都内にかつて、ほかのどの鉄道路線とも接続しない、離れ小島のような鉄道がありました。今の江戸川区を走っていた「一之江線」はどんな路線だったのでしょうか。

「離れ孤島」のような鉄道路線が都内に

 東京都電は最盛期には200km以上の路線網を誇っていましたが、そのなかで他の路線と一切接続しない「孤立路線」がありました。それは荒川のさらに東側、江戸川区を走る唯一の都電だった「一之江線(26系統)」です。


「一之江線」を走る電車。最後まで四輪車が用いられた(東京都交通局「都電 60年の生涯」より)。

 一之江線は東荒川駅(現在の首都高小松川JCT付近)から今井街道に沿って今井橋駅に至る路線。当時は地下鉄もなく、国鉄の新小岩駅からは遠く離れていました。都心に向かう際は東荒川から連絡バスを利用して荒川(荒川放水路)を渡り、対岸の西荒川で小松川線(25系統)に乗り換える必要がありました。

 他路線と接続しない鉄道路線は、日本の鉄道史を振り返ってみても、観光用ケーブルカーやロープウェイ、離島内で完結する路線など特殊な例を除いてほとんど例がありません。なぜこのような路線が都内にあったのでしょうか。

もともとは別会社の「私鉄」だった

 江東区を走った都電のうち、錦糸町と西荒川を結ぶ「小松川線」、水神森と洲崎を結ぶ「砂町線」は元々、城東電気軌道という小規模な私鉄が開業した路線でした。同社は1910(明治43)年5月、京成電鉄創設者の本多貞次郎を代表に地元有力者が集結して錦糸町〜今井間約8kmの特許を申請したことに始まります。

 この鉄道計画、あくまでも主眼は現在の江戸川区に置かれていました。発起人24名中19名が小松川、松江、一之江、瑞穂の各村在住であることが物語っています。さらに今井から葛西、浦安、行徳、船橋方面への延伸構想もあったほどです。

前途洋々の鉄道計画を「巨大分断河川」が阻む

 しかし、この江戸川区への路線展開を阻んだのが「荒川放水路計画」でした。出願直後の8月、梅雨前線と二つの台風が重なり利根川・荒川流域で大洪水が発生。抜本的な対応策として江東区と江戸川区の境界付近に幅500mもの新しい放水路を建設することが決まったのです。

 明治末から大正初期はまだ東京都市圏の拡大が本格化しておらず、後に郊外化を牽引する都心西部ですら、街道沿い以外は田畑が広がっていました。城東電気軌道が構想された都心東部はそれ以上に長閑で、沿線予定地に人家はほとんどありませんでした。


1909年時点の江戸川区松江付近。X字状に道路が交差する部分は、現在の小松川JCTで荒川のど真ん中だが、当時は川の影も形もない(時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)。

 沿線の期待は鉄道を中心とした開発にあり、電気供給事業から銀行の設立まで様々な構想が立てられていました。沿線が田畑のうちに鉄道を建設すれば費用は安価で済み、発展とともに先行投資を回収できますが、最初から莫大な橋梁建設費が必要になっては採算が合いません。

 行き詰った城東電気軌道は渋沢栄一の甥である尾高次郎を社長に迎え、やむなく錦糸町〜小松川に区間を短縮し、1917(大正6)年、ようやく開業にこぎ着けます。その後、渋沢系工場が並ぶ亀戸町、大島町、砂町に線路を延ばしていき、大半の発起人が望んでいた荒川放水路の向こう側は後回しになってしまいました。

 ようやく川向こうに東荒川〜今井間を結ぶ江戸川線が開通したのは、関東大震災後の1925(大正14)年12月になってからのことでした。1926(大正15)年3月に江東区側から本線小松川〜西荒川間が延伸開業するも、荒川放水路に橋梁を建設することはできず、わずかに途切れた西荒川〜東荒川間は、直営のバスで連絡しました。

 江戸川線は全区間が単線であり、中間点にあたる一之江停留場付近の複線区間で行き違いをしていました。線路は今井街道に沿って敷設されましたが、一般的な路面電車とは違い、道路上ではなく専用軌道を走っていました。跡地は住宅地に転用されたため痕跡は残っていません。今井街道裏の狭い道路が線路跡と勘違いされがちですが、その脇の小さく区分けされた土地が唯一の痕跡です。また一之江境川親水公園には江戸川線の橋梁があったことを示すモニュメントが設置されています。

ようやく開業するも…

 そんな江戸川線ですが、開業早々苦戦を強いられます。並行するその今井街道にはすでに、1920(大正9)年から葛飾乗合自動車が小松川〜浦安、八幡間を結ぶバスを運行していたからです。

 葛飾バスを使えば乗り換えが1度で済みます。運賃は江戸川線より高かったものの、城東電気軌道のほうも西荒川〜東荒川間連絡バスは別途運賃が必要で割引乗車券制度がほとんどなかったので、様々な割引制度のある葛飾バスとの運賃格差はそれほどありませんでした。運転間隔は本線が2〜3分だったのに対し、江戸川線は12分。葛飾バスは30分間隔の運行でした。

 江戸川線開業後はますます競争が激化して業績は上向かず、やむなく城東電気軌道は葛飾乗合自動車の買収に踏み切ります。そして前途有望なバスに力を入れるようになり、荒川放水路への架橋計画も放棄されました。

 その後、江戸川線は半ば放置され、のどかなローカル線のまま東京市へ移管されました。「江戸川線」という名称も、すでに市電の早稲田〜九段下間を結ぶ路線に使われていたためか変更されることになり、新たに「一之江線」の名前が与えられました。

 しかし市電となっても荒川放水路問題は解決しません。新設された小松川大橋を併用軌道化する選択肢もあったかもしれませんが、安価に利便性を向上するため、今井から亀戸、押上を経由して上野公園に至る「トロリーバス」(架線で電気を取り入れて走るバス)に置き換えられることになり、1952(昭和27)年に廃止されました。「江戸川線」は軌道から解き放たれることで、ようやく放水路を越えることができたのでした。

 そのトロリーバスも、東京メトロ(当時は営団)の東西線開業に先立って1968(昭和43)年に廃止され、同区間は現在に至るまで路線バスのみの運行となります。実はこの路線もルーツをたどれば葛飾バスで、1942(昭和17)年に東京市に移管されたものでした。