芸能界「独立ラッシュ」の裏側は今も昔もカネと圧力!? - 渡邉裕二

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※この記事は2020年07月04日にBLOGOSで公開されたものです

コロナ禍の中で芸能界では俳優、タレント、モデルの退所・独立が相次いでいる。

最近ではジャニーズ事務所との契約を途中で解消して独立した元NEWSメンバーの手越祐也(32)が大きな話題となったが、今年3月以降では、女優の米倉涼子(44)やタレントの安田美沙子(38)をはじめ、タレントの岡田結実(20)、モデルの長谷川潤(34)、さらに、ここにきてタレントの神田うの(45)、モデルのローラ(30)までもが、その流れに加わった。

SMAPの独立から始まったタレントの事務所離れ

「SMAPのメンバー独立が引き金になったとも言えます。小泉今日子(54)やのん(能年玲奈=26)、満島ひかり(34)など女優、モデルなど女性の独立が目立ちます。基本的に待遇面での不満が独立のキッカケになっていますが、やはり独立ムードを高めたのは、昨今の公取委効果とも言えなくもないですね」(芸能記者)

事の発端は公正取引委員会が元SMAPの稲垣吾郎(45)、草磲剛(46)、香取慎吾(43)の3人をテレビに出演させないように前事務所のジャニーズが圧力をかけた疑いがあるとして調査した結果、「その疑いをもたれるような行為がある」として、公取委がジャニーズ事務所に対して口頭で注意したことにあった。この案件では、前事務所のレプロエンタテインメントとの間で揉めていた「のんについても該当する」と言われた。

「オスカープロモーションからの退所、独立の流れが目立ちますが、その一方でデビュー以来、お世話になってきた事務所からの独立というのも目立っています。ジャニーズは別として米倉、うの、川崎、ローラなんかがそうです。うのは31年間、米倉も27年間も前事務所に在籍していた。安田なんかもそうです。気持ちの中で積もり積もった不満があったのでしょう。ギャラなどを巡っては、本人はもちろんですが、実は家族の動きも大きいようです」(前出の芸能記者)

ここ最近の退所や独立では必ずと言っていいほど「円満独立」をアピールし、極力ネガティブな情報を抑えてはいる。が、それは表向きの話。実際には「今も昔も変わらない」(事情通)

事実、安田の場合も事務所の退社ではトラブルになっており「訴訟沙汰にまで発展している。結局はカネの問題になるので歩み寄ることは難しい。特に中核的なタレントの退社や独立というのは、利害も大きく簡単にはいかないところがあるんです」(プロダクション関係者)

確かに時代の流れもあって、退社や独立も容易になった。しかし、その一方では、現実の動きとして「圧力問題」が燻(くすぶ)っているのも事実だ。

「退社とか独立を巡ってのトラブルというのは、こと芸能界においては所属プロダクションに限らず、かつては映画界などにも伝統的にあったんです。つまり、この業界では常識。ある意味では構造的問題となっています」(芸能関係者)

独立を認めなかった映画界のしきたり

退社・独立を巡っては語り継がれている歴史的な事件を思い出す。それは「第1回ミス日本コンテスト」で見事、グランプリを獲得した女優の山本富士子(88)である。古参の芸能関係者が語る。

「かつて映画界には専属の映画俳優が他の映画会社に出演することを禁止した〝五社協定〟というのがあったんです。山本は、その協定に反発したことから、結果的に映画界から追放されるハメになりました」

山本は「ズバ抜けた美貌の持ち主」と話題となり「日本一の美女」とも言われた。

「ミス日本コンテスト」では、審査員の間でも〝注目の的〟だったそうで「満場一致で決定した」、しかも、当時「ミス日本」として公式訪米するなど戦後の混乱期に明るい話題をもたらしたとも。

当然、映画会社から引き合いになり、各社争奪戦の末に「大映」に入社し、1953年に長谷川一夫の「花の講道館」でデビューを果たした。さらに54年には「金色夜叉」(根上淳共演)、55年には「婦系図・湯島の白梅」(鶴田浩二共演)などのヒロインとして活躍するなど「看板女優として高い評価を受けた」(前出の古参芸能関係者)

その後、62年に作曲家・山本丈晴氏(2011年9月7日没)と結婚したが、デビューして10年目――63年のことだった。当時、「大映」との契約更新を控え、山本は、1年間の出演契約の条件を「大映2本、他社2本」と主張した。ところが大映は、この山本の条件を「受け入れられない」と突き返した。このため山本は「だったら契約の更新はせず、フリーに転身したい」と主張した。

この山本の主張に「冗談を言うな」と、当時、大映の永田雅一社長(1985年10月24日没)が激怒。さらに、永田社長は「フリーになるなら五社協定にかけて映画業界に関われないようにする」と言い放った。

「当時、永田社長は〝永田天皇〟と言われ映画界に大きな影響力を持っていました。ですから永田社長に逆らう映画人はいなかったのです。当然、周囲からは山本に『永田社長に詫びを入れた方がいい』と助言する者もいたそうです」(映画関係者)

ちなみに〝五社協定〟とは何か?映画関係者は語る。

「もともとは、大映の永田社長が提唱し東映、松竹、東宝、そして新東宝の5社で締結された協定でした。中身は、五社間で監督や専属俳優を引き抜くことを禁止した協定です。そればかりか監督、俳優の貸し出しについても廃止するとしていたのです」

当時、この協定の目的は日活をけん制するために締結したと言われていた。それだけに協定には日活が反発した。ところが、石原裕次郎や小林旭など、独自のスターを続々と発掘した日活も先々の「保身」もあって態度を柔軟化。結果的には協定に加盟した。このため、暫くは「六社協定」となっていたが、61年に新東宝が倒産したことから、再び「五社協定」に戻ったという経緯があった。

当時の映画界は「自社の守り」にこだわり、厳しい「専属制度」があった。そのため俳優に限らず監督も専属の場合は他社との交流が出来なかった。そういった中で、山本は「結婚もしたことだし、別の角度から自分を見つめ直したい」と希望。「何とか、お願いして他社の作品にも1本出られるようにしてもらった」という。

ただ、山本としては「結婚して、1年に10本も映画を撮っていたんじゃ、とても両立が出来ない。だったらフリーになって自分の意思で自由に仕事をしたかった」というのが本音だったようだが…。実際、山本は多忙で10年間に撮ってきた映画は103本にも上っていた。徹夜での撮影もザラだった。それも時代物は京都の撮影所、現代物は東京の多摩川撮影所と、東京と京都を行ったり来たりする毎日だった。

当初、山本が大映との間に結んだ契約は「3年経ったら自由契約」だった。しかし、その「自由契約」は守られず、10年間も契約を結んできた。その間、契約条件に関しては話し合いがもたれてきたが、最終的には「10年を一区切りにしたい」と思ったようだ。

ところが、永田社長は違った。映画会社5社で結んでいる〝五社協定〟をタテに「映画界からパージする」と山本を脅したと言われる。

だが、山本の意志は固かった。

契約が切れた1ヵ月後の63年2月28日、東京・有楽町の帝国ホテルで記者会見を開いた山本は「こんなことで映画に出られなくなるのだったら仕方ありません。自分の立場は守りたい。その方が生きがいもあるし人間らしい」と、堂々と〝フリー宣言〟した。その結果、山本と永田社長の間は最悪な状態に。両者の関係を見かねた映画関係者からは「仲介する」という声も上がったそうだが、山本は納得がいかず「もう女優をやめてもいい」とまで言い出した。

その結果、永田社長は、山本を一方的に解雇した上、それまで言い続けてきた〝五社協定〟を発動して、独立プロの映画を含め、全ての映画から山本を締め出してしまった。

「永田社長は映画ばかりではなく、舞台にも出演出来ないように圧力を加えたそうです。当時、映画界から締め出された山本に、菊田一夫氏から舞台出演のオファーが舞い込みましたが、それも白紙にしてしまったと言います。菊田氏も断腸の思いだったのでしょう。自ら記者会見まで開いて、山本に陳謝するという前代未聞の出来事もありました」(前出の古参芸能関係者)

山本は、当時のことについて、さまざまな週刊誌のインタビューで「会社(大映)とは、金銭面のことも含め全く問題もわだかまりもなかった。会社との契約についても、(当初、約束した通り)きちんと完了していた。ただ、お互いに感情的になっていたのかもしれない」と振り返っている。その一方で「せっかくお話をいただいても、次々に仕事が壊れていくのは耐えられなかった」とも語っていた。

ただ、そんな中でも山本は他社の映画に出演したことがあった。松竹専属の小津安二郎監督の「彼岸花」(58年)だ。「小津監督が山本にこだわったことから実現した」(前出の古参芸能関係者)と言われる。

五社協定は「人権蹂躙」と社会問題に

このように〝五社協定〟は、映画界に大きな波紋を広げていたこともあって社会問題となった。その結果「国会でも論議されたんです」(ベテラン芸能記者)

70年4月28日に開かれた第63回国会・文化委員会。参院議員で日本社会党(現社民党)の田中寿美子議員(1995年3月15日没)が問い質したのだ。

「改正著作権法案」での質疑で田中議員は、映画界が5社の独占企業であるということを前提に、公正取引委員会に対して、「山本富士子が全然、映画に出られないのはなぜか」と質問した。

映画監督を引き合いに出し「1社との間に契約上のトラブルが1つでも起きたら他の4社は、その監督の地位を剥奪してしまうことができる。全部干してしまうこともできる。これは監督でなくても、俳優も同じではないか」というのだ。

〝五社協定〟には人権蹂躙的な要素が含まれると言わんばかりの追求をしたと言われる。

田中議員に対して、公取委事務局経済部部長だった三代川敏三氏は「山本富士子さんの演技というものは山本富士子さんでなければできないところがある」と曖昧に答えたこともあり、大映が山本を一方的に解雇し、映画界からパージした姿勢には「人権蹂躙」という非難が上がった。

また、それまで及び腰だったメディアも世の中の動きに押され「五社協定の黒い霧」などと書くようになった。結局、大映は看板女優だった山本を失ったことで、映画館も経営が厳しくなり倒産に追い込まれた。一方の山本は2001年に、その功績を称えられ「紫綬褒章」を受章している。

事務所の圧力が通じなくなってきたネット時代

独立問題は今でも根元は変わっていない。ただ、当時と違うのは、今やネット時代。知名度と実力さえあれば、かつてのようにテレビに出演できなくてもYouTubeやSNSで、タレント自らがメディアを持って情報を発信できるようになった。

露出は保て、しかも利益は全て自分のものとなる。セルフマネジメントが容易になったことも独立に拍車をかけている。「テレビのバラエティー番組に出演するよりYouTubeなどに出るほうが収入が増えたなんていうタレントもいるほどですから、だったら…と思うタレントが出てくるのは当然です」(芸能記者)

コロナ禍で既存のプロダクションは大幅な減収となって混乱している時だけに、ドサクサ紛れに「今がチャンス」と退社、独立する俳優やタレント、モデルの動きは、ますます増えていきそうだ。