まさに「医療という名の地獄絵図」があった…医師が療養病院の大部屋で見た"不要な延命治療"という凄惨
※本稿は、森田洋之『日本の医療の不都合な真実』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■慢性疾患の患者の多くは自宅に帰ることが可能
世界一病床が多い日本ですが、その多くは「慢性疾患の患者さん」で占められています。
よくイメージされるような、「大きな手術や治療などで入院が必要な患者さん」は、一部に過ぎないのです。
そして私の経験上、入院している慢性疾患の患者さんの多くは「住み慣れたわが家に帰りたい」と願っています。
実はこうした患者さんの多くは、自宅に帰ることができます。
また自宅での医療・介護サービス体制さえ整えば、ご家族の負担も最大限軽くなります。
しかも自宅に帰ることができた患者さんは、多くの場合元気になります。
病院では寝たきりで意識もなく、当初は「せめて最期は自宅でお看取りしましょう」と覚悟して退院したのに、自宅に帰った途端に元気に話したりご飯を食べたりし始めた、というケースも多く経験しています。
どうしてこういうケースが見られるかと言えば、病院という空間がそもそも「治療の場所」であり、安全・安心が最優先されるため、基本的に、
・転倒が心配だから、「ベッドで横になり、安静にしていましょう」
・誤嚥(ごえん)や窒息(ちっそく)が心配だから、「口で食べるのは止めて(絶食)、管から栄養を入れましょう」
という対応になってしまうことが関係します。
医療はどうしても生活を制限する方向に向かうため、こうした対応により患者さんの体力がいっそう落ちてしまうことが一因として考えられるのです。
■「老と死」は医療で解決できない
人間の四苦と言われる「生老病死」ですが、実は病院や医療で解決できるのは「生」や「病」の部分のみです。
人間にとっての自然現象である「老」や「死」の部分については残念ながら現在の高度医療をもってしても解決できません。
欧米の先進国に比して日本で病院・病床が多いのは、この「老」や「死」の部分を医療や病院に依存する度合いが大きいことが要因であるようにも思えます。
日本人の死に場所は8割が病院ですが、アメリカは4割、オランダは3割です。
■療養病床の高齢患者の2分の1は入院の必要がない
自宅に帰ることもできる患者さんについて触れましたが、実はこういう状態の患者さんの入院を「社会的入院」と言ったりもします。
この言葉に正式な定義があるわけではありませんが、おおよそのイメージで説明すると次のようになります。
「入院治療の必要がないのに、家族の介護の事情だったり、介護施設の受け入れ事情だったり、いわゆる社会的な理由で退院ができないような状態」
この「社会的入院」の患者さんは、日本の病院にどのくらいいるのでしょうか。
印南(いんなみ)一路(いちろ)氏の『「社会的入院」の研究』によると、一般病床に入院中の高齢患者の3分の1(約17万人)、あるいは療養病床に入院中の高齢患者の2分の1(約15万人)が「社会的入院」だったといいます。
簡単に言うと、入院中の高齢患者の多くが、治療の必要性が乏しく、医療というより介護に近いイメージの入院だということです。
高齢化が進んだ日本では、医療の形も変化しているわけです。
■高齢者の貴重な人生を台無しにしている
そして同書では、「廃用症候群(寝かせきりによって高齢者の身体機能がかえって奪われること)」を問題視して、こう述べています。
「医療の必要性が小さいのに、社会的な理由で入院したり入院を継続したりすることは、(中略)高齢者の貴重な残りの人生を台無しにする可能性がある」と。
日本では廃用症候群による寝たきり(寝かせきり)の患者さんの数が非常に多いのです。
近年は回復期病床(リハビリ専門病院)など、リハビリを重視する病院も増えてきましたが、とはいえスタッフ不足などの問題があり、やはり病院では「寝かせきり(安静臥床)」の時間が長くなっていることが多いようです。
■医師を辞めようと思った、とある病院での光景
私は、医師という職業を辞そうと考えたことがこれまでに2回あります。
そのうちの1つ目は、前回の記事でご紹介した、「入院医療費と病床数の関係」のグラフを見たときですが、もう1つは、私が医師になりたての頃です。
療養病院で、意識なく延命されている患者さんたちが病棟を埋めている現実を見たのです。
医療という高度で崇高な技術が、本当に人間の幸福のために使われているのか疑いたくなるような光景がそこには広がっていました。
■「医療という名の地獄絵図」が広がっていた
それまでの私は、自分の医療知識を深め、医療技術を磨くことこそが「善」だと思っていました。
そうすることが患者さんのためになることだ、国民の幸福に貢献することなのだ、とまったく疑っていませんでした。
しかし、療養病院の大部屋で、ただただ白い天井を見つめたまま寝たきりの高齢者がずらっと並んで胃ろうから栄養を入れられている光景を見たとき、それまで自分が磨いてきた胃ろう造設術などの医療技術や医学的知識が「善」に思えなくなってしまったのです。
抱いていた世界観がガラガラと音を立てて崩れていくように感じました。
「医療という名の地獄絵図」に思えてしまったのです。これは本当につらいことでした。
高齢者や障害者は社会的弱者として病院に収容されやすくなっている存在です。
病院は病院で、それを良しとして安易に受け入れてしまってはいないか?
しかも病床を埋めたいがために?
私がこういう疑問を抱くようになったきっかけは、このとき目の当たりにした光景にあります。
■終末期医療には正解がない
一般的な医療の世界では、いわゆる「標準的(理想的)な術式、投薬法」など、ガイドライン的な「正解」があります。
この病気にはこの手術が一番、この病気には点滴でこの薬をどのくらいの量使用するといった、あらかじめ定められた規定や手順があるのです。
しかし、終末期医療の世界には「これが正解」と言える一定の道筋があるようで、実はあまりありません。
たとえば、超高齢で「老衰」としか言えないような状態のとき、また認知症の末期で寝たきり、というようなときです。
病院の医師が得意とする「治療」で解決できる問題ではすでになくなっていて、いわゆる「延命処置」しかできることがない。
「治療」に反応しない段階にいる患者さんの人生にどう向き合っていくのか、多くの管につながれて意識もなく「延命」されることが果たしてご本人の終末としてふさわしいのか……。
そんなデリケートな問題と対峙(たいじ)するとき、医学的な「正解」はそれほど大きな意味を持ちません。
その人にとっての幸福と、医学的「正解」とはまた別の話だからです。
■医師も迷いの中にいる
治療の専門家である多くの医師にとって、こういう問題は得意でないのかもしれません。
医師も迷いの中にいるのかもしれない、ということがよく表れている、会田(あいた)薫子(かおるこ)氏による研究データがあります。
「認知症が進行して食べられなくなった患者さん(現在は点滴で栄養補給中だが、点滴だけでは十分な栄養はとれない)にどの治療法を勧めますか?」という問いに対して、789人の医師から回答を得ています。
その結果が図表1です。
「点滴」が一番多く51%、「胃ろう」は意外に少なくて21%、「何もしない」医師も10%います。
ただ、一番多い「点滴」にしても、点滴だけでしっかり栄養がとれるとは言えないので、「これがベスト!」というより、「何もしないよりはいまの点滴を続けたほうがいいかな」といった考えだと思います。
ちなみに、ここで回答されている医師は全員「日本老年医学会」会員なので、終末期医療に対しては強い思いのある先生方だと思います。その人たちの間でもこれだけ意見が分かれるということです。
■「死んでもいいから口から食べたい」が19%
もう一つ「あなた自身が患者さんだったらどうしますか?」という質問もあります。
自分自身の話になると、「何もしない」が一気に増え27%、また「死んでもいいから口から食べたい」が19%となります。
最初の質問への回答とまったく違う傾向です。
正解のない終末期医療の世界で、医師も戸惑っていることの表れかもしれません。
前回の記事の胃ろう造設手術数のデータでは、胃ろうの件数にかなり地域差があることがわかりました。
この結果も、正解がない世界で医師がみな戸惑っている証拠かもしれません。
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森田 洋之(もりた・ひろゆき)
医師/南日本ヘルスリサーチラボ代表
1971年、横浜生まれ。南日本ヘルスリサーチラボ代表。日本内科学会認定内科医、プライマリーケア指導医。一橋大学経済学部卒業後、宮崎医科大学医学部入学。宮崎県内で研修を終了し、2009年より北海道夕張市立診療所に勤務。同診療所所長を経て、鹿児島県で研究・執筆・診療を中心に活動。専門は在宅医療・地域医療・医療政策など。2020年、鹿児島県南九州市に、ひらやまのクリニックを開業。医療と介護の新たな連携スタイルを構築している。著書に『破綻からの奇蹟〜いま夕張市民から学ぶこと〜』(南日本ヘルスリサーチラボ)、『医療経済の嘘』(ポプラ新書)、『日本の医療の不都合な真実─コロナ禍で見えた「世界最高レベルの医療」の裏側』(幻冬舎新書)、『うらやましい孤独死─自分はどう死ぬ? 家族をどう看取る?』(フォレスト出版)などがある。
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(医師/南日本ヘルスリサーチラボ代表 森田 洋之)