※この記事は2020年06月19日にBLOGOSで公開されたものです

緊急事態宣言が出されしばらく経った頃、ある友人が興味深い話を聞かせてくれた。

「コロナが流行りだして、急に祖母のことが心配になったんです。街でマスクが売ってるのを見つけたので、買って送ってあげました。そしたらその後すぐに、長年お世話になっている方から私宛に、やっぱりマスクが送られてきました。みんなでマスクを送り合う、謎のマスク外交が行われています」

“マスク外交”という言葉、面白いなと思うと同時に、これと似た気持ちは私の中にもたしかにあると感じた。

非日常を生きるためにオンラインではじまった「助け合い」

3月下旬から4月の上旬、コロナの感染拡大が深刻化し、緊急事態宣言が出されてからというもの、私はとても忙しく働いた。私の友人や、主宰するオンラインサロンのメンバーの中には、一人暮らしの若者や、幼い子を抱えるシングルマザー、それ以外にも、家庭が必ずしも安らげる場所でない人たちが少なくない。またもともと普通より感受性が強い人たちが多い。全国一斉休校と外出自粛要請が出され、突如として非日常が日常と化した日々の中、私の周りの人たちがなんとか健やかに生きていけるように助け合わなければと、言いようのない謎の使命感に駆られたのだ。

それで、あるときはオンラインパン焼き会を開いてみたり、またあるときはLINEのオープンチャットという機能で、「外出自粛期間中の子育てを労り合って乗り切る会」という誰でも参加可能なチャットグループを開設したりした(このグループは先日の緊急事態宣言解除に伴って一旦解散したが、開設時は常時150名程度の大きな集まりとなり、有志のママ3名が、グループの治安維持のために大活躍してくれた)。

多分、うちの近所のドラッグストアにマスクが売ってさえいれば、私もマスクを身近な人に送るだけ送って、それで十分気が済んだのだろうと思うけど、あいにく近所では長いことマスクの品切れが続いていたのだ。そのために、随分いろんなことをやった。

そしてそれは私だけではなかった。私の主宰するサロンの中でもやはり自然と、ここはひとつみんなで助け合っていこうという空気が、それまでにも増して自然と色濃くなっていったのだった。

あるメンバーは、せっかく家にいるのだから何か楽しい試みをと、毎日8時と15時の2回、Zoomを使ったリモートラジオ体操をスタートさせた。家族以外ほぼ誰とも顔を合わせない毎日の中で、決まった時間にZoomさえ繋げば見知った顔がそこにいて、昨日と同じようにラジオ体操をしている。ただそれだけのことなのに、特に緊急事態下ではなんとも言えない安心感があった。

また、リモートラジオ体操がスタートした後には、別のメンバーによって、オンライン幼稚園なる試みも始まった。これは4月半ば、自宅で仕事をしながら休園中の子供達のお世話をしているママメンバーたちから、「さすがに限界」という切実な声が聞こえ始めたことがきっかけだった。「妖怪こどもだまし」というあだ名がつくほどあらゆる子供に好かれる30代男性が園長となって、毎日午前11時に、こちらもやはりZoomで開園。遊び相手のほしい子供達と、子供達と遊びたい大人メンバーとが集まり、1時間半ほどZoomを繋げたままで過ごす。気まぐれに誰かが読み聞かせをしたり、絵を描いたりすることもあれば、何もしないこともある。何もしないでいることを実験するという裏の目的もあるらしい。こちらも、かれこれ1ヶ月以上続けられている。

このほかにも、オンラインピラティスやデザイン講座、映画鑑賞会など、振り返ってみるとこの2ヶ月、多くの人が自分以外の誰かのために、代わる代わる、それぞれの時間や技術を提供してくれた。

リスクによって得られなくなった「自分が自分として生きている」感覚

何もしなければ簡単に不安やストレスで押しつぶされそうな自粛生活を、それぞれのリソースを少しずつ分け合い、気を紛らせながら、なんとか協力して乗り越えていこう。そんな思いを共有できる人たちが身近にいることで私自身何度となく励まされてきたが、同時に、基本的には猜疑心の強い私が彼らに心から甘えることができたのは、一見献身的な行為の根底に、しかしたしかに、彼ら自身のための動機があると疑わずにいられたからである。

新しいウイルスの恐怖にさらされ、私たちは日常の中で、それまでより切実に命の危機を感じるようになった。そればかりか、自分が他人に感染させ、他人を死なせてしまうかもしれないという加害のリスクを絶えず抱えながら過ごすこととなってしまった。それでいて、自分の存在を無条件に肯定してくれる気心のしれた友人達と気軽に会うことさえままならない。少なくとも緊急事態宣言の発令された中では、自分が自分として生きていることをただ受容されている感覚が、一時的に極めて得にくくなってしまったように思えた。だからこそ私は、それが良いか悪いかは抜きにして、何もしないではいられなかったのだろうと思う。誰かを少しでも苦しみから遠ざけ、少しでも誰かの幸せに寄与することで、他ならぬ私自身が、自分は生きていていいのだという手応えを得たかった。そうしなければいられなかったし、実際に誰かが喜んでくれれば充足し、許された気持ちになり、ほんの一瞬でも、所在ない自分を打ち消すことができた。

マスク外交に勤しむ人や、オンラインイベントを毎日続けてくれているあの人達も、きっと少なからず同じような気持ちを根底に持っていたのではないかと思う。そんな彼らの善意に甘え、彼らに生かされる自分でいることで、彼ら自身もまた、私と同じように安堵を手にしてくれるはず。そう思えたから、何も気にせず彼らに甘え、頼ることができたのだ。

自宅と外の境界が曖昧に?自粛生活で見た「オンライン家族」の可能性

さて、そんな調子でオンラインツールを使い倒していつも以上に誰かと繋がり、誰かに頼り、誰かに頼られながら過ごした2ヶ月。改めて振り返ってみると、物理的なソーシャルディスタンスを乗り越えようとする一心で、一部の人たちとの精神的なディスタンスは、むしろぐっと縮まったようにも感じられる。 何しろ朝、小汚い部屋着に目もろくに開かない寝起きの顔のまま、複数の人たちと顔を合わせてラジオ体操をする。体操が終われば「良い一日を」と口々に言い合って解散。リモートワークと平行して、SlackやDiscordで友人たちと緊急性の低い会話を交わし、時間があるときはオンライン幼稚園で友人の子供達の遊び相手になる。幼稚園が終わればやっぱりまた仕事をはじめるものの、疲れたり飽きたりすればすぐにまたDiscordに集まり、最終的にはキーボードを叩くことさえ面倒になって、音声通話を繋げたまま仕事や家事に勤しむ。夜になれば、子供達を寝かしつけ仕事を追えたママたちと、22時頃から息抜きのオンライン飲み会をやることもある。

こんな風に、一見閉じた自宅の中に、インターネットを通じているとは言え、これまでになくどんどん外の人の顔と声が入り込んできて、また私自身も、これまで見せることのなかった家の中の私を、やはりインターネットを通じてどんどん外に出した。すると自ずと、これまでには明確にあった自分の精神的な内と外の境界がみるみるうちに曖昧になってきて、あるときふと気がつくと、インターネットの世界で、もはやみんなで一緒に共同生活でも営んでいるかのような気持ちになってきたのだ。

つまり今改めて思えば、私たちがこの2ヶ月の間にやってきたことというのは、普段家族と暮らしている人も、一人暮らしの人も、シングルマザーや、家庭が必ずしも安らげる場所でない人たちも、みんながここでは気を休め、よそ行きにならず、安心して誰かに頼ったり、頼られたりできる、「オンライン家族」を作ることだったのではないかと思う。

早寝早起きに夫婦仲の改善 自粛生活で生まれたさまざまなメリット

私が4月半ばに個人的な興味から実施したコロナによる生活意識調査によると、回答者のうち決して少なくない人が、突如余儀なくされた自粛生活に日頃得られない幸福を見出していた。通勤時間が減って早寝早起きできるようになり、健康になったという人。家族で過ごす時間が増えて、夫婦仲も良くなったという人。一方で、家の外に出られない、1人になれない、逃げ場のない中で、夫婦の不仲や子育ての大変さ、収入源など、さまざまな生活の困難に押しつぶされそうになっている人も確実にいた。それぞれの置かれた状況の中で、自分が人生で何を重視するのか、特に結婚や離婚、出産など、誰と生きていくのか、という問題と、多くの人がいやが上でも向き合うこととなったのではないだろうか。

1人では寂しい。しかし誰かと結婚したり、親になったりすれば、必然的に1人のときより俄然大きな責任を負うことになる。もちろん、日本の未来のことを思えば1人でも多くの人が親になってくれることの方が望ましいのだろうが、疑いもせず親にばかり子供の養育や教育の責任を課す日本社会で、責任に尻込みしないで、なんて安易に言うのは、正直に言えばどうしても気が引ける。

それでも本来、そもそも緊急事態にあろうがなかろうが、他者の幸せに寄与するというのは、私たちの生をかなりストレートに肯定してくれるものだろうと私は思う(やっぱり、それが良いのか悪いのかは別として)。真面目が故に漠然と植え付けられてきた理由もない後ろめたさや自信のなさから私たちが自由になるために取り得るべき対抗策、その一つはきっと、他人の人生に関わり、他人を生かす一助となること、他人の幸せに貢献することだろうと思う。であればこそそのチャンスは、本当はもっと日常の中に無数に転がっていて良いはずなのだ。誰かの人生にずっと責任を追い続けることはできない。無責任でいたい。でも、誰かを助けたり、勇気づけたり、誰かが幸せになる後押しはしたい。そんな人はきっと世の中にごまんといて、じゃあたとえばその「ごまん」を集めて余裕のある人、自分自身がそれを必要としている人が、代わる代わる困った誰かを幸せにする役目を担う。オンライン家族と過ごした日々を通じて、そんな関わりで人と人とが生きていくことの可能性について、考えた。

プロフィール
紫原 明子 (しはら あきこ)

愛と社会と家族について考えるエッセイスト。1982年福岡県生。18歳と14歳の子を持つシングルマザー。著書に『家族無計画』(朝日出版社)『りこんのこども』(マガジンハウス)。オフラインサロンもぐら会主宰。クロワッサンonline、AM、東洋経済オンライン、BLOGOS等、連載、寄稿多数。Twitter ID:@akitect