「もう、ここには住んでいられない…」タワマン高層階に住むセレブ妻が、力なくつぶやいたワケ
「結婚しない男女が増えている」と言われる昨今。しかし東京の婚姻率は人口1,000人当たり5.5%で、なんと全国1位を誇っている。（※『令和2年 東京都人口動態統計年報』）
特に「東京都区部」と呼ばれる東京23区は、その中枢を担っているのだ。
ただ、結婚すればそれだけで幸せなのだろうか？
東京23区内は、エリアによって生活している人たちの特徴が全く異なり、価値観や悩みも違う。
それぞれの区に生息する夫婦が抱える、苦悩や問題とは…？
隣の芝生が青すぎる中央区夫婦の場合／浩二（33）の懸念
朝8時。この時間になると勝どきにある僕の自宅周辺は、出勤するサラリーマンや小学校へ行く子どもたち、そして保育園や幼稚園へ送り出す、パパママたちで賑やかになる。
ただタワマンに住む者としては、やや苦痛な時間でもあるのだ。なぜならエレベーターに乗るのにも時間がかかるし、乗り込んだ時点で誰かに会ってしまうから。
「あら、柚ちゃんパパ！おはようございます〜」
「あぁ、小林さん。…おはようございます」
知らない人だといいけれど…。今日のように、高層階に住む小林さんの奥様に会った日なんかは大変だ。
「柚ちゃん、もう降りました？真夏さんは？」
「妻も娘も、もうすぐ出てくると思いますけど…」
「あら〜、そうですか。柚ちゃんパパは今から出勤ですか？」
「はい。今日は寒くなりそうですね」
適当に話を切り上げつつ、会釈をしてから足早にその場を後にする。ロビーを出てから振り返ると、頑張ってローンを組んで買ったタワマンがそびえていた。
― きっと帰宅したら、また真夏から小林さんの愚痴を聞くんだろうなぁ。
そんなことを考えながら、僕は大江戸線の入り口へと急いだ。
「ただい…」
「ねえ、浩二！今日小林さんの奥様に、エレベーターで会ったでしょ？」
「ただいま」を言い切る前から、ドアを開けるなり妻の真夏が走ってきた。今朝の時点で、こうなることは予想がついていたが…。
「うん。会ったよ」
「ちゃんと挨拶できた？変なこと言ってないよね？」
「言うわけないだろ。あんな短時間で」
「まぁ浩二の場合、外面は最高だからね」
褒められているのか貶されているのか良くわからないけれど、こういうモードに入った妻の言葉は聞き流すのが一番だ。
「浩二、とりあえず先に柚をお風呂に入れてくれない？」
「えぇ。お腹すいてるんだけど…」
そこまで言いかけたけれど、真夏が怒りモードに入る前に大人しく従うことにする。お風呂から上がって寝かしつけを終わらせると、ようやくビールにありつけた。
「ねぇ聞いた？小林さんのところ、もうプリスクールの準備始めてるみたい」
「へぇ、そうなんだ」
「うちはどうする？」
「いや、どうするって言われても…。中学受験でいいんじゃない？小学校までは公立でもいい気がするけどな」
僕自身、幼稚園から高校までずっと公立で、最終的に一橋大学を卒業した。だから私立へのこだわりがあまりないのだけれど、真夏はここ最近ずっとピリピリしている。
「それじゃダメなのよ」
「ダメって何が？」
「だって、他の人たちはみんな私立へ行くんだよ？」
真夏の言う「みんな」とは誰なのだろうか。柚が生まれたとき、妻はここまでではなかった。けれども3年前に勝どきのマンションへ引っ越してきてから、彼女はやたらと他人と比較するようになったのだ。
「浩二が頑張って働いてるのは知ってるよ？でもさ小林さんのところとか、やっぱりすごいじゃない…」
「そんなの比較されても、知らないよ！」
つい、声が大きくなる。
小林さんはうちのマンションの高層階に住んでいて、夫の啓介さんは有名な経営者だ。なんでも会社を複数所有しているらしい。
でも僕だって大手総合商社に勤め、家賃は周辺のタワーマンションの中でも一番高い。
2LDKの70平米で、約26万円。たしかに港区などに比べたら格安だけれども、真夏にも決して悪い暮らしはさせていないと思っている。
でも妻からすると全然足りないし、不満なのだろう。毎日のように誰かと比較しては、勝手に落ち込んでいる。
「…ごめん。大きな声出して」
「ううん。私もごめん」
こんなことが、日常茶飯事だった。引っ越してきてから、僕たち夫婦の間には見えない溝ができてしまった気がする。
翌朝。またいつもの変わらぬ1日が始まるとともに、同じような光景が繰り返される。
「あら、柚ちゃんパパ！おはようございます」
― うわあ、今日も会ってしまったか。
そう思いながら、僕もいつも通りの笑顔を返す。
「小林さん。おはようございます…」
いつも華やかで、朝から煌びやかなジュエリーを身につけている小林さん。だが今日は、どことなくその輝きが半減している気がした。
「小林さん、あの…」
そこまで言いかけると、13階から人が乗ってきた。なのでそれ以上彼女と話すこともできず、僕は仕方なく駅へと向かう。
変わらない街に、変わらない人。
だけど実は少しずつ、変化が訪れていたのだ。
その夜。久しぶりの会食で遅くなってしまい、家へ着いたのは23時を過ぎていた。もちろん帰宅すると、真夏と柚はスヤスヤと寝息を立てて寝ている。
そんな光景を見ると、僕がこの街に来てからずっと抱え込んでいる悶々とした気持ちがスッと消えていく。
僕は家族のために頑張ってきた。いや、2人がいるから頑張れていると言ったほうがいいかもしれない。
「…パパ、頑張るね」
でもたまに、急に怖くなるときもある。
この狭い街にはいろんな人が住んでいるけれど、似たような世帯年収の人が多く、同世代の子どもを育てているという共通項のある家庭が多い。
ただ一見横並びに見えるけれど、そこには確実に格差が存在しているのだ。
どのマンションか、そしてどの階に住んでいるかで大体の世帯年収がわかってしまうし、私立へ行かせるとなると学校のレベルで明確にランク付けされる。
「その渦中にいる真夏は大変だよな…」
僕は毎日会社へ出かける。でもここに生活のすべてがある妻は、もっと大変なのかもしれない。そんなことを思いながら、僕は熱い湯船に浸かった。
「ねぇ聞いた？小林さんのところ、引っ越すらしいよ」
真夏からそんな話を聞いたのは、小林さんとエレベーターで会った2週間後のことだった。
「えっ、なんで急に？あそこ分譲じゃなかったの？」
「そこまで詳しくは知らないけど…。なんでも、旦那さんの会社がうまくいかなくなったらしい」
「そうなんだ…」
「でもね、この話を聞いたときに思ったの」
柚の朝ご飯を作りながら、真夏がポツポツと話す。
「上を見ればキリがないけどさ…。安定した暮らしを送れてる今の私たちって、最高に幸せなんだなと思って」
「そうだね」
「浩二、いつもありがとう。家族のために働いてくれて。そして私たち家族が安心してここに住めるよう、守ってくれてありがとう」
真夏の言葉に、僕は朝から胸がジンと熱くなった。
その週末。僕たち家族は、自宅近くの公園で柚を遊ばせていた。
ハイブランドのショップが立ち並んでいるわけでもなければ、星付きの高級フレンチがあるわけでもない。
でも少し足を伸ばせば銀座にも行けるし、リバーサイドを散歩するのがとても気持ちいい。勝どきには、いいところがたくさんある。
つまり、物は考えようなのだ。同じ景色を見ていても、どうプラスに捉えるかで変わってくると思う。
「パパ、パ〜パ」
柚が呼んでいる。その隣で真夏も笑っている。
僕は笑顔で、愛娘の元へと走った。別にSNS映えもしないと思うし、至って平凡な暮らしかもしれない。
それでも僕たち夫婦は手を取り合って、自分たちなりの幸せを見つけていこうと思う。
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