感情や情動は理性にはできない方法で、私たちの思考や意思決定に役立っています(写真:picmin/PIXTA)

かつて、感情は理性による論理的な思考を妨げるものであり、避けたり抑えたりすべきものとされていた。しかし、「感情神経科学」という注目を集める研究によって、感情や情動は人間の意思決定などに大きな役割を果たしていることが明らかになっている。感情や情動は直感的で正しい判断を下すために必要不可欠であり、それをコントロールすることは、社会的成功にとっても欠かせないものなのだ。今回、日本語版が6月に刊行されたレナード・ムロディナウ氏の著書『「感情」は最強の武器である』より、一部抜粋、編集の上、お届けする。

脳による情報処理の方法

人間の脳はよくコンピュータにたとえられるが、そのコンピュータの情報処理は、我々が感情と呼ぶとても謎めいた現象と複雑にからみ合っている。


誰しも不安になったり、恐れをなしたり、怒りが湧き上がってきたりしたことがある。かっとなったり、絶望したり、どぎまぎしたり、寂しくなったりしたことがある。喜んだり、誇らしく思ったり、興奮したり、安らぎを感じたり、欲情が抑えきれなくなったり、人を愛したりしたことがある。

このような情動がどのように作られるのか、どうすれば操ることができるのか、どんな目的を持っているのか、私が子供の頃にはほとんど明らかになっていなかった。

同じ出来事に対して2人の人が、あるいは同じ人でも別のときには、なぜまったく違う反応を取るのか、それも解明されていなかった。

人間の振る舞いにもっとも強く影響を与えるのは理性的思考であって、情動は望ましくない結果を招く非生産的な役割を果たすことが多いと信じられていた。

だがいまではもっと解明が進んでいる。思考や決断を促す上で情動は理性と同じくらい重要だが、その作用のしかたは異なる。

理性的思考は目標や関連するデータに基づいて論理的結論を導き出すが、情動はもっと抽象的なレベルで作用する。それぞれの目標に当てはめる重要度や、データに与える重み付けに影響を与えるのだ。

そうして築き上げられる評価の枠組みは建設的であるだけでなく、不可欠なものだ。知識と過去の経験の両方に根ざした情動は、現在の状況や未来の見通しに関する考え方を、多くの場合とらえがたいが重大な形で変える。

情動に関する伝統的な理論

現在のように情動の研究が爆発的に盛んになる以前、ほとんどの科学者は、はるばるチャールズ・ダーウィンにまでさかのぼる枠組みで人間の感情をとらえていた。情動に関するその伝統的な理論では、直観的に妥当そうに思えるいくつもの原理が示されていた。それは以下のようなものだ。

「恐怖、怒り、寂しさ、嫌悪感、喜び、驚きという少数の基本的な情動が存在していて、それらはすべての文化に共通しており、おのおのの機能は重なり合っていない。それぞれの情動は外界の特定の刺激によって引き起こされる。それぞれの情動はいつも同じ特定の振る舞いを引き起こす。それぞれの情動は脳内にある専用の特定の構造体の中で生じる」

またこの理論には、少なくとも古代ギリシアにまでさかのぼる二分法的な心の見方も取り入れられていた。すなわち、心は競合しあう2つの力からなっていて、一つは論理的で理性的な「冷たい」力、もう一つは情熱的で衝動的な「熱い」力であるという見方だ。

何千年ものあいだこのような考え方が、神学から哲学、そして心の科学に至るまでさまざまな分野に受け入れられていた。フロイトもこの伝統的な理論を研究に取り入れた。

1995年のダニエル・ゴールマンの著作で有名になった、ジョン・メイヤーとピーター・サロヴェイによる「情動的知能(心の知能)」の理論も、一部それに基づいている。我々が自分の感情について考えるための枠組みにもなっている。だがそれは間違っているのだ。

原子の世界を解き明かす道具が編み出されたことで、ニュートンの運動法則は量子論に取って代わられた。それと同じように、情動に関する旧来の理論もいまでは新しい見方に道を譲っている。それは、神経画像技術などのテクノロジーのすさまじい発達によって、脳の中を調べたり、脳を使って実験したりできるようになったことが大きい。

脳の研究における3つの大きな進歩

ここ数年のあいだに開発された一連のテクノロジーのおかげで、ニューロンどうしのつながり方をたどって、いわば脳の回路図、「コネクトーム」を描き出せるようになった。

そしてこのコネクトームの地図によって、以前なら絶対に不可能だった形で脳の中をあちこち調べ回れるようになっている。不可欠な回路どうしを比較したり、脳の特定の領域に絞り込んでその中の細胞を調べたり、思考や感情、振る舞いを生み出す電気信号を解読したりできるようになっている。

もう一つ、光遺伝学の進歩によって、動物の脳の中にある一個一個のニューロンを「制御」できるようにもなっている。ニューロンを選択的に刺激することで、恐怖や不安、鬱などの特定の精神状態を生み出す脳活動のミクロなパターンを解き明かせるようになった。

3つめのテクノロジーである経頭蓋刺激法では、電場や電流を用いることで、人間の脳の特定部位における神経活動を活性化させたり阻害したりできる。被験者に永続的な影響は残らないし、これによって各構造体の機能を推定できる。

このようなさまざまな手法やテクノロジーによって新たな知見と新たな研究が豊富に生まれたことで、「感情神経科学」と呼ばれるまったく新しい心理学の分野が興ったのだ。

人間の感情に関する昔ながらの学問に現代のツールを当てはめた感情神経科学は、情動に対する科学者の見方を一変させている。旧来の見方では、感情に関する基本的な疑問に対してそれらしい答えは出てくるものの、人間の脳の働きを正確に表現することはできない。

たとえばそれぞれの「基本的」な情動は、実は単一の情動ではなく、ある範囲、すなわちカテゴリーに含まれるさまざまな感情を十把一絡げに表現したものであり、そのカテゴリーどうしも必ずしも明瞭に区別できるものではない。

たとえば恐怖もそれぞれ微妙に違うし、場合によっては不安と区別するのが難しい。もっと言うと、長いあいだ「恐怖」の中枢と考えられてきた扁桃核は、実際にはいくつもの情動で鍵となる役割を担っているし、逆にすべてのタイプの恐怖に欠かせないわけでもない。

そこで今日では、5種類か6種類の「基本的」な情動から大きく視野を広げて、当惑や自尊心などのいわゆる社会的情動、さらには空腹感や性的欲求など、かつては衝動と考えられていた感情を含む、数十種類もの情動について論じられるようになっている。

今最もホットな「感情神経科学」

情緒的健康についていうと、感情神経科学では、鬱病は単一の病気ではなくて4つのタイプからなる症候群であり、それぞれ異なる治療が有効で、神経学的特徴もそれぞれ異なるとされている。この新たな知見に基づいて、鬱病患者が自宅で症状を和らげるのに役立つスマートフォンアプリも開発されている。

さらにいまでは、投薬せずに精神療法だけで有効かどうかを、脳スキャンによってあらかじめ一人一人判断できる場合もある。また、肥満から喫煙依存症や拒食症まで、情動に関連したさまざまな病気の新たな治療法も研究されている。

このような成功によって勢いづいた感情神経科学は、学術研究の中でもいちばんホットな分野の1つとなっている。

アメリカ国立精神保健研究所の研究テーマの中でも重要視されているし、アメリカ国立がん研究所など、心の研究は対象外であると考えられることの多いいくつもの研究機関でも注目されている。

心理学や医学とはあまり関係のない機関、たとえばコンピュータ科学の研究所やマーケティング組織、あるいはハーヴァード大学ケネディ政治学大学院などのビジネススクールも、この新たな科学に研究リソースや人材を割いている。

情動がなければ決断も思考もできない

我々の日常生活や経験において感情の果たす役割についても、感情神経科学は重要なことを教えてくれる。

ある一流科学者は、「情動に関する従来の『知識』がもっとも根本的なレベルで疑問視されはじめている」と言っている。

この分野を代表するもう一人の研究者は、「ほとんどの人は、自分には情動があるのだから、情動が何であってどうやって働くのかはよく分かっていると思い込んでいる。……だがそれはほぼ例外なく間違っている」と言っている。

さらに3人目は次のように言う。「いまは情動、心、脳の理解をめぐる革命のさなかにある。その革命によって、精神疾患や身体的疾患の治療法、人間関係の理解、育児法、そして突き詰めると人間観など、この社会の中核をなす教義を考えなおさざるをえなくなっている」。

もっとも重要なこととして、かつては情動は効果的な思考や決断を脅かすものと信じられていたが、いまでは、情動の影響を受けないと決断をすることも、さらには思考することもできないと分かっている。

人類が進化してきた環境と大きく異なる現代社会では、情動は望ましくない効果をもたらすこともあるが、それよりも正しい方向へ導いてくれる場合のほうがはるかに多い。それどころか、もしも情動がなかったらどの方向にも容易には進めないだろう。

(翻訳:水谷淳)

(レナード・ムロディナウ : 作家、物理学者)