彼氏にフラれた30歳女。2週間後に「新しい彼女」がモデルだと知って向かった先とは
レストランを予約してその予定を書き込むとき、私たちの心は一気に華やぐもの―。
なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。
これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。
▶前回：「ここ、来たことある…」彼が気合を入れて選んでくれたお店、元彼との思い出の場所だったら…
Vol.22 杏（30歳）が失ったもの、得たもの
金曜17時。大きな案件が無事に終わり、私はデスクで大きく伸びをした。
「お、終わった…！！」
ここ最近ずっと忙しかった。今日こそ早く帰宅しようと、六本木ヒルズのオフィスを足早に去る。でも外に出ると急に冷たい空気が私を突き刺し、思わず肩をすくめた。
プライベートのLINEに返信する時間さえもったいない。何より仕事で疲れ果てていると、その他のことがすべて億劫になってしまう。家はヘルパーさんがいないと、他人に見せられないくらい散らかる。
「そうだ、雄太に連絡をしないと」
スマホをカバンから取り出してLINEを見ると、未読が50件以上も溜まっていたが、その中には彼氏の雄太も含まれていた。
― 杏：雄太お疲れ！仕事終わったよ〜。今夜は何してるの？
「せっかくだから、今夜は雄太と飲みたいな」
そう思い、とりあえず広尾にある行きつけのお店でひとりワインを開け、雄太からの連絡を待つことにした。
でも結局この晩、返信が来ることはなかった。
しかし翌朝になっても雄太からの返信はなく、結局連絡が来たのは日曜の夕方だった。
― 雄太：杏、話があるんだけど。
嫌な予感がする。そして残念ながら、こういう嫌な予感は当たるものだ。
― 雄太：来週、時間取れる？
正直、来週も忙しい。月曜と、水曜から金曜まではクライアントとの会食。合間の火曜はどうしてもジムに行きたい。
でもこんなことを言っていたら、本当に雄太は離れていってしまうかもしれない。
― 杏：土曜はどうかな？
― 雄太：わかった。じゃあ土曜で。
LINEを打ち終わると、なぜか小さなため息が出た。
◆
約束の土曜日―。
シャンパンの美しい泡の背景に広がる夜景を見つめていると、雄太が目の前で、突然90度くらい垂直に頭を下げた。
「杏、ごめん。別れてほしい」
この言葉を聞いて私の頭に真っ先に浮かんだのは、別れ話の悲しみなどではない。
「別れ話をする時さえ、こんなちゃんとしたお店を押さえているのがなんとも雄太らしいな…」ということだった。
「そっか…。うん、そうだよね」
「杏、ごめん」
二人の間に、沈黙が流れる。その沈黙に耐えきれずシャンパンを飲んだけれど、良いヴィンテージのそれがいつもより苦く感じた。
「杏のこと、好きだったんだけど…。杏は俺のこと、眼中にないでしょ？俺はもっと一緒に同じ景色を見れる人というか、支えてくれる人が良かったというか…」
聞いてもいないのに、今日の雄太はよく喋る。
もともと、雄太は会社の同期だった。
数年前に彼が転職したけれど、東大卒で頭のキレる彼と話している時間は楽しかった。そしてそのスマートさに色気も感じていた。
「でも雄太だって、同業だからわかるでしょ？忙しい時に何もできない気持ち」
「わかるよ。だからこそ、違う感じの子がいいなと思ってさ…」
雄太の言葉に、思わず手が止まる。
「……ん？」
「あ……いやなんでもない」
雄太に新しい彼女ができたと知ったのは、この2週間後だった。
この業界は意外に狭い。みんなどこかでつながっているし、噂もすぐ回る。雄太の彼女が10歳も年下の売れていないモデルの子だと聞いた時は、さすがに声を出して笑ってしまった。
「ははは。何それ」
私と付き合っている時、雄太は散々「自立していて、頭の良い子がいい」と言っていた。「杏が、仕事に対して一生懸命な姿に惚れた」とも言っていた。
でも結局雄太が選んだのは、仕事一筋で結果ばかりを追い求めて他を蔑ろにしてしまう、不器用な女ではなかった。
綺麗で、雄太のことをちゃんと頼れる“器用な”女だった。
失恋さえも、良き人生経験に昇華させてくれる一皿
平静を装っていたけれど、昼間に雄太の新しい彼女の話を聞いてから、その日はずっと心がザワついていた。
幸い、今夜は時間がある。早々に仕事を切り上げ、私の中でのハレの日レストランである『K+（カゲロウプリュス）』へ行くことにした。
「予約していた佐藤です」
「お待ちしておりました」
ひとりで素敵なレストランを予約するのは、意外に勇気がいるもの。でもここはシェフが料理を作っているのを間近に見られるカウンター席が店の奥にあり、ひとりでも平気なのだ。
また自由にコースを組み立てられるのも魅力のひとつで、私のようにワガママで、その日の気分に合わせて食べたいタイプにはぴったりだ。
まずは飲み物を注文し、前菜を待つ。
柔らかくて優しい色をした「ドラピエ・ブリュット・ナチュール」が目の前のグラスに注がれていく。
一口飲むと、乾いた砂漠に命の水が吹き込まれたような錯覚を覚えるほど、じんわりとシャンパーニュの華やかさが体内に広がっていく。
「美味しい…」
でもそう呟いても、感動を分かち合える雄太がもう隣にはいない。
「そういえば。去年雄太と『エクアトゥール』に一緒に行ったな」
あの時は、何の記念日だっただろう。たしかあの日、雄太はずっと前から頑張って予約を取ってくれており、当日は少年のように嬉しそうに、私をここの姉妹店でもある『エクアトゥール』へと連れて行ってくれた。
「私、雄太のことこんなに好きだったんだ」
彼の笑顔を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。優しい雄太に甘え過ぎていた。同業だから忙しいのはわかってくれると、勝手に信じていた。
どうして、もっと優しくできなかったんだろう。できることはたくさんあったのに…。
そんな後悔と共に2杯ほどグラスワインを飲んだタイミングで、「ズワイ蟹のクリームコロッケ タルタルキャビアソース」が運ばれてきた。
ナイフとフォークを入れると、サクっと音がする。
至福の音を聞きながら半分を口に入れると、オマール海老から採ったアメリケーヌソースがズワイ蟹の旨味をさらに引き出し、濃厚な海の風味が口の中に広がっていく。
― “心が満たされる”ってこういうことか…。
さっきまで感傷的だったのに、美味しい料理を食べた途端に元気が出てきた。
雄太が新しい相手に、可愛らしい年下の女の子を選んだこと。それはある意味、必然のことかもしれない。
我が強く、忙しくなると連絡もマメにしてこない。経済的にも精神的にも頼ってこないし、勝手に人生を謳歌している女…。たしかに扱いづらいだろう。
でも、私はそんな自分が好きだ。
こうやって素敵なお店に、ひとりでも来ることができる。美味しい食事を自分のタイミングで、好きなように心ゆくまで堪能できる。ワインだって好きなヴィンテージを、誰かのご機嫌を伺うことなく自由に頼める。
「私って本当に、“可愛げ”がない女だな…」
自分でもつくづくそう思う。そんな自分が嫌になることもある。
でもそんな自分を丸ごと愛してあげたい。
心とお腹が満たされるにれ、そう思った。
「あぁ、幸せ」
カッペリーニを、卵ベースのクリームソースで和えた「雲丹をふんだんに使った冷製カルボナーラ」を完食すると、全身が多幸感に包まれていた。
そして気がつけば、振られてから一度も泣いていなかったのに、一粒の涙が私の頬を伝っていた。
私は、悲しかったり辛かったりするときに泣く女じゃない。
幸せを感じたときに、嬉し涙を流す女だったと初めて気がついた。
そして「私は大丈夫。だって、強いから」そう自分自身に言い聞かせながら、お店を後にして西麻布の交差点方面へと歩き出した。
▶前回：「ここ、来たことある…」彼が気合を入れて選んでくれたお店、元彼との思い出の場所だったら…
▶1話目はこちら：港区女子が一晩でハマった男。しかし2人の仲を引き裂こうとする影が…
