山田陽翔が明かす5位指名不本意説の真相。「常に崖っぷちの気持ちでいますし、ゼロからやるつもりです」
一点を見つめながら、その時を待ち続けた。
10月20日、17時に始まったドラフト会議。その少し前に記者会見のテーブルに多賀章仁監督と並んで座った近江高の山田陽翔は、表情を変えることなく正面に設置されたモニターを見つめていた。
現在はプロに向けて体づくりに励んでいると語る山田陽翔
「ドラフト当日はとくに何も変わったことはなくて、前日も普通に眠れましたし、授業もいつもどおり受けました。朝からドキドキしたとか、ご飯を食べられなかったとか、そういうことはまったくなかったです」
"1位指名確実"と言われていたわけではなかったが、ドラフト会議が始まる前からふたりが揃って席に着いたのは、おそらく多賀監督の計らいもあったのだろう。
だが、1位指名選手12人が出揃うまで50分ほどかかり、そこから休憩をはさみ2位のウェーバー方式の指名に入るまでしばらく時間を要した。それでも山田は席を立ったり動いたりすることはなく、ただモニターだけを見つめていた。
3位以降の指名が始まると、山田の表情はいっそう引き締まる。球団名がコールされるたびに、目の前にいるカメラマンがレンズを向けるが、山田の名前はいっこうに呼ばれず、そのたびにシャッターを切ることなくレンズが下される。そんな時間が30分以上続いた。
そして18時36分、ようやく西武から5位指名を受け、山田の名前が会場に響いた。「やっとこの時が来た」と言わんばかりにシャッター音が鳴り続けたが、山田は表情を崩すわけでもなく、ただモニターを眺めていた。
そんな山田の姿に「思ったより下位指名だったから......」「やっと呼ばれたけど、入団に前向きではないのかな」といったコメントがSNS上であふれた。
当初、山田は「3位くらいで名前を呼んでもらえたらうれしい」と話していた。だから、周囲から懸念の声が挙がったのだろう。だが、この時の心境を山田はこう振り返る。
「あの時は、名前を呼ばれてどんなリアクションをすればいいのかわからなかったんです。笑っていいのか、下を向けばいいのか......。たしかに(待っている時間は)長かったですけど、どこの球団に名前を呼んでもらえるのか楽しみでした」
ずっと張り詰めた空気のなかで、固まってしまった表情を簡単に崩すことができなかった。ただ、入団を渋っていたのではないかという声に、山田は即座に反論した。
「それは絶対にないです。今年は高校生の右投手は少ないと言われていたなか、指名していただいてものすごく光栄でした。それよりもライオンズに縁を感じました」
近江のある滋賀は、西武の前オーナーの地元ということで、ライオンズのロゴマークをよく目にする。県内には中部から北部の地域に西武グループの近江鉄道という電車が走っており、近江高のある彦根市に本社がある。実際、近江野球部との関係も深く、近江鉄道が運営するバスを使用して遠征や大会に向かっていた。
ドラフトから目標が明確になった5位指名に対し、ドラフト会議直後の会見では「これが今の自分への評価」と冷静に受け止めていたが、あらためて今、山田は5位という順位をどう思っているのか。
「あのあと『5位は不本意』みたいなことを、僕が言っていたような記事があったんですけど、そんなことひと言も言ってないんですよ(苦笑)。たしかに、順位は高いほうではなかったですけど、プロに入れば順位は関係ないですし、見返すというか、それ以上の活躍をするしかないと思っています」
ドラフト当日は、取材を終えて帰宅すると、地元に住む同級生が自宅に祝福に来てくれたという。しかもライオンズカラーの青い花束をもらい「めちゃくちゃうれしかった」と振り返る。
とはいえ、緊張の1日から解放され、ひとりの時間になってからも、特別な感情を抱くことはなかった。
「よくドラフトを"運命の日"って言うじゃないですか。でも僕は、そんなふうにはまったく思っていなかったんです。ドラフトは人生を決める日ではあるんですが、僕はあの日から目標が具体的になったというか、『やるしかない』という気持ちしかなくて。あの日の夜は、細かいことがどうというより、頑張ろうとしか思えなかったですね」
小学校から中学、高校と常にチームのトップを走り続けてきた。とくに高校では、世代をリードする存在にまでなった。だが、プロは選ばれた者だけが集う世界だ。山田はまもなく始まる最高峰の舞台での戦いに強い思いを込める。
「常に崖っぷちの気持ちでいますし、またゼロからやるつもりです。入寮してからプロの練習についていけるように、今は体づくりに時間をかけています。筋トレ、体幹トレーニング、ランニング......。バットは振っていないですし、ピッチングもしていません。今はボールをいっさい触らず、ひたすら土台づくりです」
夏の甲子園が終わり、地元に戻ると数日後に2学期が始まり、ほどなくしてU 18の日本代表合宿、直後にアメリカ遠征。さらに、帰国後は栃木国体とハードなスケジュールが続き、ひっきりなしに取材も受けている。なかなか自分の時間を確保することが難しいのが現状だ。それでも連日、室内練習場にこもり鍛錬を積んでいる。
「高校生活があと1カ月くらいで終わるのは寂しいです。今は学校生活が楽しいですし、この当たり前の日常がずっと続いてほしいと思うこともあります。仲のいい友だちともうすぐ離れることになるのは寂しいですね」
球団の顔と言われる選手に今年の高校野球の"主役"と言っても過言ではなかった山田は、「甲子園の申し子」「世代ナンバーワン右腕」などさまざまな呼び声で注目を集めてきた。そんな2022年を山田はこう振り返る。
「甲子園で11勝したことをよく取り上げていただいているんですけど、自分は今でもそこまで実感がないんです。甲子園はどちらかというと、センバツよりも夏の甲子園の記憶のほうが残っています。ただ、センバツ決勝で松尾(汐恩/大阪桐蔭→DeNA1位指名)に打たれたホームランは今でも悔しいですね。
でも高校野球はとても楽しかったです。ケガをしたことを除けば......。ケガで野球ができなくなること(昨年秋に右ヒジの疲労骨折)が一番つらかったです。だから、ケガをしにくいフォームとか、ケガに対する意識なども高校で学びました。プロでは絶対にケガをしないように」
地元・滋賀で追い続けてきた日本一の目標は叶わなかったが、近江で過ごした3年間に後悔はない。
「これからは球団のために野球ができるように。プロになれば責任とかいろいろありますけど、最終的には球団の顔と言われるような選手になりたいです」
"近江ブルー"から"ライオンズブルー"の似合う選手に──。新たな目標を胸に秘め、山田はゆっくりと次のステージに向け準備を重ねている。