神野大地「Ready for MGC〜パリへの挑戦〜」
最終回

プロマラソンランナー、神野大地。青山学院大時代、「3代目山の神」として名を馳せた神野も今年30歳を迎えた。夢のひとつであるパリ五輪、またそのパリ五輪出場権を争うMGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)を終え、神野はいま何を思うのか。

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 国立競技場に最後のランナーが入ってきた。

 その姿がモニター画面に映し出されると会場が沸き、ゴールすると大きな拍手が送られた。2時間25分34秒、56位、MGCに賭けた神野大地の2年間の挑戦が終わった。


雨で大荒れのMGC、56位でゴールした神野大地 photo by AFLO SPORT

 雨で大荒れのMGC、56位でゴールした神野大地。

 レースは、まったく神野らしい走りではなかった。

 スタートしてわずか1キロで先頭集団から離され、パリ五輪の出場権が得られる2位内は絶望的になった。

 いったい神野に何が起きていたのだろうか――。

「MGCの1カ月前から、走る練習はほとんどできていませんでした」

 股関節の違和感から走りの感覚がおかしくなり、周囲に心配されるほどだったという。痛みは強く出なかったことから騙し騙し練習をしていた期間もあったが、MGC2週間前にはまったく走れない状態になった。

「正直、欠場も考えました。でも、MGCにすべてを懸けてこの2年間やってきた。ここで諦めるよりもギリギリまで走れる可能性を捨てなくなかった。もしかしたら1週間前に調子が上がるかもしれない。今できることをやろうと調整を続けていました」

 MGCの5日前、久しぶりに「走れる」という感覚が戻ってきた。3日前には、ポイント練習をこなすことができた。

「これでなんとかいけるかなぁと思いましたが、不安の方が圧倒的に大きかった」

 自分の足のことながら、走ってみないと調子が分からなかった。不安と焦りで押しつぶされそうななか、なんとかスタートラインに立つために調整を続けた。

 レース前日は、国立競技場で1000mの刺激を入れた。

「走りがひどくて、周囲の人も心配する感じで見ているんです。僕も最悪だと思って、最初の400mを周り、次の1周の300m付近で中野(ジェームズ修一・トレーナー)さんと聖也(高木・マネジメント)さんに『無理です』と言おうと思いました。でも、ふたりの前を通り過ぎた時、もう1周してみようと思って。最終的に10キロぐらい走って、なんとか最低限の感覚まで持っていけました」

 レース当日は、早朝から6キロ走り、流しを15本こなした。前日に藤原新コーチ、中野や高木と話し合い、「当日のアップで感覚が戻らなければ、直前でも欠場の判断をする」と決めていたが、通常のレースのアップでは決してやらない本数の流しをすると感覚が良くなるのを感じた。

 この時、神野は最終的に出走を決めた。

 だが、万全の調整ができず、この状態で勝負できるほどMGCが甘くないのは十分、理解していた。2位に入る難しさも分かっていた。

 それでもなおスタートラインに立ったのは、なぜだったのか。

「2位内に入る可能性はゼロに近いかもしれないけど、0.1%の可能性があるなら諦めたくなかった。MGCに照準を合わせてやってきましたし、ここまで本当にいろんな人に支えてもらった。自己満足かもしれないけど、レースに出たかったですし、出るからには最後までベストを尽くすべきだと思っていました」

 現実は、神野の思いを無視するかのように厳しかった。

【もう早く終わってくれ】

 わずか1キロ地点で遅れ、25キロ過ぎには、右のハムストリングに猛烈な痛みを感じた。風雨が強まるなか、雨が目に入り、体が冷えた。1キロ、1キロという気持ちで前に進み、無心で走った。

「何度もやめようかなと思いました。でも、本当にやめようとは一度も思わなかったです。こうなるのは分かっていたし、途中でやめるぐらいなら最初から走らなければいい。何が何でもゴールまで行くぞという気持ちでした」

 神野をそこまで駆り立てたのは、いったい何だったのか。

「今年1月に奥球磨ロードレースに出たんですけど、体調が悪くて先頭集団から遅れてゴールしたんです。そこで多くの人が写真とかサインくださいって僕を待っていてくれたんです。結果が出なくても自分の走りを楽しみにしてくれる人がいる。どんな状況でも最後まで諦めずにやり切る姿勢を見せるとか、僕に伝えられるものがあるんじゃないかってその時、思ったんです。もちろん、それに甘えることなく、結果を求めて、良い走りを見せていくのが大前提ですけど」

 もうひとつは、神野の背中を押してくれた声だった。

 この日は、神野が支援を受ける各スポンサー企業の職員、前日夜から大型バスで駆けつけた地元津島市の応援団、神野が主宰するRETO Running Clubのメンバーが各ポイントで組織立った応援をしていた。

「僕はひとりで走っていたので、応援の声は耳に入ってきました。でも、申し訳ない気持ちが大きかったです。こんな走りをしてしまったので応援してくれる人たちをどういう表情で見たらいいのか分からなかった。嬉しいけど、複雑で、いろんな葛藤があって、みんなを見られず、みんなの声に応えられず......。でも、本当にたくさんの応援のなか、走ることができて幸せでした。みんなの応援が自分を最後まで走らせてくれました」

 神野は、雨に濡れたロードをひとりぼっちで走り続けた。レース前に「勝負所」と考えていた最後の坂を上り、下ると国立競技場が見えてきた。

「ホッとしました。MGCまでの1週間は生きた心地がしなかったし、すごく長く感じました。もう早く終わってくれって...。国立が見えた時は自分が目指してきた目標を達成できずに終わる。これでMGCのことだけを考えてきた生活が終わる。いろんな終わりが頭の中を駆け巡っていました」

 ゴールすると、スタンドから暖かい拍手が送られた。

「やっと終わった」

 いろんなものから解放された安堵感が広がり、控室に戻った。ハムストリングの痛みがひどく、自分の感情をどこかに置き忘れたように黙々とシューズを脱いだ。

「よく帰ってきたよ」

 高木にそう言われた瞬間、張り詰めていた感情が揺り動かされ、涙が止まらなくなった。

【SNSでは「もう限界でしょ」と辛らつな声も】

 神野は5年前に都銀に勤めていた高木にマネジメントをお願いし、それからふたりでこの日まで一緒にやってきた。直前に走れなくなったことで、「なんで、ここで、と聖也さんは思うことがあったはず」と神野は言う。その思いを飲み込んで言葉を掛けてくれた高木の優しさに神野は、こみ上げてくるものをこらえ切れなかった。

 その後、中野に「ホテルに帰ってケアしようか」と言われ、神野は号泣した。

「僕とふたりとの深い関係性があり、僕に対してもいろんな感情があるなか、多くを語らない何気ない言葉からふたりの気持ちが伝わって来て、ずっと泣いていました」

 その後、神野を応援してくれた人達への報告会でも涙が止まらなかった。

「その時、自分の思いや言いたいことはすべて言えたと思います。そこにいた両親も『大地の気持ちが伝わってきたよ』と言ってくれました」

 MGC後、神野は実家に帰り、静養した。1週間前、出場可否で悩み、苦しみ、頬がこけるほど追い込まれた神野の表情は、すっかり穏やかになっていた。

 MGCまでの2年間は神野にとって、どんな時間だったのだろうか。

「うーん、正直、苦しかったですね......僕のタイムは2時間9分34秒で出場選手では下位の方ですけど、MGCは一発勝負のレースで何が起こるか分からない。自分にもチャンスがあると思い、『2番以内を目指す』と言ってきました。でも、同時にオリンピックに行けるだけの領域に達していない自分も理解していました。大学生の頃は、どんどん成長して、自分の可能性を越える結果が出たんですけど、マラソンはいきなり伸びるとかはない。自分が2位内を狙うということと、現実の自分のレベルのギャップをずっと感じていたのでしんどかった......」

 神野は青山学院大時代、「三代目・山の神」として人気を博し、その後プロランナーとなった。注目度は高かったが、反面アンチの声も多かった。実際、MGCが終わった後、「ダメだな」「もう限界でしょ」と辛らつな声がSNSで見られた。確かに結果は出なかったが、苦戦必至のレースに出て最後まで戦った。この日、沿道の多くの人に応援され、レース後の報告会には200人以上が神野を待っていた。

 いろんなスタイルのランナーがいていい――。

 結果を求めつつ、走ることの楽しさを伝える。神野がその先駆者になれば、活動の幅が広がることになるだろう。

「まだ、やめられないですよ。やっぱり悔しさがあるので」

 神野は、凜とした表情でそういった。

 MGCでは2位以内を達成できず、テールエンドに終わったが、「最後まで諦めない」という姿勢を貫いた。神野の今後の人生に活きる、価値のある56位だった。

PROFILE
神野大地(かみの・だいち)
プロマラソンランナー(所属契約セルソース)。1993年9月13日、愛知県津島市生まれ。中学入学と同時に本格的に陸上を始め、中京大中京高校から青山学院大学に進学。大学3年時に箱根駅伝5区で区間新記録を樹立し、「3代目山の神」と呼ばれる。大学卒業後はコニカミノルタに進んだのち、2018年5月にプロ転向。フルマラソンのベスト記録は2時間9分34秒(2021年防府読売マラソン)。身長165cm、体重46kg。