プラセボ効果があるのは、心理的な理由だけではないようです(写真:PIXTA)

実際の薬ではないのに痛みなどが緩和してしまう「プラセボ効果」を聞いたことある人は少なくないでしょう。しかし、なぜプラセボには効果があるのでしょうか。それを突き詰めていくと、なんと茶道との意外な共通点にたどりつきました。本稿では、軽井沢病院長・稲葉俊郎氏の最新刊『ことばのくすり〜感性を磨き、不安を和らげる33篇』から、その理由を解説します。

新薬の臨床試験で感じた驚き

「これは痛みを和らげる薬ですよ」と偽ってただのビタミン剤を与えても、実際に痛みが緩和してしまうことがあります。これをプラセボ(プラシーボ)効果と言います。英語のplaceboは、ラテン語の「喜ばせよう」に由来しています。ここから意味が転じて、気休めのための薬や処置、偽薬などの意味で使われるようになりました。一般にもよく知られている概念だと思います。

さて、医療の世界では、新しく使われる薬剤が世に出るにあたって、臨床試験が行われます。その時に提出されるのが、実際の薬を投与する「実薬群」と「プラセボ群」の比較データです。そのデータを見る時、製薬会社の方はいかに実薬群の効果があったか、と力説してくれるのですが、むしろ私は、プラセボ群でも一定の効果が必ず出ていることにいつも驚き、注目していました。

実薬群で効果がみられるのは(もちろん重要ではありますが)、ある意味では当たり前のことです。そこで使用されている新薬は、科学的・合理的な思考の極地ともいえるもの。また、私たちは普段、いかにして科学的・合理的に思考することが大切かを繰り返し説かれてもいます。

しかし、プラセボ群での効果は科学的・合理的な思考からは説明のつかない現象です。私としては、そこにこそ新たな治癒力の可能性や、その先にある人間全般の本質的理解のカギがあるとすら感じます。

プラセボが重要であるとすれば、それはどのような条件で可能なのでしょうか。2つのポイントがあるように思います。それが「場」の力と「身体的な行為」です。

まずは前者から考えてみましょう。臨床試験の例でいうと、製薬会社からの説明の場が、すでに非日常な身心を準備する場です。薬剤を新規に承認するための社運がかかった臨床試験に参加しているため、その説明や同意も物々しいものであり儀式的な空間で行われています。多くの人たちに囲まれて特殊な場の雰囲気を感じながら「このようにしっかりした形式で説明されるのだから、効果のある薬に違いない」と無意識のうちに心は動いているのです。

新規の薬の効果を判定する臨床試験の場は、厳密なプロセスを経て行われるため、何度も何度も丁寧な説明があり、サインをします。そこで治験を受ける人は、平静を保ちつつも意識は高揚し、正常な意識状態とは言えません。説明される言葉も、日常では使われない言葉ばかりです。多くの関係者が関わった場の中で、ついに「薬を飲む」という行為は、まさに儀式そのものです。

こういった「場」の力が、わたしたちの深い無意識へと影響与えることは間違いありません。「薬を飲む」までに至るプロセスは、極めて厳粛で物々しい言葉と行為の連続なのです。といってもプラセボ効果は、精神面への影響ばかりで起こるのではないとも思います。

「飲む」という行為そのものが治癒に効果的

ここで、2つ目のポイントである「身体的な行為」の話をします。科学ジャーナリストであるジョー・マーチャントの『「病は気から」を科学する』には(原題は「CURE: A Journey into the Science of Mind Over Body」)、プラセボ効果と身体的な行為との関係に触れた一節があります。

それによると、「飲む」という行為そのものが治癒に効果的だそうです。つまり、頭の中だけで「この薬は効くだろう」と思うだけでは不十分であり、実際に口に入れて「飲む」という行為が重要であるということです。

頭のイメージだけではなく、飲むという身体的・肉体的な行為こそが、内臓をはじめとした内的生命世界のスイッチを押すのです。複雑な連鎖反応の中で結果的に治癒へとつながっていくのだろうと思います。

おそらく、「自分の意思で自分の身体を動かす」という行為が、心身に新しい未知の要素を加え、生命のプロセスが次のステップへと動き始めるのでしょう。プラセボというとしばしばしば、「これは効くはずだ」という思い込みの部分ばかりが取り上げられますが、そうした心理的なプロセスだけではなく、実際の身体的な行為が重なり合うことで、心にも体にも「効く」ことが結果的に起きるのではないだろうかと思います。

「プラセボ」と「茶道」の共通点

一方で私はこの書籍を読みながら、別のことも頭に浮かべていました。それは、茶道の空間や所作です。茶道においては、食を共にしながら掛け軸や器などを共有することで、無意識を活性化させます。外から見ると、正座をして止まっているように見えるかもしれません。しかし、そこでは体も心も「動いている」のです。


目に見えないほどの細かい所作を積み重ねながら、最終的にはお茶を「飲む」行為に結実させ、すべてのプロセスを内部に取り込むという儀式的な行為。私は、こうした全体的な営み、分割不能な営みの中にこそ、世界とのつながりを取り戻すヒントを感じます。

茶道のプロセスは、誰かが頭の中で理論的に考えたものというよりも、身体的な反応をつぶさに観察しながら生まれてきたもののように感じられます。掛け軸の文字もそう簡単に読めるものではなく、器の価値もそう簡単に分かるものではありません。

普段は使わずにしまっていた自分自身の五感(や第六感)を最大限に駆使することで、無意識は活性化されています。茶道の道具だけではなく、茶室という独特の空間そのものが持つ場の力により、わたしたちは未知なる心の場所を活性化しているのです。そうしたことは茶道だけで起こることではありません。私たちの祖先が残していったあらゆる文化の根底には、そうした生命の仕組みに沿った本質的な治癒の方法が隠されています。

ほぼ止まっているかのようなゆったりとした動きの中で、掛け軸や器を共有する茶道の所作は、スピード感や合理性を第一に考える人々の目からは非合理で無意味なものに見えるかもしれません。また、そうした合理的な思考が私たちの生活を豊かにしてきたことも確かです。

しかしそれだけでは、この世界の複雑な全体像を正確に捉えることはできないのではないでしょうか。そのことを気づかせてくれるのが、時の風雪に耐えて残り続けてきたあらゆる文化であり、合理的に解明できない非合理性にこそ着目する視点です。そのことを理解して初めて、世界の本質に近づけるのだと思います。

(稲葉 俊郎 : 医師、軽井沢病院長)