多摩モノレール延伸の武蔵村山「鉄道100年お預け」の歴史 “西武新宿行き”なぜ実現せず
多摩都市モノレールの延伸計画が進む武蔵村山市。東京都で唯一「鉄道がない市」ですが、過去にはいくつもの鉄道敷設計画が浮上し、そのどれもが実現しなかったという経緯があります。
武蔵村山発・西武新宿行きの電車、開業見込みは結構あった?
東京都武蔵村山市への「多摩都市モノレール」延伸が、徐々に具体化してきました。現在の終点である上北台駅(東大和市)から北西へ、武蔵村山市を経てJR八高線の箱根ケ崎駅(瑞穂町)までの約7.2km。開業まであと10年以上はかかりそうですが、東京都内26市の中で唯一「鉄軌道がない市」として知られるこの街に、ついに鉄道が到達しそうです。
しかし、武蔵村山市に旅客鉄道が建設されるチャンスは、過去何度もありました。着工にされたものの開業に至らなかったケースもあり、「鉄道計画に振り回され続け、長年お預け」状態が100年ほど続いているともいえます。過去にあった武蔵村山の鉄道計画を見てみましょう。
西武園線の列車。西武園線はもともと武蔵村山方面へ延びるはずだった村山線の一部として開業した(宮武和多哉撮影)。
免許まで降りていたのに到達しなかった「西武村山線」
現在の武蔵村山市(旧・村山町)にあたるエリアでは、「村山軽便鉄道」が1915(大正5)年に箱根ケ崎〜村山(武蔵村山)〜東村山〜吉祥寺間(23.1km)で鉄道敷設の免許を交付されています。この頃に「村山貯水池」(多摩湖)の建設計画がちょうど持ち上がり、鉄道の目的は資材運搬にありましたが、地域ゆかりの人物が発起人に名を連ねていた中藤(現在の武蔵村山市)、奈良橋(現在の東大和市)などにも駅を設ける予定だったようです。
しかし、村山軽便鉄道の免許は9か月後、川越鉄道(現在の西武国分寺線・新宿線)へ譲渡されます。同社は幾度かの組織変更を経て西武鉄道(現在の西武鉄道とは異なる組織で「旧西武鉄道」と呼ばれる)となり、免許の一部を活用して高田馬場〜東村山間の「村山線」を開業。現在の西武新宿線のルートがほぼ出来上がりました。
さらに1930(昭和5)年には、村山線の延伸部として現在の西武園線にあたる東村山〜村山貯水池前(現在の西武園駅近く)間を開業。このまま残り区間の村山貯水池前〜箱根ケ崎間が開通すれば、いまの武蔵村山市から新宿方面への直通列車がどんどん運行されていたかもしれませんが、そうはなりませんでした。
「不況」「横田基地に土地提供」「汚職続発」武蔵村山の“お預け鉄道”事情
このころ、第一次世界大戦後のバブルが崩壊、時代はいわゆる“昭和恐慌”に突入します。資金難に陥った旧西武鉄道は度重なる着工・工事中止がたたって免許が失効、さらに戦争もあって建設はそのまま棚上げに。鉄道路線としては「村山線」の名称を残したまま、“村山には行かないけど東村山には行く”村山線として営業を続けていました。
終戦後の1945(昭和20)年11月には旧・武蔵野鉄道が中心となる現在の西武鉄道の体制となり、7年後の1952(昭和27)年、高田馬場〜西武新宿間の延伸が契機となり、村山線は東村山を境に「新宿線」「西武園線」として切り離されます。「村山線」の名前はここで消滅し、武蔵村山・箱根ケ崎にレールが伸びることなく今に至ります。
青梅街道をゆく立川バスが武蔵村山市の基幹的な交通機関。この青梅街道に並行して鉄道が通るはずだった(宮武和多哉撮影)。
武蔵村山にまつわる鉄道計画は、西武線だけではありません。また貨物鉄道だけは、以前から存在していました。貯水池建設のために開業したものの、(線路幅が狭く設備も貧弱な)軽便鉄道で、戦後に途中区間が米軍基地内となったため旅客化されなかった「羽村山口軽便鉄道」がそれです。
このほか、認可を受けた直後に運輸大臣(当時)への贈収賄が発覚し、多量の逮捕者を出したのち、着工前に会社ごと消滅した「武州鉄道」(吉祥寺〜箱根ケ崎〜秩父)も、今の武蔵村山市域を経由するはずでした。
“プリンスの故郷”武蔵村山は文字通りクルマ社会へ
のどかな農業都市だった村山はその後、都内有数の公営住宅(都営村山団地)や日産自動車(旧プリンス自動車)村山工場などが整備され、たった12年のあいだに村山村→村山町→武蔵村山市(単独市政施行)と進化を遂げます。
そして武蔵村山市は、市境から1kmほど南側を通過する西武拝島線(1968年開業)に、市のアクセス駅として1983(昭和58)年に日産自動車との共同出資で武蔵砂川駅(立川市)を整備します。しかし中心部からの距離が遠く、玄関口としての利用は今ひとつ。
しかし1998(平成10)年には多摩都市モノレールの立川北〜上北台間が開通し、武蔵村山市境から1kmほどの東大和市内にモノレールの3駅(上北台、桜街道、玉川上水)が誕生。ここでようやく、「武蔵村山市内から自転車でモノレールの駅に出て通勤・通学」というスタイルが定着します。
多摩都市モノレールの終点「上北台駅」。ここから西に大きく曲がって武蔵村山市内に入る予定(宮武和多哉撮影)。
2016年に武蔵村山市が住民に行ったアンケートでは、「買い物」や「住環境」などほとんどの項目で「交通が不便」「これで鉄道があれば言うことなし」と、市域まであとわずかに迫ったモノレールに触れる回答がきわめて多く見られました。
いま武蔵村山市では新青梅街道(青梅街道のバイパス)の拡幅工事が行われており、モノレールもこの中央分離帯に建設が予定されています。周囲にはイオンモールや既存の団地があり、沿道では商業施設やマンションを呼び込むための規制緩和も検討されています。この街にとってモノレールは、100年越しの鉄道というだけではなく、渋滞が続く青梅街道から新青梅街道へ「街の軸を作り替える作業」でもあるのです。
※一部修正しました(12月15日9時12分)。