「これ、異常だよ…」憧れの医者と結婚したものの。女が1年足らずで離婚を決意したワケ
女医の世界には「3分の1の法則」というものが存在する。
「生涯未婚」「結婚した後、離婚」「結婚生活を全うする」それぞれの割合が、ほぼ3分の1ずつとなるというものだ。
彼女たちを取り巻く一種異様な環境は、独特の生活スタイルを生み出し、オリジナリティーに富んだ生き方を肯定する。
それぞれの女医は、どんな1／3の結末をむかえるのか…。
◆これまでのあらすじ
亜香里は、中学の同窓会で、当時憧れていた孝治と再会する。お互いに医者となり、再会を果たしたその日に、孝治に誘われ関係を持ってしまうが…。
Vol.10 小児科・亜香里（31歳）の場合【後編】
「孝治君、あのね…。私、妊娠したみたいなの…」
亜香里が恐る恐る切り出すと、部屋の空気がピンと張り詰める。
孝治とは、中学の同窓会で再会し、二次会のあと流れで彼の家に行き、結ばれた。
彼との関係は半年ほど続いていたが、付き合っているといえるのか定かではなかったし、ましてや妊娠を受け入れてもらえる自信が亜香里にはなかった…。
「そうか…。じゃあ、ちゃんとしないといけないな」
すんなりと前向きな発言が出たことに、にわかに喜びをおぼえる。
だが、亜香里には拭いきれない“ある不安”があった。
「でも、孝治君。私以外にも、関係のある女性…いるよね？」
部屋を訪れるたびに感じていた、別の女性の影。
― この問題を無視するわけにはいかない…。
「…うん。ごめん」
いつもの自信に満ちた孝治の表情ではない。
「実は俺、高校のときに挫折ってやつを味わってさ。周りがスゲェ頭のいいやつばっかりで…。勉強もついていくのがやっとで、あるときプツッとヤル気が失せちゃったんだ」
― 孝治君でも、そんなことあるんだ…。
「そういうとき、寄ってくる女の子と遊んで、気を紛らわせてたんだよ。なんとか途中で持ち直して、医学部に進むことができたんだけど、しんどいときに女に逃げる癖が抜けなくてさ…」
孝治の告白を受け、亜香里はショックを受けたものの、彼が弱さをさらけだしてくれたことで、初めて心を通わせているような感覚になる。
「これからはちゃんとするから。とりあえず、籍だけでも入れよう」
孝治が話を進めようとするが、展開の早さに亜香里は戸惑いをおぼえる。
「でも、その前にご両親に挨拶しないと…」
「ああ、そうか。じゃあ亜香里の実家に行くから、予定立てといてよ」
「孝治君のところにも行かないと…」
「うちは…大丈夫だと思う。親父もクリニックが忙しいし。どっかタイミングが合ったときにでも行けばいいよ」
― え…！？そんな簡単でいいの？子どもが生まれて、家族になろうとしているのに…。
孝治の発言から、結婚というものを軽く捉えているように亜香里は、感じてしまう。
亜香里の不安は解消されるどころか、余計わだかまりが大きくなった。
◆
2週間後、亜香里は湯島にある実家に戻った。
当然、孝治を伴っての帰宅のはずだったが…。
テーブルの上に並ぶご馳走を眺めながら、亜香里が頭を下げる。
「ごめんね。孝治さん、当直明けで休みのはずだったんだけど、緊急のオペが入っちゃったみたいで…」
今朝、孝治から電話がかかってきてそう伝えられ、「ご両親によろしく」とだけ伝言を頼まれた。
「仕方ないわよ。お医者さんは忙しいんだし」
母親が、キッチンから鍋を運び、中央のコンロにのせて火にかける。
「うん、男は仕事が第一だ。またの機会に来ればいい。さあ、食べよう」
父親はそう言いながら、『人形町今半』から取り寄せた霜降り肉に箸を伸ばす。
― すき焼きなんて久しぶりだな…。
亜香里の実家では、何かあるとすき焼きを食べる習慣があった。
ただ、別段裕福な家庭だったわけではない。父親は大手製造メーカーの下請け工場を経営していて、母親はそこで経理を担当していた。
亜香里が医学部に進みたいと打ち明けたとき、すんなりと了承を得たものの、学費などの捻出に骨を折ったのであろうことはわかっている。
「うん、美味しい…」
サシの入った薄切り肉が、口のなかで溶けていき、ほんのり残った甘みに懐かしさをおぼえる。
― お父さんとお母さんには、2人でちゃんと挨拶したかったな…。
両親には大きな恩を感じているだけに、人生の節目の報告はしっかりおこなっておきたかった。
「向こうのご実家にも、近々挨拶に行くんだろう？」
「そうね。それはちゃんとしておいたほうがいいわ」
「う、うん…」
亜香里は返事を濁す。
実は先日、孝治の母親と電話で話をしていた。
孝治の意見同様、2人での挨拶はタイミングが合ったときでいいと言われた。
「コロナ禍だしね」と付け加えられたが、結婚に対する温度差を感じずにはいられなかった。
「そうそう。お土産も用意しておいたから、帰るとき忘れずに持っていってね」
両親の手厚いもてなしに、亜香里はますます気が咎めるのだった。
◆
数日後に籍を入れ、その半年後に亜香里は息子の大輝を出産。
コロナ禍というのもあり、付き添いもなく、ひとりだけでの出産となったが、寂しさの理由はそれとは違うところにあるような気がしていた。
退院後はひとりで大輝を抱き、タクシーで自宅に向かった。
孝治と亜香里の両親はそこで待っていてくれたが、迎えにこなかったことにやはり、違和感を感じる。
孝治は息子の誕生を喜んでいる様子はあるものの、育休を取ることもなく、育児はすべて亜香里に任せきりの状態となっていた。
そして、出産から3ヶ月が経ち、亜香里はすでに職場に復帰した。
ある日、勤務を終えてすぐに、病院のある神谷町から大輝を預けている麻布十番の保育園に向かった。
「ごめんねぇ。お迎え遅くなっちゃってぇ」
大輝に顔を寄せると、キャッキャッと嬉しそうに手を伸ばす。
再会の喜びも束の間、早々にベビーカーに乗せ、保育園をあとにする。
― ええと、スーパーでミルク用の水を買って、マンションのコンシェルジュが閉まらないうちにクリーニングも受け取らないと…。
歩きながらも、頭のなかでこれからの予定を組み立てる。
亜香里は、夜勤は免除されているものの、家事や育児をほぼひとりでこなしており、頭も体も常にフル稼働させる必要があった。
横断歩道の手前でベビーカーを止め、信号が変わるのを待つ。
そこで、亜香里は一瞬めまいをおぼえ、そのままフッと意識が途絶えたのだった…。
車のクラクションの音が耳に届いた。
亜香里はすぐに我に返る。自分が地面に横たわっているのがわかる。
― 大輝…!!
辺りを見回すと、ベビーカーが目に入った。なかには大輝の姿がある。
― 無事で良かった…。
立ち上がろうとすると、足に痛みが走る。
「大丈夫ですか？」
知らない女性が心配そうに声をかけてきた。
気がつくと、周りを4〜5人が囲んでいる。
「起きないほうがいいわよ。救急車、もうすぐ来るから」
その言葉を聞いて安心したせいか、亜香里は急激な眠気に襲われ、再び意識を失った。
◆
亜香里は、自宅近くの赤羽橋にある総合病院に搬送された。
倒れた原因は過労による貧血症状によるもので、頭を打っている可能性もあるため、念のためCT検査を済ませた。
孝治には連絡が入っていたはずだが、駆けつけてくることはなく、夜も遅くなってから車で迎えに来た。
「過労だって？お前、職場に戻るの早すぎたんじゃないか？」
― ええ…。第一声が、それなの…？
心配する様子もなく、まるで人ごとのような口調に、やりきれない思いが込み上げる。
大輝を後部座席のチャイルドシートにのせ、亜香里も隣に乗り込むと、さらに孝治が追い打ちをかけるように言った。
「育休だってまだまだ取れたんだろう？なんでそんな早く復帰なんかしたんだよ」
「小児病棟には、私のことを慕ってくれて、待っていてくれる子たちがたくさんいるから…」
「お前、自分の子どもと、よその子ども、どっちが大事なんだよ」
「そんなの、比べられるものではないし、比べるべきものでもないでしょう…」
「別に、仕事を辞めろって言ってるわけじゃないんだ。ほかにも、働き方あるだろう。非常勤にするとか…」
「あなたがもっと育児に協力してくれれば…」
日ごろの不満が、亜香里の口からポロポロとこぼれ落ちる。
そして、車に乗ってからずっと感じている、女性の香水の残り香が、いっそうその苛立ちを強くさせる。
◆
自宅に戻り、大輝を寝かしつけてから、亜香里はテーブルを挟んで孝治と向かい合う。
「今日、なんですぐ駆けつけてくれなかったの？」
亜香里が切り出すと、孝治が怪訝な表情を見せる。
「私はともかく、大輝のことは心配じゃなかったの？」
「いや、無事だって聞いてたから。それに、仕事もあったし…」
「嘘。女性と一緒だったんでしょう？」
亜香里の言葉に、孝治が怯む。図星のようだった。
そして亜香里は、胸に抱いた思いを丁寧に話し始める。
「私ね、あなたに憧れて、あなたを追いかけて医者になったの」
中学時代、勉強に力を注いだ理由は、成績のいい孝治に少しでも近づきたかったからだ。
優秀な成績を維持するうちに、自然と医師への道が拓け、それを辿って課される課題をこなしていくうちに目的地に到達した。
「医者になってどうしたいといか、正直、具体的なことは考えてなかった。ただ、あなたと同じ場所に立てているようで、嬉しかった」
孝治は、亜香里の言葉の真意をくみ取ろうとするように、静かに耳を傾ける。
「でもね、今は違う。私を必要としてくれる人たちのために、働きたい。それが、小児科の子どもたちなの。だから、仕事は疎かにしたくないし、働き方も変えたくない」
亜香里は、向かいに座る孝治を、強い意志をたたえた眼差しで見つめる。
「私は、母としても、医師としても、しっかり使命をまっとうしたいの」
亜香里の訴えに気圧されたように、孝治が口元を歪める。
「申し訳ないけど、あなたからは、家族を思う気持ちが感じられない。一緒にいることは、私だけじゃなく、あの子のためにもならないと思う…」
ベビーベッドのほうに亜香里は視線を向ける。
「そうか…。別れたい…ってことか？」
孝治の問いかけに、亜香里がうなずく。
「…でも、ひとりで育てるってわけにはいかないだろう？」
「それは大丈夫。実家の両親もいるから。そうやって助け合うのが、家族だから」
その瞬間、ベビーベッドのなかの大輝が、亜香里にエールでも送るかのように、大きななき声をあげた。
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