「1年活躍すれば、年俸1億円」日本球界はいつから“夢のある世界”になったのか。中畑清が語るプロ野球労組誕生秘話
華やかに見えるプロ野球の世界だが、1980年代まで選手たちにまともな権利はなく、球団側に“搾取”される一方の状態が続いていた。そうした状況に風穴をあけたのが「プロ野球選手会労組」だ。選手たちはいかに団結して、権利を獲得していったのか。当時、チームの中心選手として活躍しながら、水面下で労組設立に向けて奮闘した初代会長・中畑清に聞く。
選手の権利を飛躍的に向上させたFA制度
WBCでの日本代表の優勝やメジャーにおける大谷翔平の活躍を見るにつけ、この隆盛をもたらしたみなもとについて考える。それは1985年に産声をあげた。プロ野球選手会労組のことである。
「華やかに見えるプロ野球の世界ですが、実はがんじがらめで、選手が行使できる権利といえば辞めることしかなかった」
機構側が作成した統一契約書は、圧倒的に選手側に不利な内容になっていた。中日の選手会長としてチームメイトの要望を粘り強く球団側に伝え続けて来た田尾は、それを当時の球団代表にうとまれ、4年連続リーグ最多安打という実績を持ち、ファンにも愛されながら、キャンプインの直前に西武にトレードに出された過去を持つ。
ドラフト制度以降、職場とする球団を選択する自由はプレイヤーにはなく、極めて恣意的な理由で放逐されるか、飼い殺しにされてしまった例は少なくない。
これが、85年を境に劇的に変わる。選手の権利が格段に向上したのである。FA制度が認められ、年俸が飛躍的に上がり、移籍も活性化した。それに伴いセ・パの格差が埋まった。
何より大きいのは、選手の意見が機構側に届き、プレーをする側の主体意志が明確に発信されるようになったことである。
2004年の球界再編成に向けて「たかが選手が!」と渡辺恒雄読売会長(当時)に侮辱された古田敦也会長が決行したストライキ。さらには、東日本大震災が起きた2011年に新井貴浩井会長(現広島カープ監督)が文科省に掛け合って実現させた公式戦開幕延期。
これらは選手会労組という組織の基盤があればこその結実であった。意見が通れば、当然ながら選手のモチベーションは上がり、パフォーマンスの向上にも繋がる。
選手の権利はいかにして勝ち取られたのか、エポックメイキングとなったこの「労組」の礎を紐解いていく。
「そりゃあ、苦労したもん。成立させるには、ものすごい時間を費やしたし、とにかく水面下で事を運ばなきゃいけなかった。それが大変だったよ」
選手会労組設立の立役者、初代会長の中畑清は、自宅でのインタビューで38年前の記憶を手繰り寄せた。
搾取され続けてきたプロ野球選手の実態
聞き手の関心はまず、 組合をつくることの必要性をいつから、なぜ感じていたのかということにあった。
「それは自分が巨人の選手会の副会長になったときから考えていた。会長がキャッチャーだった吉田(孝司)さんで、それを補佐するかたちで結構若いころから、球団にものを言う立場には就いていたんだよ。ところが、当時の野球界は保守的な世界でとにかく一方通行だった。労使関係なんて発想がほとんどなくてね。とにかく言いなりだったよ」
庶民の生活からすれば、天文学的な年俸を享受し、流行りのブランドを身にまとい、高級車のハンドルを握り、オフには人もうらやむ生活を雑誌のグラビアで飾る。一見、派手でその世界に入りさえすれば勝ち組であるかのように思われた。
しかし、当時の野球協約にはいくつも問題があった。職業選択の自由を奪っている条項があり、また、オールスター出場時の報酬も雀の涙で、機構側にそのほとんどを取られていた。中畑は実態を吐露する。
「一見、派手に見える生活と、現実とのジレンマ…その闘いでもあったね。高い給料もらってるのは一握りの選手だし、出費も多く引退後の保障もない。それにプロ野球選手は個人事業主でひとりひとりが社長だというけれど、でもその社長にまったく自由がなかったんだ。
移動日もオフも、ものすごく拘束される。身体を休めたくても球団に言われれば、イベントにも出なきゃいけない。大事にされているように見えて、実際は我々選手の要望なんてまったく聞いてもらえず、搾取され続けてきた。駐車場を使わせてくれとか、選手の施設に冷暖房をつけてくれとか、そんな低レベルの話も却下された。それで自分が選手会長になったら、やはり、組合をつくるしかないと思ったわけ」
ちょうど年齢的にも昭和28年生まれの中畑の同級生たちが円熟期を迎えていた。
「球団ごとに選手がばらばらだと、やっていても風穴が空かないのは痛感していた。ちょうど俺と近い年齢の選手たちが、各チームの主力を担っていて、たまに会って話すと皆、同じように苦労しているんだよ。プロは個人ごとに契約を球団と交わすけど、全員でまとまらないといつまで経っても変わらないぞと説いたんだ。メジャーの選手たちがユニオンをやって規模がどんどん大きくなっていく、その流れも見ていたしね」
中畑が秘密裏に相談したふたりの人物
現在は自主トレや日本代表などで他球団の選手との交流が頻繁にあるが、当時はないに等しかった。そんな中で、中畑は同世代の仲間に密かに声をかけていった。当時は国労が健在で、ストライキを行うことも珍しくない時代。自身の野球人生の中でいわゆる労働組合と直接の接点はあったのだろうか。
「うちの実家は福島の酪農家だし、労組と直接の接点はなかったよ。でもね、団結の崇高さは感じていた。ニュースなんか見ていても労働者が自分たちの権利のために闘うストライキってのは必要だと思っていたね。特に野球はチームプレー、団体競技だから、この闘い方は必要だと感じていた。ただグラウンド外の団結についてはまったくの未体験じゃない。そこで労組を立ち上げる上で相談をした人物が二人だけいたんだよ」
それは誰なのか。
「ひとりは長谷川のじっちゃん。巨人の球団代表だったじっちゃんとは、ずっと腹を割って話せていたんだよ」
中畑は43歳年上の長谷川実雄球団代表を「長谷川さん」ではなく、「じっちゃん」と呼んだが、彼の名前が出てきたのは意外だった。
長谷川は読売新聞の記者出身で巨人の代表を20年に渡って勤めあげた人物である。江川卓投手の「空白の一日事件」のときも対応に奔走していたことで知られる。いわば、労使関係で言えば会社側の人間であるが、きわめて親身になってくれたという。ソファに座る中畑の表情が柔和にほころぶ。
「契約更改で毎年顔を合わせていたんだけど、おもしろい人でね。膨大な資料を机に積んで『中畑君、これを見るか? この資料、マイナス査定するために上がって来たものなんだよ』って言うんだ。『どうだ、見るか?』『代表、そんなもん私は見ませんよ』『そうか。私はキミがんばってくれていると思うんだが』ってやりとりが続いて。
こっちは、マイナス要因を言われて現状維持かと思っていたから『代表、月に10万円でいいから上げて下さいよ』と言ったらとじっちゃんは笑うんだ。『10万でいいのか? 20万あげてやるよ。君との契約更改は気持ちいいんだよ』そんな感じで選手の立場や気持ちをすごくわかってくれた人だった。
だから、この人ならと思って相談したんだよ。そうしたら、応援してくれてね。『選手の組合が実現したら、ものすごい変革になるぞ』と言ってくれた。じっちゃんは大きなお金が動くことを見抜いていたんだね。そこでひとつアドバイスをもらった。『絶対に内密にことを運べ』とね」
プロ野球選手が団結して労組をつくるという動きは、これより数十年前にもあった。別所毅彦(元南海、巨人)が中心になって結成に向けて動いたが、事前に情報が漏れて潰された過去を知る長谷川は中畑に情報漏洩の危険性について忠告していたのである。
中畑は「労組を立ち上げる上で相談をした人物が二人だけいた」と語ったが、もうひとりは誰だったのか。
「大変なことをしないと変わらないんですよ!」
「西武の球団代表だった坂井(保之)さん」
巨人とは当時、球界の盟主の座を争っていた西武の幹部である。
「球団は違っていたんだけど、あのころ、俺はプロ野球機構の福祉委員会の代表だったんだよ。それでよく要望を出していて、坂井さんとは交流があった。坂井さんは理解があって、先進的な考えを持っていた。西武は管理が厳しいと聞いていたけど、坂井さんなら、わかってくれると思って話したら、同調してくれたんだ。今のままではプロ野球界はだめになると危機感を持っていたね」
坂井は球団の枠を超えて野球界全体のことを考える発想を持っていたというが、それは彼の半生を調べると、頷首できる。
1960年代、坂井は岸信介元首相の書生をしながら、PR会社に勤務していた。そんな折、東京オリオンズが親会社の大映の経営不振から、ロッテに球団譲渡された。大映の永田雅一会長は新球団のオ-ナーについて知己の深かった岸に相談すると、岸は自分の筆頭秘書であった中村長芳を送り込み、坂井もまた補佐としてロッテのフロントに入ったのである。
言うなれば出発点が身売りされた球団であり、いきなりカオスからプロ球界での経営者人生が始まっている。以降、いくつもの球団を渡り歩いて、坂井はその存在感を発揮していく。
西鉄がライオンズを手放したときは、中村とともにロッテから移籍し、新球団の福岡野球株式会社(中村が個人で設立した会社で、ゴルフ場開発の太平洋クラブのネーミングライツで太平洋クラブライオンズとなる)の社長に弱冠38歳で着任して難局を乗り切った。
やがて西武グループへの身売りが決まると所沢に移り、西武ライオンズの黄金時代を築き上げ、東尾、田淵、秋山、工藤、伊東、清原、渡辺といった常勝軍団の選手たちとの契約更改を直接一手に引き受けていた。
坂井は予算規模の異なる球団でキャリアを重ねた経営のプロであると同時に選手の置かれた環境も熟知した人材育成者でもあった。そして坂井は「プロ野球はこの国の公共財」という確たる信念を持っていた。
「その坂井さんが、俺に言ったんだよ。『それはいい考えだが、もしも選手の組合を日本でやったら、大変なことになるぞ』って。だから俺は『その大変なことをやりたいんですよ。大変なことをしないと変わらないんですよ』と返したんだよ。じっちゃんと坂井さんに相談しながら進めたんだ」
長谷川はたたき上げの社会部記者上がりで読売一筋、坂井は「昭和の妖怪」こと岸信介の下で政治手法と複数球団を渡り歩いた球団マネージヤー。ジャンルの異なる二人の理解者に相談しながら、中畑は動き出した。
文/木村元彦