「夫の稼ぎが少ない」と、不満を漏らす港区妻。深夜に帰宅する彼を玄関で待ち構えて、放った一言は
「結婚しない男女が増えている」と言われる昨今。しかし東京の婚姻率は人口1,000人当たり5.5%で、なんと全国1位を誇っている。（※『令和2年 東京都人口動態統計年報』）
特に「東京都区部」と呼ばれる東京23区は、その中枢を担っているのだ。
ただ、結婚すればそれだけで幸せなのだろうか？
東京23区内は、エリアによって生活している人たちの特徴が全く異なり、価値観や悩みも違う。
それぞれの区に生息する夫婦が抱える、苦悩や問題とは…？
港区タワマン夫婦の場合／美羽（30）の杞憂
「もう17時か…」
どこからか『夕焼け小焼け』のメロディーが聞こえてきた。港区は毎日17時に、このチャイム音が街中に流れるのだ。
昼間はまだ気が紛れる。けれどこの合図とともに、港区に住んでいるわけじゃないフェイクな人たちで街が溢れかえる夜になると、急に焦り始める。
街が輝き始め、東京タワーも点灯し始める頃。自分の未熟さと、結局何も手に入れられていないような虚しさが襲ってくるから…。
50平米しかない狭い部屋から、私はわずかに見える東京タワーをぼうっと見つめる。
結婚するまでは、もっと上に行けるかもしれないという希望があった。自分の可能性は無限大だったので、別に怖くもなかったのだ。
けれども今は結婚し、港区のタワマン在住といえども特段いい部屋なわけでもない。それが妻として、そして女として、私のすべてを物語っている気がしている。
港区の夜景が苦しくて…
「ただいま」
「おかえりなさい。出張お疲れさま！ゴルフ、どうだった？」
「ん〜。まぁまぁかな。はい、これお土産ね」
夫の智樹が1泊2日の沖縄ゴルフ旅から帰ってきたのは、翌日の夕方のことだった。空港かどこかで買ったと思われるオレンジボックスに入った香水を渡され、私は静かに微笑む。
「ありがとう」
智樹は基本的に優しい。私を大切にしてくれて、愛情表現もちゃんとしてくれる。でもたまに、夫に対してやるせなさを感じてしまうときがあるのだ。
「あぁ、疲れた。美羽は何してたの？」
「今日はあっちゃんとランチしたよ。子どもも連れてきてたんだけど、可愛くてさ〜」
「そっか、よかったね！それにしても疲れたなあ」
夫は3年前に会社を辞め、不動産会社を立ち上げた。一応、そこそこうまくいっているようだ。
そういえば、私たちが出会った『サイタブリア』での食事会では、シャンパンやワインをポンポンと開けていた記憶がある。
当時28歳だった私は、どこかで結婚を焦っていた。だから目の前に現れた智樹にしがみついたのかもしれないと、今なら思う。
「あぁ、疲れた…」
彼に悪気はないのだろうけれど、たまに智樹は私の話を気だるそうに遮るときがある。そして何よりも、夫が発する「疲れた」という言葉が心底嫌いだった。
一生懸命働いてくれているのはわかっているし、こうやって六本木駅から徒歩5分のマンションに住まわせてくれて感謝しかない。
けれども港区内にはもっとハイクラスのタワマンがたくさんある。「六本木ヒルズレジデンス」に、「アークヒルズ 仙石山レジデンス」 「パークコート青山 ザ タワー」。
低層マンションまで含めると「ザ・パーク・レジデンシィズ・アット・ザ・リッツ・カールトン東京」や「広尾ガーデンフォレスト」などなど…。憧れの高級マンションを挙げればキリがない。
しかし私たちが住んでいるのは、そんなハイクラスマンションとは比べ物にならないレベル。家賃は28万でバレットパーキングもないのだ。
一般的には、いい暮らしの部類には入るかもしれない。でも一言で表すならば、中途半端だった。
それに独身時代の私は有名経営者と飲むことも多く、芸能人との飲み会にも数回呼ばれたことがある。そんな彼らを見てきてしまったせいか、今の智樹のレベルで「疲れた」を言われるたびにイラッとする。
― もっと成功してから言えば？
そう思ってしまうのだ。
「今夜も会食だから出かけてくるね」
「わかった。いってらっしゃい」
彼は浮気なんてしていなさそうだし、私だって智樹のことをちゃんと愛している。それでも、不満に思うこともあるのだ。
実は夫のカードも渡されていないので、生活費は全部私持ち。経営者の妻とはいえ、結構カツカツな暮らしだ。
だから既婚者の女友達が住んでいる超高級マンションにお呼ばれするたびに、羨ましくてたまらない気持ちになる。そして「もっとお金持ちの人と結婚していれば…」と思ってしまうのだ。
智樹を見送った後、50平米の家に私だけが残った。そんな私を、窓から3割しか見えない東京タワーが嘲笑っているかのように見える。
「何よ。私は今、幸せなんだから」
でも現実は、港区のきらめく夜景を見るたびに虚しさと焦りが増す一方だった。
翌日。私は友人の真美と、グランド ハイアット 東京の『フレンチ キッチン』で白ワインを飲みつつ、ディナーを楽しんでいた。
「たしかに、美羽はもっとすごいお金持ちの人と結婚するのかなとは思ってたけどね」
ライトアップされた欅坂を眺めながら最近の悩みを話すと、彼女はケタケタと笑ってそう言った。
独身時代から、友人と遊ぶたびにこの界隈へ来ていた。お茶やランチをするにしても便利だし、夕方から軽く一杯飲むのもずっとここ。気がつけば10年以上、港区で遊んでいる。
「港区にいるハイスペックな夫婦で、本当にうまくいってる人たちなんて何割だと思う？3割以下じゃない？その点、美羽はちゃんと愛し愛されて幸せじゃん」
気がつけば真美のグラスが空になっている。酔って饒舌になった彼女の話を聞きながら、私は不思議な気持ちに包まれていた。
「そんなに、みんなうまくいってないものなのかな？」
「なんでもお金で解決できる港区で、唯一買えないものって何かわかる？愛だよ、愛」
古いCMのようなセリフに、思わず笑ってしまう。
「みんな最初はお金と名声が欲しくて必死になって。高い家と高級外車をまずは目指すでしょ？でもそれらを手に入れても結局は満たされなくなるんだよ」
真美の言葉には説得力があった。
たしかに独身時代は、いつか港区の高級マンションに住まわせてくれる人と結婚しようと思っていた。
でも現にそういう人と知り合い、いい家に住めているのに…。いつの間にか欲望は大きくなり、高層階がいいだの部屋が狭いだのと文句を言っている。
「で、次は愛が欲しくて必死になるんだよ。港区に住んでいる限り上を見続けるから、永遠に満足できない。それが港区の負のスパイラルだね」
港区ブランドはやっぱり強いし、そういうのが好きな人の集まりだと思う。
そして港区は一度ハマると抜け出せない。
私も智樹のせいにして、グチグチ言っていたけれど…。自分自身のプライドと他人からの視線を気にして、しがみついているだけのような気がしてきた。
「お金で買えないのは、愛かぁ…」
◆
「美羽、ただいま〜」
その晩。上機嫌で帰ってきた夫を、私は珍しく玄関まで迎えに行ってみる。すると智樹は驚いた顔をしていた。
「え？どうした？…って、ごめん。美羽まだ起きてたの？」
「うん。智樹に会いたくて」
「はは、何それ。僕たちは夫婦なんだから、この先一生、毎日会えるじゃん」
彼の言葉に、ハッとなった。
愛情は、お金では買えない。もちろん港区だったらうっかりそれも買えそうだけど、本当の意味では買えない。
「智樹、ありがとうね」
「美羽、酔ってるの？…こちらこそいつもありがとう。俺、頑張るからさ。これからもよろしくね」
信頼できる一生涯のパートナーがいてくれること。愛すべき夫がいること。毎日忙しくて甘い誘惑が多いと、ついそのありがたさと尊さを忘れてしまう。
もしかすると、失ったときに初めて気づくのかもしれない。「あぁ。あのとき、最高に幸せだったな」と。
だからこそちゃんと智樹に向き合って、一緒に成長していける関係を築きたいと思った。
それに、港区に食らいつきながら頑張っている彼はカッコイイ。私も妻として、夫を支えるために頑張るべきことはたくさんある。
「港区で唯一買えない、大事なものを私たち夫婦は持っているからね…」
「ん？何か言った？」
「なんでもないよ！」
窓から見える、3割しか見えない東京タワー。でも今夜は温かく微笑んでいるように見えた。
▶前回：大金持ちの彼にプロポーズされた瞬間、なぜか絶望した女。2カラットの指輪も貰ったのに…
▶NEXT：11月14日 月曜更新予定
隣の芝生が青すぎる中央区夫婦
