登録者数が170万人を超えるYouTubeチャンネルで、絵を超絶技巧で仕上げる様子が人気を集めるのは75歳のおじいちゃん先生・柴崎春通さんだ。柴崎さんいわく「まわりと自分を比べなくていいし、それで心配したり、悩んだりしなくてもいい。世間並じゃなくたっていいんです。例えば親が子を信じてさえいれば、子どもは試行錯誤しながら、いつか自分の中にあるゆるぎない芯棒に気づいていく。そうやって、生きる道を発見していくのだと思います」という――。

■「うちの坊は偉い」

「笑顔がステキなおじいちゃん先生」としてYouTubeで大人気の画家・絵画講師の柴崎春通さんは、終戦直後、千葉県の農村地帯で米農家の長男として生まれている。実家は必ずしも裕福とは言えなったが、親から叱られたことも手を上げられたこともなく、愛情をたっぷり注がれて育ったという。

撮影=植田真紗美
柴崎春通 1947年千葉県生まれ。1970年和光大学芸術学科卒。萩太郎、中根寛に師事。2001年文化庁派遣在外研究員としてアメリカに留学し、The Art Students League of New York等で水彩画の研究を行う。 - 撮影=植田真紗美

「昔はよく町内の会合があって子どもも一緒について行ったものですが、父はいつも『うちの坊は偉い』と私の自慢ばかりしていました」

幼稚園のころ、裏山に頭を出したばかりの筍をへし折ってしまい、軍人上がりの役場の職員に思うさま殴られたことがあったという。顔を腫らして帰ってきた柴崎さんを見て、さて、息子自慢の父親はどうしたか。

「父はものすごく怒って、『善悪の判断がつかない子どもに制裁を加えるのは人権に反する』と役場に抗議をして、町長にまで謝罪をさせたそうです。当時は新憲法が公布されて日が浅かったので、人権という言葉がよく叫ばれていたのでしょう。悪いのは筍をへし折った私なのですが、父はそんなふうにどんな時でも、無条件に私の味方をしてくれました」

そんな父親に育てられたことが、いま風に言えば、柴崎さんに確固とした自己肯定感を植え付けることになったのかもしれない。

■衝撃を受けたモンドリアンの「木」

幼い頃からものを作るのが好きだった柴崎さんは、小学校時代、友だちが描き損じを欲しがるほど絵が得意だった。描き損じに自分の名前を書いて、先生に提出すればいい成績がもらえるというわけだ。コンクールに出展するため居残りで絵を描かされることも多かったが、「絵画」と本格的に出会ったのは小学校の図書室だった。

「家には白黒の図鑑が一冊しかありませんでしたから、図書室で初めてカラーの画集を開いて、印象派やモンドリアンの『木』なんて絵を見た時には、『なんだこれは。これが絵なのか?』と思うほどの衝撃が、バーンと心の中に入ってきましたね」

その後も、小学校を卒業するまで暇を見つけては足しげく図書室に通い、柴崎さんは何度もその画集を見直した。中学では柔道部に入ったが、高校生になり「やはり絵を描きたい」と思った柴崎さん。休部になっていた美術部に部員を集め、部長として活動。柴崎さんと部員は少ない情報をかき集めては研究し、互いに切磋琢磨(せっさたくま)する3年間を過ごした。

この試行錯誤の「自己流」が、その後の柴崎さんの人生に大きく影響することになる。

■合格した県庁を辞退

高3で就職を考える時期となり、友人が「県庁を受ける」というので一緒に受けに行った。無事合格したのだが、なぜか、それがちっともうれしくない。県庁で働いても自分はつまらなそうだと思った柴崎さんは、入庁手続きをしに行くのをやめてしまった。

その直後に、もうひとりの友人が「東京の専門学校に行く」と言うのを聞くと、突如、居ても立ってもいられない気分に襲われてしまった。そのときの東京といえば、遠い大都会で未知の世界。その友だちが光り輝いて見えたのだ。

しかし、農家の長男は跡取り息子として家を継ぐのが当たり前の時代。しかも、両親は底抜けに優しかったから「東京に行きたい」などとはおくびにも出せなかった。柴崎さんは激しく葛藤した。

5月になって父親と田植えをしていた時、溜まりに溜まった気持ちが突きあがってきた。

「……俺、東京へ行きたいんだけど」

すると、かがみ込んで苗を植えていた父親が、パッとこちらに顔を向けた。

「東京か? そりゃあ、行ったほうがいい」

絞りだすように言った息子の言葉を、父親はそのまま温かく受け入れた。「今でもそのときの情景が目に浮かぶんです」と柴崎さんは当時の心境を振り返る。

■3畳一間のアパートでデッサンに明け暮れて…

3畳一間のアパートで東京での生活をスタートさせた柴崎さんは、杉並区の高円寺にあった阿佐ヶ谷美術専門学校に遅れて入学した。

「実家の天井には太い梁があって囲炉裏の煤で真っ黒でしたが、目白のアパートで目を覚ましたら、柱が細くて白いんです。ああ、違う人生が始まるんだなとしみじみ思ったのを覚えています」

新宿の世界堂で大きな石膏像を買うと、そのままかついで山手線に乗り込み目白のアパートまで運び込んだ。

「田舎者でしたから、恥ずかしいという気持ちはまったくなかったですね」

三畳間に安置してみると、デッサンをするには距離が近すぎる。仕方なく、柴崎さんの方が廊下に出て距離を取るようにした。

阿佐美には藝大受験のために何浪もしている異様にデッサンの上手い人が何人もおり、柴崎さんは自分が世間知らずの井の中の蛙だったことを思い知ることになった。彼らの背後に陣取って、デッサンの技術を盗む日々を送った。

そんな中、柴崎さんはなんともいえない閉塞感を感じるようになっていた。憧れの東京はとても人が多かった。外へ出れば、どこもかしこも人ごみでうんざりする思いがした。「人の後にくっつくのがいや、徒党を組むのもいや。東京に出てきて、自分にそんな性質があることに初めて気がつきました。あの頃は、ただひとりでずっと絵を描いていましたね」

■「お前面白いヤツだな」

一年に少し足りない期間を阿佐美で学び、校内のコンクールで3位に入るまでに腕前を上げた柴崎さんは、藝大を受験した。

1次試験のデッサンには自信があった。しかし、2次試験は油絵である。学費と生活費を稼ぐためのアルバイトに時間を取られて油絵の勉強まで手が回らず、高校時代の自己流からほとんど進歩していなかった。2次試験を受けるには受けたものの、柴崎さんは合格発表を見に行くことすらせずに藝大進学をあきらめてしまった。

このままでは口さがない人の多い田舎には帰れないと思い詰めていたとき、たまたま電車の中吊り広告で、開設間もない和光大学に芸術学科があることを知った。私立は国立よりも試験日が遅い。まだ間に合う。

試験を受けに行ってみると、他の受験生のデッサンがお世辞にも上手ではなく柴崎さんは驚いてしまった。面接試験で「入学させてくれれば、私が周りの人にデッサンを教えますよ」と豪語すると、「お前面白いヤツだな。決めた。入れてあげる」と即答され、本当に合格してしまった。

撮影=植田真紗美

大学4年間も、柴崎さんは大学のアトリエに籠ってひたすら絵を描いていた。絵が上手くなること以外、服装にも異性にも美味しい食べ物にも、学生運動にも、まったく興味が湧かなかったという。

絵を描く以外にしたいことがなかったので卒業を迎えても就職をする気になれず、生活費に困った柴崎さんはアパートに栄養失調状態で寝そべっていた。

「上野公園で似顔絵描きでもやるか」

そんなふうに考えていた矢先、大学から呼び出しがきた。

行くと荻太郎という教授が「就職は決まったか」と聞くので、「いえ、ぜんぜん」と答えると、絵画の通信添削をやっている講談社フェイマススクールズを紹介された。言われたままに自作の絵を数枚持っていくと、添削指導をする講師のアシスタントとして採用されることが決まった。

■「絵の力で勝つ」まで

講談社フェーマススクールズは、講談社の野間省伸社長が自らアメリカから招いた絵画の通信教育機関であり、講師陣には当時の一線級の画家が集まっていた。

「給料は一般の新卒よりもはるかによかったし、アメリカから絵画に関する資料が続々と送られてくるので絵の勉強はできるしで、私にとっては天国でしたね」

柴崎さんは、「歴々たる講師陣の上に出たい」という強い欲求を持っていた。藝大出でもなく日展や二科展などの団体展のメンバーでもない柴崎さんが、師弟関係や派閥が絵描きとしての評価を左右する日本の画壇で「上に出る」のは難しかったかもしれない。

しかし、講談社フェーマススクールズにはさまざま団体の画家が集まって、日本の画壇の因習に縛られない独特のコミュニティーを形成していた。契約は一年更新。誰もが「絵の力」で評価を獲得するしか生き残る道はなく、毎日が真剣勝負だった。

「ドツェンコさんというロシア系アメリカ人のボスがいて、われわれの添削(受講生と同じ題材を同じ画材で描き直して、改善ポイントを指導する)を容赦なく評価する。相手が誰だろうとダメなものはダメだと突っ返すんです」

撮影=植田真紗美

それから講師に昇格した柴崎さんは、40年間トップの業績を上げ続けた。

柴崎さんは、誰もが平等に戦える環境下において、絵の力のみで勝ちつづけたのだ。

■大切なのは、自分の中の芯棒を育むこと

柴崎さんはいま美しい里山に囲まれた故郷に戻り、広々としたアトリエを構えて制作に励んでいる。得意の添削を主軸にしたYouTubeは、チャンネル登録数が170万を超えた。

撮影=植田真紗美
愛猫のマロンちゃんと。ある日庭に迷い込んできてから、柴崎家の子となった。 - 撮影=植田真紗美

「今こうやって振り返ってみると、子ども時代のわたしはいたずらで周囲の大人によく怒られていましたし、大人になってからも自分の意見を曲げずに、周囲と何度も衝突しました。ただ、そうするなかでまわりの反応を見て『これは良い』『これは駄目だった、なぜか?』と自分に問いかけながら、少しずつ成長していったんだと思います」

撮影=植田真紗美

「他者や社会は、ある意味クラゲのようにつかみどころのないものですから、まわりと自分を比べなくていいし、それで心配したり、悩んだりしなくてもいい。世間並じゃなくたっていいんです。大切なのは信じ続けること。自分の将来が不安なら自分を信じて、子供の将来が不安なら子供を信じて、ただ愛情を注げばいい。例えば親が子を信じてさえいれば、子どもは試行錯誤しながら、いつか自分の中にあるゆるぎない芯棒に気づいていく。そうやって、生きる道を発見していくのだと思います」

そんな柴崎さんの動画が、なぜか世間から爆発的に評価されているわけだが……。

「YouTubeを始めてみて、『癒やされた』という投稿が多いのに驚きました。内面に悩みを抱えた人がこんなにたくさんいることに、改めて気づかされました。もし、私の動画で心の平安が得られる人がいるのなら、YouTubeにいくらでも時間を費やしていきたいと思っています。手前味噌ですが、自己確立ができると、人間、周囲に優しくなれるんです」

孤高に自らが信じる絵と向き合い続けた芸術家がたどり着いた、ひとつの境地だろうか。

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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。
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(ノンフィクションライター 山田 清機)