冠王者に上り詰めた井上だが、この階級にはまだ前WBAスーパー、IBF王者のムロジョン・“MJ”・アフマダリエフ(ウズベキスタン)、元2階級制覇王者のルイス・ネリ(メキシコ)といった好選手が残っている。

 アフマダリエフはおそらくタパレス以上の強敵だ。ネリには日本ボクサーとの間に深い因縁がある。タパレス戦で井上は最終的に完勝したものの、昨年7月のスティーブン・フルトン(アメリカ)戦ほどの完璧な戦いぶりではなかっただけに、現階級でより隙のない勝ち方がしたいという気持ちもあるかもしれない。

 それと同時に「適正階級で強い姿を見せたい」という言葉からは、井上が目指すものが、はっきりと見えてくるようでもあった。

 井上の目指すべき姿として挙げられることが多いマニー・パッキャオ(フィリピン)は、もともとフライ級からキャリアをスタートし、スーパーウェルター級までの事実上8階級制覇を成し遂げた。全盛期にはスーパーフェザー級で約3年を戦ったのち、ライト級で1戦のみを行い、一気に2階級を上げてウェルター級へ。そこで世界的なスーパースターであるオスカー・デラホーヤ (アメリカ)にKO勝ちを飾り、彼の快進撃は別次元に達した印象があった。

 このレジェンドのヒストリーを思い返せば、パッキャオ以降では最高のアジア人ボクサーである井上にもビッグネームとの対戦を望み、駆け足での昇級を期待する声が出てくるのも理解できる。その顕著な例が、現状3階級上のジャーボンテ・デービス(アメリカ)との対戦を待望する意見だ。

パッキャオとは異なる井上の発想

井上が「異例」と認めるパッキャオ。アジア人では史上最高ボクサーと言われるこの男は、8階級をのし上がった。(C)Getty Images

 階級制というボクシングの本質を考えれば、両雄の対戦は本来、荒唐無稽な話のはずだ。しかし、すでにスーパーフェザー、ライト、スーパーライト級の3階級を制し、29戦全勝(27KO)のデービス(米国)と井上のドリームマッチを希望する声はアメリカでも一部のファンの間から依然として出続けている。

 主に黒人層のファンからこういった声が噴出する背景には、極東の地で高評価を得る軽量級ボクサーへのやっかみ(裏を返せばリスペクト)が存在するのだろう。一方、井上の実力をすでに認める層からは、“冒険マッチに勝って真の意味でパッキャオに比肩してほしい”という想いが込められているのではないか。いずれにしても、デービス戦が実現することがあれば、井上のキャリア最大級の注目、話題を呼ぶのは間違いない。

 ただ、これまでの本人の言葉を総合する限り、井上は自由奔放に階級を飛び越えたパッキャオと同じような考え方はしていない。2022年夏、筆者がバンタム級にいた彼を大橋ジムに訪ねてインタビューした際、こう述べていたのを思い出す。

「パッキャオは異例ですよ。パフォーマンスを落としてまで、階級を上げて挑戦したいという気持ちはないです。自分のベストが出せる階級でNo.1でいたい。そこで強さを発揮すればいいと思っています。ボクシングは階級制のスポーツなので、自分が上に上がっていって、力が発揮できなかったとして、そこで自分が弱いとは思わないだろうし。あくまで自分のベストの階級で戦い続けたいです」

 こんな言葉を振り返ると、井上が自身のキャリア、そして一戦一戦に求めているものが見えてくる。それは闇雲にビッグネームとの戦いを模索するのではなく、かといって敗北を恐れているのでもない。追い求めているのはシンプルに、自身が満足できる最高のパフォーマンス。それができると感じられる階級でない限り、たとえ勝機があろうと、大金が稼げようと、昇級は考えないのであろう。

「無闇には階級は上げないです。お金が目的ではなく、大事なのはベストのパフォーマンスだということ。今はまだフェザー級を目指すうえでのトレーニングもしていないですし、それより上の階級は考えられないです」

 試合に至る前に、まず納得できるだけの準備、トレーニングを重んじる。そういった本人のポリシーを知れば、複数階級をジャンプしての冒険マッチが頭にないのは明白だ。将来に予測を巡らせても、現在30歳の井上が現実的な戦場として考えるのはあるいは1つ上のフェザー級くらいまでだったとしても不思議はない。

感謝されるべき戦場でベストの力を出そうとする姿

さらなる昇級を世間から求められている井上。しかし、本人はいたってクレバーに己を向かい合い続けている。(C)Takamoto TOKUHARA/CoCoKARAnext

 もちろんサイズがすべてではない。だが、階級を上げ続ければ、バンタム級でも大柄ではなかった井上にとって体躯の違いは無視できなくなる。フェザー級を見渡しても、172cmのWBC王者レイ・バルガス(メキシコ)、185cmのWBO同級王者ラファエル・エスピノサ(メキシコ)などとの対戦では身長面で大きなハンデを被る。

 163cmのIBF同級王者ルイス・アルベルト・ロペス(メキシコ)にしても、身長ではむしろ井上が上回るが、身体の厚みではかなりの違いがあるはずだ。フェザー級に昇級の時期がきたら、勝敗だけではなく、こういった相手と戦うなかで、“モンスター”らしいベストのパフォーマンスを誇示できるかどうかが見どころになる。

 さらに1つ上のスーパーフェザー級までいくと、対戦相手の骨格にも別物感が出てくる。WBC王者オシャキー・フォスター(米国/身長173cm)、IBF王者ジョー・コルディナ(英国/175cm)といったあたりは同階級でも身体つきに重量感がある選手たちだ。WBO王者エマヌエル・ナバレッテ(メキシコ)は身長こそ170cmだが、リーチは183cmもあり、計量後は身体が大きくなる印象もある。

 これらの王者たちとの対戦は“挑戦”という意味でスリリングであり、ファン垂涎の戦いになるに違いない。現状では想像でしかないが、傑出した力を持つ井上ならこれらすべての選手たちに勝っても誰も驚かない。昇級の過程で、多少の苦戦が増えてきても、彼は“未知の世界に挑み続けることこそが最高のパフォーマンス”と考えるようになっていくのかもしれない。

 しかし、あくまで研ぎ澄まされた技量のクオリティ、支配的な強さを重視するのであれば、答えは違ってくる。井上がある時期に、“これ以上は現実的ではない”と昇級に一線を引くことも考えられるのではないか。あくまでボクシングの質を追い求める職人気質ゆえに、ここまで完璧な強さを保ってきたのだとすれば、その選択に落胆すべきではない。自身の適正階級を見定め、決めた戦場でベストの力を出そうとする姿はむしろ感謝されるべきに違いない。

 飛ぶ鳥落とす勢いの井上のキャリアも現在、すでに後半に入っているのは間違いあるまい。今後の一戦ずつの内容とともに、自身とその陣営が階級選びという面でどんな選択をしていくのかも興味深い。

 実際の試合で限界が見えるまで上がり続けるか、それとも準備、トレーニングの過程でどこかで決断を下すか。井上が“怪物”であり続ける階級はどこまでなのか。その伝説を私たちはこれから目撃することになる。

[取材・文: 杉浦大介]