太田光と石橋貴明(写真:YouTube、ABEMAバラエティ【公式】より)

とんねるず・石橋貴明の特別番組『石橋貴明 お礼参り THE WORLD 4週ぶち抜きSP』(ABEMA)が6月22日から4週にわたって配信された。第3週には、爆笑問題・太田光をゲストに迎えて、お互いのコンビやバラエティー史についてトークを繰り広げた。

関東出身で年齢が近い石橋と太田には数々の共通点がある一方、芸風やテレビに対するスタンスには異なる点もある。

太田と石橋が影響を受けた番組

まず共通点の中で、筆者が注目したのは次の2点だ。

2人は、テレビの黎明期の番組『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系・1961〜1972年)から影響を受けた。

『シャボン玉ホリデー』は、女性デュオ「ザ・ピーナッツ」、コミックバンドの「ハナ肇とクレージーキャッツ」を中心メンバーに据えた、コントあり、トークあり、歌ありのバラエティーショーとして人気を博した番組だ。

かねて太田は『シャボン玉ホリデー』のような番組をスタートさせたいと願い、石橋はバカバカしいコントの後に出演者の歌でフィナーレを迎える同番組の影響を受け、『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系)のエンディング曲「星降る夜にセレナーデ」を作ったという。

印象的なエンディング曲が流れるパッケージは、『オレたちひょうきん族』や『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』、1990年代後半の『めちゃ×2イケてるッ!』までフジテレビの土曜夜8時枠の定番だった。つまり、1990年代までのバラエティーは、『シャボン玉ホリデー』の見せ方を基本軸としていたのだろう。

余談になるが、バカリズムが単独ライブのオープニング、エンディングでおしゃれな映像音楽を流しているのは、『ひょうきん族』を見ていた影響によるものだ。(今年5月30日放送の『お笑い実力刃presents 証言者バラエティ アンタウォッチマン!』(テレビ朝日系)より)

若手芸人の単独ライブでも、このパッケージはもはや定番となっている。『シャボン玉ホリデー』の文脈がテレビの枠を超え、ライブにまで与えた影響を考えると、ただただ圧倒されてしまう。

アメリカ文化の影響も受ける

『シャボン玉ホリデー』のエピソードにも通じる共通点が、アメリカ文化による影響だ。2人がテレビに露出した1980年代は、アメリカのポップスやロック、SFやアドベンチャー系の映画が世界的なヒットを記録していた。

『みなさんのおかげです』を見ても、石橋が生み出したキャラクターはそんな時代を感じさせるものが多い。例えば、マイケル・ジャクソンとともに生活していたチンパンジー「バブルス」から着想を得てふてぶてしい態度をとるチンパンジーを演じたり、プリンスのMV「Batdance」を番組の代表的なキャラ・保毛尾田保毛男でパロディー化したりしている。


対談中の石橋貴明(写真:YouTube、ABEMAバラエティ【公式】より)

また、6月26日深夜に放送された『ネオバズ!! 石橋貴明お礼参りTHE WORLD 地上波SP』(テレビ朝日系)の中で、石橋は「『みなさんのおかげです』で、ストロベリーっていうキャラクター(筆者注:石橋扮するアフロヘアーのモヒカンが特徴の黒人ダンサー)は、あれダリル・ストロベリーからとってるんです(笑)。あのへんの時代(筆者注:のメジャーリーガーは)、個性派が多かったですよね」と語っていた。

そんな石橋は、アメリカのコメディー映画『メジャーリーグ2』(ワーナー/東宝東和。1994年公開)、『メジャーリーグ3』(同。1998年公開)に主要キャストとして出演。帝京高校の野球部員だった彼が、現在コメディアンとして多くのメジャーリーガーに認知されているのだから、その引きの強さ、行動力と才能には感服させられる。

太田もまた、別の部分でアメリカ文化を感じさせる。爆笑問題の初期のコント「人工心臓」をはじめ、『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』(テレビ朝日系・1993〜1994年終了)で披露した漫才はクローン人間や皮膚移植、胎児が使う携帯電話など、近未来を思わせるネタが多かった。

2018年に開催したコンビ30周年記念ライブ「O2-T1」も、全体としてSFの世界観が漂っていた。こうした作風は、太田が敬愛するアメリカのSF作家「カート・ヴォネガット」の影響によるものだろう。今年発売された太田の長編小説『笑って人類!』(幻冬舎)においても、本人がヴォネガットからの影響を口にしている。

そもそも敗戦後の日本は、アメリカ文化の影響を強く受けた。多くのコメディー映画が上映されただけでなく、アメリカのバラエティー制作を参考に日本のテレビ局がそれを実践した歴史がある。その背景を考えると、石橋と太田の趣向はごく自然のものだったのかもしれない。

多くの共通点を持つ彼らだが、違いを挙げるとするなら、“芸風”と“テレビに対するスタンス”ではないかと思う。

石橋は幼少期からのテレビっ子で、小学6年生で『アフタヌーンショー』(NET系。現・テレビ朝日)、中学3年生で『ぎんざNOW!』(TBS系)の人気コーナー「しろうとコメディアン道場」に出演している。

1980年に高校の同級生である木梨憲武とコンビ結成後も、たびたび視聴者参加型番組に出場し知名度を上げた。プロレスラーや歌手のものまね、学生やスクールメイツに扮したコント、トークの掛け合いとショートネタの組み合わせなど、ジャンルに縛られない勢いあるパフォーマンスが魅力だった。石橋が自身を“最強の素人”と公言しているのはこのためだろう。

ツービートの再来と期待された爆笑問題

一方の太田は、1988年に大学の友人である田中裕二とコンビを結成。コント赤信号・渡辺正行が主催するお笑いライブ「ラ・ママ新人コント大会」が初舞台だった。


対談中の太田光(写真:YouTube、ABEMAバラエティ【公式】より)

当初はコントを披露していたが、途中からコンスタントにネタを作成できる漫才にシフトする。1980年代初頭に“漫才ブーム”を牽引したツービートを想起させる毒舌や社会風刺が特徴の漫才で、“ツービートの再来”と期待された。

同じ1980年代デビューとはいえ、前半と後半で辿った道はだいぶ違うことがわかる。1986年にオーディション番組『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)が終了し、お笑いタレントを志す20代の門戸は狭まっていた。加えて、1990年前後は空前の“ものまねブーム”が起き、視聴者参加型と言えばものまね番組が主だった記憶がある。

また石橋は、『石橋貴明 お礼参り〜』の第2週の配信で「俺は、笑いは個人芸だと思う」と語っている通り、基本的に自身やコンビがメインの番組で活躍してきた。最初からピン芸やコンビ芸でテレビに出演し、フジテレビのバラエティーが全盛の時代に活躍したことも、その信念に拍車を掛けているのだろう。

太田は、デビュー間もなく所属事務所を離れ、仕事が激減した過去がある。1993年の『NHK新人演芸大賞』で大賞を受賞し、前述の『GAHAHAキング』で初代チャンピオンの座を射止め、自力でどん底から這い上がった。だからこそ、その後のテレビに対するスタンスも変わった。

「(筆者注:デビュー間もなくは)当時主流のお笑いには反発しましたよ。それこそ『笑いの殿堂』(筆者注:1988〜1989年まで放送されたフジテレビ系の深夜番組)もそうですし。あれも出ながら文句ばっかり言ってました。そういうのが多かったです。それが、今は逆にないんですよ、まったく。(中略)仕事があんまりない時期があったから、今度は『何でもいいからやらせてください』っていう」(2000年12月29日にBSフジで放送された番組をもとに、加筆・修正して再構成された本『ザ・ロングインタビュー〈4〉人は、なぜ笑うのか?―太田光』(扶桑社)より)

1980年代の石橋と太田の活躍

1980年代は、お笑いタレントがマルチな活動を見せた時期でもある。

とんねるずは、『みなさんのおかげです』や『ねるとん紅鯨団』(ともにフジテレビ系)といった冠番組をスタートさせ、俳優として映画『そろばんずく』やテレビドラマ『時間ですよ ふたたび』(TBS系)などに出演し、歌手として「一気!」でデビュー後、「情けねえ」「ガラガラヘビがやってくる」といった曲をヒットさせるなど、まさに時代の寵児となった。

1990年代にリスタートを切った爆笑問題は、とんねるずのようなテレビスターにはなれなかったが、『ボキャブラ天国』シリーズの「ザ・ヒットパレード」から巻き起こった“ボキャブラブーム”を牽引するなど、柔軟に後輩芸人たちと絡むスタンスによって人気を確固たるものとした。

また、執筆活動やラジオ番組を続けることで、長いスパンで濃いファンを獲得していったのは間違いないだろう。

この違いは、今でも2人の出演番組から読み取ることができる。石橋は『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』(フジテレビ系)や正月恒例の『とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』(テレビ朝日系)といった特番を継続。YouTubeチャンネル『貴ちゃんねるず』を含め、あくまでも石橋自身がメインの番組でポテンシャルを発揮している。

出演番組からも2人の違いがわかる

対して、太田は『爆問×伯山の刺さルール!』(テレビ朝日系)や『サンデー・ジャポン』(TBS系)、お笑いコンテスト『ツギクル芸人グランプリ』(フジテレビ系)などでMCを担当。また、かねて「嫌い」だと公言していたテレビプロデューサー・佐久間宣行をYouTubeチャンネル『爆笑問題のコント テレビの話』のゲストに迎えるなど、常に若手芸人や旬なタレントと共演している。

彼らのスタンスを分けたのは、もともとの芸風の違いだけでなく、1980年代の潮流の変化によるところも大きかったのではないか。それだけに、今回の対談は感慨深いものがあった。

(鈴木 旭 : ライター/お笑い研究家)