「9浪はまい」こと濱井正吾さん。浪人経験の一方で、実は奨学金を借り、返済した経験も持っている(本人提供)

これまでの奨学金に関する報道は、極端に悲劇的な事例が取り上げられがちだった。

たしかに返済を苦にして破産に至る人もいるが、お金という意味で言えば、「授業料の値上がり」「親側におしよせる、可処分所得の減少」「上がらない給料」など、ほかにもさまざまな要素が絡まっており、制度の是非を単体で論ずるのはなかなか難しい。また、「借りない」ことがつねに最適解とは言えず、奨学金によって人生を好転させた人も少なからず存在している。

そこで、本連載では「奨学金を借りたことで、価値観や生き方に起きた変化」という観点で、幅広い当事者に取材。さまざまなライフストーリーを通じ、高校生たちが今後の人生の参考にできるような、リアルな事例を積み重ねていく。

浪人生活の一方で、奨学金の返済経験も

「僕の通っていた高校のカリキュラムには古文や漢文がなかったり、英語のテストも単語とその意味を書けていれば点数がもらえたので、世界史も日本史も教科書の冒頭20ページをやったらもうおしまい。

だから、僕も先生も『うちの生徒が一般入試で大学に入れる』とは誰も思っていませんでした」

今回、話を聞いたのは当サイト・東洋経済オンラインにて浪人したら人生「劇的に」変わったを連載中の教育系ライター・濱井正吾さん(33歳)。


濱井さん連載「浪人したら人生『劇的に』変わった」の一覧はこちら

彼は「9浪」を自身の肩書にしているため、いつものように仮名にしたところで、そんな経歴の人物はなかなかいないので、今回ばかりは本名である。

彼がこの連載に登場するということは、大学時代だけではなく、浪人生活を続けるために奨学金を借りてきたということだ。

兵庫県出身の濱井さん。進学した産業高校には普通科がなく、機械科、土木科、電気科、商業科、生活科という、卒業後はすぐに就職できるような学校を推薦入試で受けたという(ただし、定員割れしていた)。

「当時、自分が通っていた高校の偏差値を『みん高【編注:「みんなの高校」という高校情報サイトの略】』というサイトで調べたところ40程度でした。でも、当時は『恋愛がしたい!』と思って、女子が多そうな商業科に進んだんですね(笑)。

入学してみると、実際に男女比が3:1くらいだったのですが、商業科の女子というのはなんだか派手で、誰とも性格が合わずに、3年間誰ともしゃべることができませんでした」

文字通り高校デビューに失敗した濱井さんは、起死回生のために野球部に入部。しかし、そこでひどいイジメを経験することになる。

「それは『プロレスごっこ』と称した恒常的な暴力でした。グローブをドブに捨てられたり、自分の局部の写真を撮られて女子生徒にばら撒かれるとか……。それがトラウマになってしまい、2年生のときには部活を辞めてしまいます」

しかし、そこで植え付けられたトラウマが、その後の人生を左右するほど、自らを奮い立たせるきっかけとなる。

「『イジメていた人間をどうにかして見返したい!』と思うようになったんです。仮に高校卒業後、就職をしても地元が一緒だからいずれどこかで鉢合わせる可能性は十分にあり、そうすると一生コンプレックスを引きずることになる。僕自身が人間的に成長しないと、彼らに『勝った』とは思えなかったんです」

その後、ネットゲームで出会った大学生たちと交流するうちに、大学進学を志すことになった。

ただ、いわゆる「Fラン高校」だったので学校側も受験には対応しておらず、自己推薦枠で大学進学を試みることにした。「情報処理検定ビジネス情報部門」一級の資格を生かして、「資格推薦」制度を使い、3つの大学を受け、唯一受かった大阪産業大学に進学した。

家族にとって想定外だった「大学進学」

ただ、彼の「大学進学」という選択は家族にとっては想定外のものだった。


本連載を原案とするマンガが始まりました。画像をクリックすると外部サイトにジャンプします

「僕が生まれ育った兵庫県の丹波市は、大学まで進学する人が非常に少なく、2021年兵庫県の「大学基本調査」の大学等進学率では最下位だった地域なので、家族や親戚もほとんどが高卒止まり。だから、昔から『うちは大学に行けないよ』と言われながら育ったんです」

また、濱井さんの両親が大学進学を快く思わなかったのには、もうひとつ経済的な理由があった。

「うちは郵便局員の父とパート勤務の母、それと2歳下の弟と4歳下の妹の5人家族。ただ、僕が10歳のときに父親が脳出血で倒れてしまい、半身不随で要介護度が5という最高ランクになってしまったんです。

そこで、母が介護したり、ヘルパーさんを呼んだり、保健施設に入居したりと、両親ともにまともに働くことができず、世帯年収は200万円程度でした。そのこともあって、子どものときから『長男なんだから高校卒業後は家に残ってお母さんを助けてやらなあかんで』と親戚によく言われていたんです」

とはいえ、大学入試に合格したのであれば、どうにかしてお金を準備しなければならない。そこで、彼は奨学金を借りることにした。

「毎月6万程度振り込まれていたのですが、すべて2万7000円の家賃と生活費に充てました。というのも、当初は僕の大学進学を良く思わなかった母が、最終的には学費を捻出してくれたからです。本当にそのことには感謝しかありません」

こうして、家族の支えもあって大学に入学した濱井さんだったが、進学先は思っていた環境とは大きく違った。

「まるで高校の延長でした。進学先の学部はほとんどが学級崩壊しているような高校から、推薦枠で入学してきた学生ばかりだったので、大学の講義も成り立たなかったんです。

木造の校舎なのに学生たちはその中でタバコを吸っていたり、講義中も後ろの席の学生たちが騒いでいるので、前の席に座らないとまともに教授が何を話しているのかすら聞こえない……。教授が入ってきて開口一番に『お前らみたいな猿がおるからこの大学はダメなんじゃ!』と言い出したこともありました」

他校と交流しショックを受け、仮面浪人を決意

一方で、他校との交流があるインカレサークルに参加することで、彼の世界は広がっていく。

「入学早々『大学のランクも、通う学生の民度によって変わるのかな』と思うようになり、ユースホステル部に入部して同志社大学や京都大学などの学生たちと交流するようになったのですが、彼らは髪の毛も染めてないし、眉毛も剃ってない。会話する前から同じ学生なのに全然違う雰囲気でした。そして、いざ話してみると人としての余裕があるし、自分が知らないことをたくさん知っている……。

そこで、自分が何も知らない小さな子どものように思えてしまったのと同時に『彼らみたいにならないと、これから自分はずっとコンプレックスを抱えて生きていくんだ』とショックを受けたんです。自分は当時、総理大臣の名前すら知らなかったので……」

こうして、他校を受け直すために、仮面浪人を決意する……というのは、濱井さんがほかでもよく話していることだが、あまり話してこなかったこともあった。奨学金を借りていたことで、再受験のスタイルが決まったのだ。

「大学を辞めたり、卒業してしまうと、返済が始まります。また、『新卒カード』の重要性をみんな語っていました。なので、大学を辞めて半年後から始まる奨学金を返済しながら勉強するのではなく、今の大学に在籍しながら、大学入試を受けられる学力をつけようと思ったんです。当時は中学校レベルの英語の勉強から始めないといけないほど、学力がなかったですしね……」

しかし、大学に通いながら勉強するにも金はかかる。そこで、濱井さんはアミューズメント施設の店員や、甲子園球場の売り子などのアルバイトにも勤しみながら、仮面浪人生活を続ける(その間も奨学金の支給は続いていた)。

そして、学内にいたチューターなどに勉強を教えてもらった甲斐あって、大学3年生のときに私立の龍谷大学に編入することができた。


龍谷大学時代の写真(本人提供)

3年生からの編入だったため、単位の取得に追われることもなく、無事に卒業。しかし、せっかくランクの上がった大学を卒業しても、彼自身は学力が上がらなかったことに不満を抱いてしまう。

そこで、濱井さんは契約社員として就職した証券会社を10日足らずで辞めて、また新たに大学に入り直すことを決意する。

こうして昼は再就職した配置薬会社にて、置き薬の営業マンをしながら、夜は予備校に通う生活が始まった。

ただ、社会人になったため、当然ながら奨学金の返済も、毎月1万4000円ずつ始まっていた。

「日中の営業マンの基本給は18万円でボーナスはなかったので、働き始めた頃は奨学金の返済はかなりの負担でした。ただ、当時の会社ではインセンティブがあって、それに救われました。


24歳頃、社会人時代の写真(本人提供)

60万円のボーダーラインを超えて1万円売り上げるごとに、3000円もらえたんです。最初は多い月で9万円程度の売上だったのですが、最終的には178万円も売り上げたこともあったので、インセンティブを含めて50万円になっていました」

営業マンと予備校通いの生活を2年半続けた結果、濱井さんは300万円の貯金を貯めることができた。そこからは受験一本に絞るために会社を辞め、これまで働いていた時間も予備校での勉強に費やすことになった。

そして、27歳の時に早稲田大学教育学部に合格。大阪産業大学での3年間の仮面浪人、龍谷大学での2年の在籍期間、そして社会人になって以降の予備校に通っていた4年間。これらを合わせて9浪となる計算だ。

「会社勤めのときからセンター試験は受けていましたが、もう全然ダメで9浪目の時点で貯金も底を尽きかけていたので、『これが最後の1年だな』とは思っていました。奨学金も毎月の返済額が1万4000円より多かったら、もしかしたらもっと早くに諦めていたかもしれません」

追加で奨学金を借りることはしなかった

こうして、念願だった早稲田大学に通い始めるのだが、ここで追加で奨学金を借りることはなかった。


27歳、早大入学時の様子(本人提供)

「最初に借りた奨学金の返済中だったので、追加で借りられるとは思ってなかったんです。そのため、仮に学費が払えなくなったら、『消費者金融で本当の借金をするしかないな』と考えていました。

でも、最終的にまた親に学費を出してもらえました。母がパートを増やしてくれたのと、弟と妹が大学進学しなかったので、そこで本当はかけるはずだった資金を回してもらった感じです。

あとは、父親の退職金ですね。『早稲田に入ったからようやくいい会社にも就職できるから!』と必死で頼み込んだところ、父が出してくれることになって……」

親に感謝してもしきれないが、とは言え、私立大学の学費は高い。そこで、濱井さんは大学独自の給付型奨学金の申請にも応募する。

「受かるとは思っていなかったのですが、早稲田は奨学金が豊富なので、親の年収が800万円以下で、GPAが2〜2.5以上の学生向けの給付型奨学金を受け取る事ができました。1〜3年生まで年に40万円、4年生のときには150万円です。給付型奨学金のおかげで勉強する余裕ができたので、これは本当にありがたかったですね」

とはいえ、それだけでは生活はできないのでアルバイトや、これまでの「9浪」という経歴を生かしてYouTubeにも精を出した。

「テレビ局の競馬中継の番組スタッフや予備校講師など、いろいろやっていました。ただ、1年生の後半で『バンカラジオ』や『トマホーク』など、さまざまな教育系YouTuberのチャンネルに出演するようになったので、それらの稼ぎで生活することはできました。家賃も2万4000円の激安のアパートを探して、今もそこに住んでいます(笑)」

奨学金は、自分にとって大事な投資だった

そして、31歳で早稲田大学を卒業。現在は株式会社カルペ・ディエムという企業で教育事業を担当している。働き始めて1年が経過したが、33歳となった今、雇用形態は正社員ではなく、業務委託だという。


大学2年、大隈重信像の前での写真(本人提供)

「実は今年、東京大学の大学院を受験したんです。というのも、年々まだ僕自身のインプットが足りないと思うようになり、『このまま人に勉強を教えたり、学校で講演してもいいのだろうか?』と感じるようになったからです。

それに、教育格差の問題について本気で研究したいと思っているんです。僕は『大学に行く意味なんかない』と言われるような環境で育ち、その後もずっとバカにされながらも勉強を続けて、なんとか早稲田を卒業しましたが、そこで『生まれ育った環境によって、入ることのできる大学が制限されてしまう』ことを実感しました。

能力に応じた教育というのが、実はまだ実現できていない。そこで、東京大学の大学院に教育格差に関連する研究をされている教授が複数名いるので、その先生方のもとで目に見えない地方格差を研究して、地方で燻っている人の救いになるような活動をしたいと思うようになったんです」


残念ながら、今年は合格できなかったが、引き続き来年以降も受験は続けていくという。

自らが置かれた境遇から抜け出すために、大学進学という選択肢を選び、その後は9浪してでも、高いランクの大学に身を置くことを目標にしてきた濱井さん。当然ながら、奨学金を借りたことに後悔はない。

「最初は『自分をイジメていた地元の人間たちを見返したい!』と思って勉強していましたが、いざ大学に入ったことで、これまで地元や親戚たちにはなかった考え方を持つ学生たちに出会えたことは本当に良かったと思います。彼らと出会わなければ、僕の人生はもっと荒んでいたでしょう。

結局、大学に行ってないと、僕自身、高みを目指すということはなかったので、違う世界を知れたのはやはり奨学金のおかげです。だから、自分にとって大事な投資だったと、今でも思っています」

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(千駄木 雄大 : 編集者/ライター)