通勤は戦争!?「運行情報」「時差通勤」を生んだのは戦時中の″極限状況″ 今と変わらぬシステムとは
電車が動いているのか、何分遅れているのかといった「運行情報」は今では欠かせませんが、実は歴史をさかのぼると戦時中に至ります。また「時差通勤」の取り組みも戦時中に生まれたものでした。
正しい情報を伝えることで混乱を防ぐ
「24時間戦えますか」と歌われたのはバブル期のこと。「企業戦士」という言葉もすっかり死語になりました。それでも雨が降っても雪が降っても毎日、職場に向かうビジネスパーソンは今も常在戦場です。
そんな人々にとって、電車の遅れや運転見合わせによる遅刻は(たとえ自分の責任でなくとも)一大事。どのくらい遅れているのか、運転再開はいつなのか、振替輸送は行っているのかは戦場に欠かせない情報です。
こうした情報は不可欠であるとして、国が鉄道事業者に積極的な情報提供を指示したのは、実は本物の戦争中の話でした。どういうことなのか見ていきましょう。
かつて山手線でも使用されていた205系電車(2002年3月、伊藤真悟撮影)。
時は1945(昭和20)年、東京都心は1月27日のエンキンドル3号作戦(銀座空襲)、2月25日のミーティングハウス1号作戦、3月10日のミーティングハウス2号作戦(東京大空襲)、そして5月25日の「山手大空襲」によって焼き尽くされていました。
絶望的な状況にもかかわらず、政府と軍部は軍需生産を継続するため市民に通勤を求めますが、問題となるのが運行情報です。例えば山手大空襲では、東京駅の焼失など都心の鉄道網が大きな被害を受け、全線で運転を再開するのは京浜東北線が2日後の27日、山手線が28日、中央線が30日のことでした(もっとも現在的な目線では数日で運転再開すること自体が驚きですが)。その間は迂回路線を使うなど、各自が努力して通勤しなければなりません。
そこで制定されたのが「振替乗車制度」です。『日本国有鉄道百年史』によると「振替乗車は、太平洋戦争末期の空襲などによる運行不能区間通過旅客の応急輸送のため、東京鉄道局と東京近郊の8社との間で振替乗車関係の契約を結び、これに対処したのがそのはじまり」と説明しています。今も輸送障害時にお世話になるこの制度の起源は、実は戦時中だったのです。
さて、こうした対応を旅客に周知するため運輸省は、山手大空襲が行われた5月25日に「旅客輸送事故情報の取扱方法」を策定しました。この内容が驚くほどに現代的なのです。
空襲があっても出勤! 通勤の足確保のための「情報伝達」
26日付の朝日新聞ではまず「事故や空襲で交通機関がぴたりと止まる。何時復旧するか、どう乗って行けばいいかお客は何もわからない。汽車や電車が遅れる、いたずらに焦るばかりでなぜか駅員も知らない」と、戦時下の鉄道利用者の心境を表現します。空襲という時代背景を除けば今の利用者にもそのまま当てはまります。
そこで現場の状況を管理部門に上げ、情報を取りまとめて各駅に一斉連絡するとともに他社と共有。駅では次のように迅速、正確、丁寧に情報提供し、旅客誘導するというのです。
・改札口や乗降場に情報を掲示し、音声で反復して伝える
・駅間停車の列車には伝令を送り、乗務員を通じて乗客に告知する
・新聞、ラジオを通じて情報提供を徹底する
当時の技術、設備では無線通信やデジタルを利用した案内はできないまでも、やろうとしていることは今にも通じます。その上で提供する情報は次のように記されています。
・列車の運転見合わせ、遅延の時分と運転再開見込み
・不通箇所の乗り換え、迂回経路について
・運転時刻や行先、折返し運転の区間、経路変更について
これも現在の輸送障害で必要とされる情報と同じです。もちろん空襲被害という特殊性は別としても、鉄道利用と障害の発生、そのリカバリーという観点では、いつの時代も求められるものが変わらないのは当たり前かもしれません。それでも戦時中という極限の状況で初めて、こうした情報提供の重要性が強調されたというのは興味深い話です。
もうひとつ注目すべきは輸送障害時に「通勤の混雑を調整するために工場や会社に情報提供し、時差退勤を促す」という項目です。つまり運転を見合わせている駅に人々が殺到すると混乱をきたすので、運転再開まで帰宅を待たせるよう協力を求めるということです。これも近年、台風接近や大雪の際に早期の退勤を促しているのに似た状況と言えます。
もっともこれらは運輸省が定めた基準であり、実際に実行できていたか定かではないことに注意が必要です。戦争末期の人員配置、設備荒廃の状況をふまえれば困難だったでしょう。
実際、1956(昭和31)年5月に発行された『国鉄線』は、東京鉄道管理局旅客課職員の「接客に従事する我々国鉄職員として、いつも痛感することは、事故発生に伴う旅客情報の伝達が旧態依然として余りにも遅い」という投書を掲載しています。
ラジオが運転見合わせの発生と折返し運転の実施を伝えているのに、大半の駅ではその情報を把握しておらず、相変わらず乗車券の発売や改札を行っているというエピソードを挙げ、旅客課指令係から駅に情報が届くまでに最短30分、遅いと100分もかかる実情を明かしています。
投稿者は運転指令への情報伝達専用電話の設置やファックスの活用など、先進的な提案をしていますが、その実現まではかなりの時間を要することになりました。
あまり定着しなかった「もう一つの取り組み」現在は?
さてもうひとつ、近年馴染み深くなった「時差通勤」も、実は戦時中が発祥です。この制度は第2次世界大戦中、ロンドンにおける工場通勤路線の大混雑の解決策として生まれました。工場の始業時間が7時半〜8時の間に集中していることに着目し、出勤時間をずらすことで混雑を解消したのです。
日本でも太平洋戦争開戦後、1943(昭和18)年10月の旅客列車大幅削減などの影響で、通勤路線の混雑が激化。これに対処するため、1944(昭和19)年4月1日から時差通勤を導入しました。
ところが実際にはほとんど効果がなかったようです。というのも当時の民間企業は概ね9時始業・17時終業でしたが、困難だという理由で変更できず。軍需工場では、もともと二交代制ないし三交代制で操業しており、朝の勤務は7時始業のため影響が少ないとされ、そのままに。学校へは始業を10時に変更するよう要望しましたが協力校は少なく、結局のところ勤務時間をずらしたのは官庁だけだったといいます。
郊外から都心への通勤で混雑する電車(画像:清瀬市)。
時差通勤は戦後、1960年代初頭の東京の人口増加により中央線などで激しい混雑が発生し、運行がマヒする事態となったことで、再び導入されました。その後、抜本的対策として主要路線の複々線、三複線化が進められましたが、平行して時差通勤の呼びかけも続けられました。
それでも定着とは言い難い状況だった時差通勤。今度は現在、コロナ禍以降に再びラッシュのピークカット、分散が重視されるようになり、JR東日本がオフピーク定期券を発売するまでになりました。
こうした取り組みやデジタル技術の活用で、今も続く「戦争」が変化するのか注目です。