好ましくないネガティブな情動を表現することは、その情動を鎮めるのに役立ちます(写真:aijiro/PIXTA)

かつて、感情は理性による論理的な思考を妨げるものであり、避けたり抑えたりすべきものとされていた。しかし、「感情神経科学」という注目を集める研究によって、感情や情動は人間の意思決定などに大きな役割を果たしていることが明らかになっている。感情や情動は直感的で正しい判断を下すために必要不可欠であり、それをコントロールすることは、社会的成功にとっても欠かせないものなのだ。今回、日本語版が6月に刊行されたレナード・ムロディナウ氏の著書『「感情」は最強の武器である』より、一部抜粋、編集の上、お届けする。

最悪なクライアントへの怒り

カレン・Sはハリウッドの中規模映画製作会社の最高業務執行責任者。過酷で競争の激しいビジネスだ。


カレンは仕事上、厄介な人を大勢相手にしなければならない。そして成功のためには、約束を破ったり不当な扱いをしてきたりしたクライアントとも良好な関係を維持しなければならない。ときには腹が立つもので、以前ならそれが仕事の妨げになっていた。

しかしある対処法を発見した。腹の立った相手に宛てたEメールに、自分の感じた不当な扱いを事細かく書き記し、それに対する自分の正直な感情をありのままに述べるのだ。

しかしそのEメールを送ることはしない。下書きボックスに保存して、数日後に再び見返そうと心に決めるが、実際には二度と開かない。

自分の感情を表現するという単純な行為だけで、問題が解決してしまうのだ。有害な怒りはすぐに消え、カレンは仕事に戻る。

情動について話したり書いたりすることでその情動を克服できるというのだろうか?

この方法を耳にしたことのある人は多いだろうが、実験心理学者の調査によると、ほとんどの人はうまくいかないと考えているという。逆に、話をするとかえって情動が強まってしまうと信じている。

赤ちゃんの頃は女の子よりも男の子のほうが社会性が高く、母親を見つめて怒りや喜びの表情を示すことが多いが、15歳から16歳になると多くの男子は性別の固定観念に屈して、自分の感情を声に出すのを避けるようになる。

人々の考えと違い、好ましくないネガティブな情動を表現することは、その情動を鎮めるのに役立つ。

臨床心理士によると、信頼の置ける友人や大切な人、とくに似たような問題を経験したことのある人に話をするのがもっとも効果的だという。

話すタイミングも重要だ。自分の感情をさらけ出すのは確かに重要だが、怖いことでもある。話し相手が上の空だったり、最後まで話に付き合う時間がなかったりすると、かえって逆効果になりかねない。

「感情ラベリング」のさまざまな効果

実験心理学者は臨床心理士と違って実際の診療の経験はないものの、数多くの研究を通じて、このように話をすることが有益かどうか、有益だとしたらなぜ有益なのかを探っている。

研究の世界では、自分の感情について話したり書いたりすることを「感情ラベリング」と呼ぶ。

近年の研究によって示されているとおり、感情ラベリングには幅広いさまざまな効果があり、たとえば心をかき乱すような写真や動画を観た後の悲しみが弱まったり、人前で話すと緊張する人の不安が鎮まったり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が和らいだりする。

自分の感情について話をすると、前頭前皮質の活動が高まって扁桃核の活動が弱まり、再評価の制御法を用いたときと同様の効果がある。

またカレン・Sのように、心を乱す経験について書き記すだけでも、血圧が下がり、慢性痛が弱まり、免疫機能が高まることが示されている。

心を乱すような情動を表現することのメリットは、ときに長く持続する。

私は先日、我が事としてそれを経験した。赤信号で止まっていたら、タクシーが猛スピードで追突してきて車は大破、私の身も危ないところだった。

それからというもの、運転していると落ち着かないようになってしまった。どこからともなく不意にまた車がぶつかってくるんじゃないかと思って、気が抜けなくなったのだ。

交通量の多い道の信号で止まるととりわけ不安になった。

しかし友人や知人に事故のことを話していたら、自分の感情が相手に伝わって薄れていくことに気づいた。話している最中に気分が落ち着くだけでなく、長期的な効果があって、徐々にトラウマを克服できたのだ。

ツイートに込められた情動の分析

話をすると有効であることを示す逸話は数多くあるし、臨床心理士もこの方法に大いに信頼を寄せている。

しかし最近まで、感情ラベリングの有効性を裏付ける科学研究はすべて実験室環境でおこなわれていて、自宅や職場、いわゆる「インビボ」で調べられたことはなかった。

だが2019年、7人の科学者のグループがおこなった実世界での刺激的な研究の結果が、一流の学術誌『ネイチャー』に掲載された。

その研究では、ツイッターのタイムラインに現れる情動を調べた。実験室での研究では被験者が数十人ないし数百人に限られるが、彼ら科学者は10万9943人のツイッターユーザーによる12時間分のツイートに込められた情動を分析することができた。

ツイートにはユーザーの実生活での考えや、身の回りで起こっていることに対する反応が表現され、それがツイッターのサーバーに保存される。

100万時間分を超すツイートに込められた情動をどうやって分析するのか?

そのような分析を自動でおこなうための分野がある。それを感情分析(センチメント分析)といい、マーケティングや広告、言語学や政治科学や社会学などいくつもの分野で用いられている。

文章をコンピュータに入力し、専用の感情分析ソフトウエアを使って、込められている情動がポジティブかネガティブか、どの程度強い感情なのかを評価する。

『ネイチャー』論文の筆者たちは、VADERというプログラムを用いた。ジョージア工科大学で開発されたプログラムで、ソーシャルメディアや映画評論サイト『ロッテントマト』、『ニューヨークタイムズ』紙の社説欄や技術製品のネットレビューなどから取った数万件の文章で有効性が確認された。

VADERはそれらの文章サンプルの大部分について、訓練を積んだ人間の評価者と同じ評点を出力した。

本分析ではまず、60万人超のユーザーの10億件を超すツイートを調べ、感情をはっきりと表現した文、たとえば「悲しい」とか「すごく楽しい」といった文を含むツイートを探した。そしてそのようなツイートを投稿している10万9943人のユーザーを研究対象に選んだ。

続いてそのユーザー一人一人について、情動を表現したそのツイートの前後6時間ずつの全ツイートを取得した。そしてそれらのツイートをVADERソフトウエアに入力し、その12時間におけるユーザーの情動状態のプロファイルを作成した。

ツイートの直後から情動の強度が下がる

すると目を見張る結果が得られた。

ネガティブな情動の場合、最初は情動の強度がベースラインレベルで一定に保たれていたが、問題の情動的ツイート(たとえば「悲しい」)の前30分から1時間でネガティブ度合いが急速に高まりはじめた。

おそらく、心かき乱すような何らかの情報か事件に対する反応だろう。

しかし感情を表現したツイートの直後から、ツイートに込められた情動の強度は急激に下がっていた。

問題のツイートによって悪い感情が鎮まっていたのだ。

ポジティブな情動の場合は、もちろん感情を鎮める必要がないため、変化のカーブはもっとずっと緩やかだった。情動的なツイート(たとえば「すごく楽しい」)の前にはやはり強度の上昇が見られたが、その後に急激に下がることはなく、別の話題に移るにつれて徐々に下がっていくだけだった。

逸話や実験室での証拠から推測されていた結論が、10万人のツイッターユーザーの情動変化を追跡することで裏付けられたのだ。

シェイクスピアは『マクベス』の中で、「悲しみの言葉を発せよ。口から出てこない悲嘆は苦しい心にささやきかけて、心を砕いてしまう」と記している。

偉大な劇作家はみなそうだが、シェイクスピアにも優れた心理学者の素質があった。悲しみの言葉をつぶやくと気が晴れることを知っていたのだ。

情動が存在する理由

私は子供の頃、何度もトラブルに巻き込まれた。自分がしでかしたことばかりか、私のせいでないことでもだ。

母はよく言った。「みんなに責められるのは評判が悪いからよ。一回評判を落としてしまったら、みんなの気持ちを変えるのは難しいの」。

私は情動の科学を学びながら、そのことについてたびたび考えてきた。何百年にもわたる人間の思考と学問の中で、情動はずっと悪い評判を負わされてきて、それはなかなか変えられなかった。

しかし近年になっておもに神経科学の進歩のおかげで、情動に対する見方が変わってきた。そして今日では、情動が非生産的であるようなケースはあくまでも例外的であることが分かっている。

新しい情動の科学について知れば、情動は非生産的であるという神話の噓が暴かれ、情動が精神的リソースの大部分を作るのに役立っていることが明らかになるはずだ。

情動のおかげで我々は、自分の身体状態と周囲の環境に応じた柔軟な反応を取ることができる。

情動は欲求・嗜好のシステムと連携して一つ一つの行動を掻き立て、他者と関わって協力することを促し、視野を広げて新たな高みに立てるよう背中を押してくれる。理性的な心とともに作用して、我々のほぼあらゆる思考を形作っている。

出掛ける前にジャケットを羽織るかどうかから、引退後に備えてどう投資するかまで、一瞬ごとの大小あらゆる判断や決断に寄与している。情動がなかったら我々は何もできないのだ。

どんな生物種も独自の生態的地位を占めていて、特定の環境で生き延びて繁殖できるよう最適化されている。

そしてあらゆる生物種の中でも、人間はもっとも多様な生態系で繁栄している。砂漠や熱帯雨林、極地の凍りついたツンドラ、さらには宇宙に浮かぶ国際宇宙ステーションの中でも暮らしている。

我々は精神の柔軟性に基づいて立ち直る力を持っており、それはもっぱら高度な情動のおかげだ。

どこでどのように暮らしているにせよ、世界はつねにさまざまな難題を突きつけてくる。それを克服するために我々は、感覚によって周囲の状況を感知し、知識や経験を踏まえて思考によってその情報を処理する。その知識と過去の経験が思考に流れ込んでくる主要な経路の1つが、情動を介してである。

キッチンで肉を焼くたびに、火事になる可能性を理性的にせっせと分析することはないかもしれないが、火事に対するちょっとした恐れがコンロのそばでの思考や行動につねに影響を与え、より安全な判断へと導くのだ。

自分の情動を認識し、手なずけよう

情動は人間の心理的道具の1つだが、人によってそれぞれ違う。恐怖を抱きがちな人もそうでない人もいるし、幸せなどほかの情動についてもそうだ。

情動はれっきとした理由があって進化し、たいていは役に立つが、とくに我々の暮らす現代の世界では逆効果をもたらすこともある。

私が伝えたいのは、自分の情動を認識して大事にし、自分の情動プロファイルを知ってほしいということだ。自分のことを意識できれば、自分の感情を手なずけていつでも役立たせられるのだから。

(翻訳:水谷淳)

(レナード・ムロディナウ : 作家、物理学者)