ソ連の傑作輸送機「An-12」、わずか9分の初飛行からどう大成? 姉妹機は×だったのに
旧ソ連のアントノフ設計局が手掛けた輸送機のなかで、傑作機となったもののひとつとなったのが、An-12です。この機の初飛行はわずか9分。そこからどうヒット機になったのでしょうか。
1957年12月16日初飛行
「世界最大の飛行機」とされたAn-225「ムリヤ」を手掛けた旧ソ連のアントノフ設計局は、An-225以外にも数多くの輸送機を手掛けてきました。なかでも傑作機のひとつとされるのが、1957年12月16日に初飛行したAn-12(AN-12)です。
アントノフAn-12(画像:Antonov Company)。
An-12は軍用輸送機としての役割をメインとし、全長約30m、全幅約40mの大きさで、最大5000 km程度を飛行することが可能です。エンジンは4発構成で、胴体上部に配置したプロペラ駆動のエンジンを左右にそれぞれ2基ずつ設置しています。また、短距離の離着陸性能にも優れており、600mもあれば着陸できます。空挺部隊が使用する際には、完全武装した落下傘兵100人が搭乗することが可能です。
一見するとAn-12は、ロッキード社製のロングセラーの軍用輸送機C-130「ハーキュリーズ」によく似ています。これは「用途、性能が同じ飛行機は似てくる」という言葉が当てはまるかもしれません。その一方で2機は機首の形状に違いがあり、An-12は旧ソ連機の機体では、おなじみだった透明な風防が設置され、前下方の視界が確保されています。
「東側諸国の傑作輸送機」であるAn-12は合計 1243 機が製造されました。この機は、どのように開発されたのでしょう。
An-12には、原型となった旅客機があります。100機以上生産され、1950年代末からアエロフロートでウクライナを中心に使用された「An-10」旅客機です。このAn-10は、ほぼ同形である一方で、エンジンが2発のAn-8軍用輸送機を大型化したモデルでした。
ただ、An-10は旅客機としては事故も多く、あまり評判の良い機体とはいえませんでした。それに対し、その派生型ともいえるAn-12は、なぜここまで傑作機に生まれ変わったのでしょうか。
An-12、An-10とどこが変わったの?
実はAn-12、先述の初飛行は、機体のトラブルが生じたと判断され、わずか9 分間で打ち切られました。スタートは順調ではなかったのです。たとえば、プロペラが左回転であったため、そのトルクで右に曲がる傾向があったり、着陸操作のクセが強く難しかったりするほか、An-10とともに横方向の安定性が低いという特性もありました。
こうしたことから、An-12では、尾翼の設計に改修を加えることになります。もっとも大きく変わった点は機体尾部で、An-12の垂直尾翼はAn-10のものより大型化。胴体後部も輸送機むけに改修されました。
アントノフAn-12(画像:Antonov Company)。
こうしてデビューにむけ準備を進めたAn-12は結果的として、C-130にこそ及ばないものの、様々なヴァリエーションも含め1972年までが製造されました。信頼性の高さや困難な気候条件でも運用できること、整備性の高さなどがヒットの要因とされています。
1979年から始まったアフガニスタン戦争でも投入され、そのなかでソ連側の戦死者を祖国へ返したことから、「ブラック・チューリップ」という愛称も与えられたほか、爆撃機としても使用されました。また、ウクライナが分離独立してからも運用が継続され、またウクライナの輸送機として使用されています。
また中国軍でも、An-12の性能が着目され、使用されることとなりましたが、やがて、自国で「Y-8」としてライセンス生産しています。またその後、Y-8をベースに、胴体の延長やシステムの更新を施したY-9という機体も開発されました。
※一部修正しました(12月17日13時30分)