JAL会長就任会見で早期再建を強調した(Natsuki Sakai/アフロ)

 京セラの創業者で、同社名誉会長、元京都商工会議所会頭の稲盛和夫氏が、8月24日に老衰のために自宅で亡くなっていたことがわかった。90歳だった。

 京都新聞によると、喪主を長女の金澤しのぶさんが務め、葬儀・告別式は近親者でおこなった。後日、お別れの会を開く予定だという。

 かつて稲盛氏を何度となく取材したのが、経営評論家の故・梶原一明氏だ。梶原氏が最初に京セラ本社を訪ねたのは1983年の冬。稲盛氏が1959年にわずか8人で設立した京都セラミックは、そのとき資本金46億円、海外も含め従業員数1万人に近い大企業に成長していた。

 かつて、本誌の取材に梶原氏はこう応じている。

「雰囲気は町工場そのものでね。毎朝、役員も一緒になってモップやバケツを持って走り回って掃除していた。朝礼では『気をつけッ!』と軍隊調の号令をかけて。一言で言えば精神主義でまとまった集団だった」

 稲盛氏は当時50歳。前年に社名を京セラに変更、この年カメラメーカーのヤシカを買収している。文字どおり奇跡の急成長を遂げている最中だった。

「稲盛氏はすでに神格化されていた。『ご苦労さん』と声をかけられた女子社員が感激して泣きだすほど」(梶原氏)

 印象的だったのは社屋前に置かれた「敬天愛人」の石碑だった。故郷・鹿児島の英雄、西郷隆盛の座右の銘で、「天を敬(うやま)い、人を愛する」という意味。「大家族主義」を謳う稲盛氏が京セラの社是としている言葉だ。

 稲盛氏は旧制中学の受験に失敗して肺浸潤を病んでいたころ、「生長の家」創始者の谷口雅春の著書『生命の実相』に啓発された。「これが京セラ経営の土台になった」と梶原氏に語っている。

 その後、65歳のときに得度しているが、仏教的な宗教観が独特の稲盛哲学を生んだのは間違いないだろう。

 稲盛氏の名をさらに高めたのが、1984年の第二電電創業、2000年のKDDI設立だった。ビジネスのかたわら、経営塾を発足させて若手経営者を支援するなど、さまざまな場面で経営の “教祖” となっていく。

 ただし、稲盛氏はあくまで現実主義で、神格化されるような経営者ではないと梶原氏は語っている。

「本田宗一郎や松下幸之助には強烈な “引力” があったが、稲盛さんにそれは感じない。あえて言えばわかりやすいこと。そこが魅力かもしれません」

 2010年、稲盛氏は、戦後最大の負債を抱えて経営破綻した日本航空(JAL)の立て直しに奔走する。そのとき、多くのJAL社員を勇気づけた言葉がある。

「もうダメだと思ったときが仕事の始まり」

 もともと京セラのフィロソフィ(信念)として伝えられた言葉だ。企業再生においてまさにぴったりの言葉となり、JALは見事に経営を立て直すのだった――。

稲盛和夫氏(写真・アフロ)

 稲盛氏は、数多くのビジネス金言を本に記している。著書『働き方』『成功への情熱』『心を高める、経営を伸ばす』などから、一挙公開しよう。

●【自分の好きな仕事を求めるよりも、与えられた仕事を好きになることから始めよ。】

 最初は与えられた研究だったが、次第にファインセラミックスの魅力に取りつかれ、積極的に研究するようになった体験を語ったもの。

●【どんなに険しい山でも垂直に登り続けよう。】

 正しいと思えば常にストレート。周囲と簡単に妥協しないのが稲盛流だ。

●【よい匂いのする畑は「豊穣」であり、悪い匂いのする畑は「不毛」である。】

 南太平洋・ニューブリテン島でタロイモを作る村人たちが互いの畑と作物を評価する際のたとえ話。

●【「不燃性」の人は会社にいらない。勝手に燃えてくれる「自燃性」であってほしい。少なくとも私が近づくと燃える「可燃性」でなければならない。】

 言われる前にやるのが「自燃性」。言われたらやるのは「可燃性」。言われてもやらないのが「不燃性」。

●【バカな奴は単純なことを複雑に考える。普通の奴は複雑なことを複雑に考える。賢い奴は複雑なことを単純に考える。】

 これぞ語録のなかの語録といえそうな含蓄のある言葉だ。

●【次にやりたいのは、わたしたちには決してできないと人から言われたもの。】

 人が通らない道を歩くのが稲盛氏の哲学。新製品の開発も新事業への挑戦も、常にそうだったという。

●【頭のいい人には悲観論者が多い。】

 なまじ頭がいいと先が見えて動きが悪くなるので、稲盛氏は困難な事業にはあえて「おっちょこちょい」を起用するらしい。

●【仕事の成果=能力×熱意×考え方】

 京セラを創業して間もない稲盛氏が思いついた方程式。仕事で成功する人と失敗する人がいるのは、この3要素で決まるという。

●【自分の製品を抱きしめたい。】

 京セラ創業当初の実話。稲盛氏は完成した陶磁器製品を胸に抱いて乾燥させた。自社製品にそこまで愛情を注いだというエピソード。

●【状況の奴隷になるな。】

 周囲があれこれと口を出し混乱するばかりだったJALにとって、厳しい言葉だったに違いない。

●【「見える」まで考える。】

 最初は夢みたいなことでも、一生懸命に考えつくすことで「できる」と思えてくることを「見える」と表現したのだ。

●【私には、未来がハッキリと「見えていた」。】

 これは稲盛氏が第二電電で携帯電話事業(au)を始めたとき、周囲の人たちがみな否定するなか、やがて訪れる携帯電話時代を予見した言葉である。

●【真の無頼性とは、頼らないこと。頼らないということは、自由ということ。】

 三段論法だが、言わんとすることは、何者にも頼らずに自らを拠りどころとすることで、初めて真の創造ができる、ということのようだ。

●【「天職」とは出会うものではなく、自らつくり出すものなのです。】

 しかたなく入社した畑違いのメーカーで、しかたなく研究した新素材が、後に天職となるファインセラミックスだったという体験談。

●【目指すのは、ベストではなくてパーフェクト。】

「当社は常にベストを尽くす」と語ったフランスの大手企業の社長に対し、完璧主義者の稲盛氏が反論した言葉。ベストかパーフェクトかの論争は深夜にまで及び、ついに相手の社長に「あなたの言うとおりだ」と言わせた。

●【有意(ゆうい)注意】

 稲盛氏は完璧主義者。ものづくりでは最後の1%がミスにつながるからだ。「有意注意」とは常に意識を集中して取り組むこと。

●【「鈍な人材」はいつのまにか「非凡な人材」に変わってしまっている。】

 京セラの工場で働いていた中学卒の鈍な従業員が、20年後に京セラの部長になっていて稲盛氏が驚いた話。継続は力なり。

●【人間の能力は、未来に向かって限りなく伸びていく可能性を持っている。】

 人間は無限の可能性を持っているので、高く困難な目標を設定しようということ。稲盛氏の前で「できません」と言うのは絶対の禁句だったという。