こじらせた正義が生んだ自粛警察 日本社会の同調圧力の実情は - 橋本愛喜

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※この記事は2020年06月12日にBLOGOSで公開されたものです

日本語教師に、職人業、トラックドライバー、そして現職のライター。新著『トラックドライバーにも言わせて』(新潮新書)が話題の橋本愛喜氏は、アメリカでの生活経験などを踏まえ、製造や運送業、労働問題、日米韓の文化的差異、人権問題など幅広いテーマで執筆を続けている。

連載第1回目のテーマは「自粛警察」。突撃動画を公開したり張り紙を張って店を閉めるよう求めたりする行動の背景にあるものは何か。その成り立ちと日本社会の現状を考えてもらった。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出自粛の要請期間中、SNSを埋め尽くした「○○チャレンジ」や「○○リレー」の類。単刀直入に言うと、私はこういう「バトンもの」が昔から非常に苦手だ。

1日一冊、「オススメ本」の紹介を7日間続け、次の人にバトンを渡す、いわゆる「ブックカバーチャレンジ」。これが、自著刊行のタイミングと重なりにっちもさっちもいかない中、6件回ってきた。また、「ジム閉鎖」によって半年続けてきたダイエットへのやる気が完全にどこかへ行き、40kgのバーベルを40本の「ガリガリ君」に持ち替えたところで「プッシュアップ(腕立て伏せ)チャレンジ」が2件やってくる。

そして、そもそもコメもロクに洗えないこの料理音痴に、「おむすびチャレンジ」なるものまでが3件回ってきた時には、思わず「うちの村の回覧板でもこんな頻繁に来んぞ」と天を仰いだ。

「時間や能力がないから」という理由ももちろんあったが、何より私にとってこれらが負担だったのは、そのバトンの正体が本でも筋肉でもおにぎりでもなく、「団結の強制」と「繋げる責任」から成る「同調圧力」だと感じたからだ。

この「同調圧力」は、近年巷でも徐々に聞かれるようになっていた言葉だ。が、上に示したGoogleトレンドのグラフからも分かるように、今春のコロナ禍でその注目度を一気に加速させている。前出の「チャレンジシリーズ」だけでなく、断る理由を探すのが難しい「Zoom飲み」や、「頑張ろうニッポン」、「コロナに負けるな」といった、やたらとポジティブなスローガンに同調圧力を感じたという人、さらには、リモートワークをして初めて今まで被っていた仕事上の同調圧力に気付いたという人も少なくないはずだ。

昨今日本に見られる「団結」疲れ。今回は、コロナ禍で浮き彫りになった日本の「同調圧力」と、それによってもたらされる弊害について考察してみたい。

日本における同調圧力

結局、私に届いたこれら「○○チャレンジ」のバトンは、遅れてやってきた「1日限定 幼少期の写真リレー」なるものなども含めると、計13件。「指名してもらっても構わないが、私はやらない」と、相手が抱える「繋げる責任」への負担に配慮しつつ、実質全て断った。

この性格は自分から見ても全く可愛げがないのだが、元々、何かに縛られたり括(くく)られたりすることが嫌いで、「暇だ」から延々始まるグループチャットはバイブ音すら消してしまうし、「これ今年流行るんで1着持ってたら便利ですよ」、「実は私も買っちゃいました」と店員に勧められた洋服は、全自動で「買わない」一択になる。

ワケあって色々な畑を渡り歩いてきた仕事も、日本語教師以外は、職人業、トラックドライバー、現職のライターと、「1人籠って黙々とする仕事」が多かったこと、人生で一度も正社員を経験してこなかったことに、今この原稿を書いていて改めて気付かされる。

そんな個人主義の立場からすると、今回のコロナ禍に限らず、日本では集団における「団結」や「我慢」を強いる場面がしょっちゅう目に付く。

一人ひとり顔を突き合わせて取材すると、様々な意見や欲求が聞こえてくるのに、いざ集団になると途端に空気を読み始め、「果たしてこの人たちはさっきあれほど生き生きと話していた人と本当に同一人物なんやろうか」と驚くこともしばしばだ。「日本人は個性がない」と言われるが、実際はそうではなく、「『環境』が個性を許さない」のだとつくづく思う。

こうした「個性殺し」の例でよく挙がるのが、「リクルートスーツ姿の就活生」だ。

頭のてっぺんから足の爪先まで同じ格好をした就活生が、「君の個性は?」の質問に自宅で必死に覚えてきた常套句で答える不気味さ。

この状況をある企業の人事部長に嘆くと、「一度全員をフラットにすること(同じ格好をさせること)で、初めて見えてくる個性がある」と返ってきたことがあるのだが、いやいやそんなワケない。その就活生の持つ「自由度」や「節度」に対する物差しを確認するためにも、やはり「個性」は「自由」から見出したほうがいいに決まっている。

が、茶髪の地毛を黒に染めさせる高校や、コロナ禍でマスク不足の中、この期に及んで「マスクは白でなければならない」とする小中学校がある以上(その後、「アベノマスク」じゃないとダメという、そのはるか上をゆく学校の登場で若干その非常識も今や可愛く映るが)、就活生の口から「真の個性」が語られることは恐らくない。

同調圧力を強いる「嫉妬」という感情

このような環境が日本にできた原因としてよく聞くのは、「島国だから」「戦時中、統率を取りやすくするよう教育したから」という意見だ。確かに今回のコロナ禍における外出自粛要請時には、国民精神総動員の「欲しがりません勝つまでは」感が日本中に漂って出ており、Yahoo!やGoogleでも「国民精神総動員」と検索すると第二検索ワードとして「コロナ」が勝手に立ち上がる。

が、近年の日本における同調圧力の裏には、それらとは別にもう1つ、「あるもの」が強く存在するように感じる。

「嫉妬」だ。

終身雇用が崩壊し、実力社会になった今、それまで横並びで走っていた世界から競争社会へ大きく様変わりすると、これまで以上に焦りや嫉妬が生み出されやすくなる。

とりわけ自分と共通する事項や関心事をサラッとやってのける人には、一方的に「抜け駆け感」を抱きやすく、“出た杭”と感じるや否や、同じ思いの人と共闘して地中深く見えなくなるまで殴り続け、再起不能にさえしようとするのだ。

しまいには、慈善活動をする人までをも「いい人ぶるな」とワケの分からない感覚で批判し始めるから、人の嫉妬には理性がないと毎度思う。

最近で言うと、ZOZO創業者の前澤友作氏がいい例だ。

普段から「お年玉企画」や「ひとり親応援基金」など、弱者や夢見る人たちへの慈善活動が称賛されている彼だが、過去のTwitterには「売名かよ」とする匿名のつぶやきが散見されていた。

国内におけるネームバリューが頭打ち状態になって久しい人間に、「売名かよ」とするズレ感がもはやコントでしかないことはさておき、たとえ売名であったとしても、自分の資金で名を売って何が悪いのか。名が売れ人が助かり、困る人間が1人も出ない中でこうした声が上がることに鑑みると、やはり善行に対する批判は、一種の「妬み嫉み」だと考えられる。

杭も出過ぎれば「妬みの対象」から外れるし、彼自身は元々打たれ負ける人ではないだろうが、こうした他人からの思わぬ嫉妬を買わぬように日頃から個性や欲望を抑える人が日本には少なくなく、そんな人達に出くわすと、毎度もったいないなと深く思うのだ。

自粛警察

そしてこの同調圧力に、後述する「こじらせた正義」と「外出自粛生活のストレス」が織り混ざり、今春産声を上げたのが、「自粛警察」だ。

緊急事態宣言時における彼らの働きっぷりはすごかった。

自粛要請中に外出する人をことごとく「非国民」扱いし、他県ナンバーのクルマやバイク、営業を続ける店に「自粛しろ」の張り紙を律義に張ってゆく。角ばった赤字で「オミセ シメロ マスクノムダ」と胡散臭さをわざわざ演出した怪文書風の張り紙が登場した時には、もはや彼らが“警察”でありたいのか“犯罪者”でありたいのか、もしくはやはりコントなのか、なんかもうよく分からなくなった。

私も先日、コロナ禍で日本中が自粛ムード一色の中、大型トラック専用の駐車場とシャワールームの併設によりドライバーから高い支持を得ていた某飲食チェーン店の本部に電話取材を申し入れたところ、まさかの答えに鉢合わせした。

「大変光栄なお話なんですが、今回は取材にお答えすることができそうにありません」

聞けば、周囲の飲食店が営業を自粛している中、当該店舗が営業していること、しかも称賛までされるような記事を書かれてしまっては肩身が狭くなり、今後営業しにくくなる、というのだ。

車体の大きな大型トラックにとって、大型車枠のある店は大変貴重な存在。とりわけコロナ禍においては、感染拡大防止対策として、各地に点在していたトラックドライバー用のシャワールームやコンビニのトイレが閉鎖になるなどしていたため、当該店舗の営業はドライバーにとっては感謝の的だった。

そんな状況下での、一方的な同調圧力やエセ警察の取り締まり。真の正義が正々堂々としていられないのは、なんとも皮肉な話である。

日本に蔓延る「こじらせた正義」

この自粛警察の根源にあるもの、それが、先述した「こじらせた正義」だ。

日本には「正義」を豪快にこじらせる人が実に多い。

その理由を本格的に追い求めて早いものでもう5年になるが、先日、明治時代の新聞データベースを眺めていたところ、「なんと新聞社さん聞いてください」から始まる、ある投書(読者が投稿する記事)が目に入る。

記事の内容は、「いくら文明開化が進んでも、てんぷらを立ち食いしている婦人は目に余る。気を付けないと新聞に出されるぞ」というもの(1875年5月20日読売新聞朝刊)。

ぎょっとして、他の投書も複数読んでみたのだが、同じような“告げ口投書”が数多く展開されており、自粛警察の歴史の深さを目の当たりにした。

「こじらせた正義」の持ち主は、自分の正義を貫くためなら、時として相手の人権を侵害することも法を犯すことも厭わない、とすることがある。それは無意識のうちになされることがほとんどだが、中には意識的にしている人もいる。

分かりやすい例が、「あおり運転」だろう。

あおり運転の中には、このこじらせた正義が元で生じるケースがよくある。正義感が強すぎるドライバーは、自分が優先である状況の中、相手の無理な割り込みや、お礼の合図がないなど、ちょっとしたルールやマナー違反でも見過ごすことができず、追いかけて「罰」や「制裁」を与えたくなる。そこで「証拠を取ってネットに上げねば」とスマホ片手に運転までし始めれば、完全な「こじらせ正義」のでき上がりと相成るのだ。

勝手なイメージからくる「不謹慎」

余談になるが、「自粛」や「こじらせた正義」を語るうえではもう1つ、「不謹慎」という言葉も取り上げておきたい。

正義をこじらせた人の中には、この言葉にもやたら敏感な人がいる。

20年ほど前、妻と幼い子どもを殺害したとして、少年が殺人や強姦致死などの罪に問われ死刑が確定する事件があった。遺族の夫には全国各地から多くの応援や同情の声が掛けられたのだが、その事件から約10年後、彼が再婚すると、その声援は一変。「どんな神経しているんだ、不謹慎だ」、「亡くなった奥さんや子どもがかわいそう」といったバッシングが浴びせられるようになった。

同件以外にも、某レイプ被害者の女性には、彼女が見せた一瞬の笑顔にも、「よくヘラヘラ笑ってられるな」、「やっぱり売名だったんじゃないか」という声。さらに、行方不明になった女児を捜索する母親には、ほほ笑んだり髪を染めたりしただけで、根拠もなく「オマエが犯人だろ」とする暴言までもが浴びせられる。

遺族や被害者は、笑ったり幸せになったりしてはいけないのだろうか。そんな勝手がどこにあるだろうか。

「被害者は生涯被害者のままでいなければならない」というのは、受け手の誠に勝手な「悲劇のヒーロー・ヒロイン像」の押し付けでしかない。「セカンド・レイプ」という言葉があるように、被害者や遺族はこうした世間の穿った目のせいで、「セカンド・ダメージ」とも戦わなければならない現状がある。

禊という文化

このように、彼らがこじらせた正義を正当化し、人をフルボッコにしても悪気を感じない背景には、日本の「禊(みそぎ)文化」が挙げられるのではと個人的に思っている。

日本に存在した「禊」や「切腹」という清算手段。罪や悪事を「何かしらの負荷を以って清算させよう」、「清算されるまでは許せぬ」とする考えは文化として存在し、しかもそれは潔ければ潔いほど評価されるという歴史があった。

現代において、有名人による不祥事でその「禊」の役割を果たしているのが、「記者会見」や「番組降板」だ。

今回のコロナ禍でいうと、お笑い芸人の岡村隆史さんの発言に対する過剰な反応や署名活動がそれにあたるだろう。

不祥事を起こした有名人に公の場での謝罪会見をしつこく求め、その反省の深さについて記者会見を開くスピードや挙動などで測る。少しでも気に食わない言動があれば、「あれはダメだった」、「誠意が伝わらなかった」などと、せっせと評価し始めるが、そのように謝罪の様子をジャッジし、「集団杭打ち」というネット私刑に処す人たちに、果たしてどれほど「本当に謝罪が必要な人たち」が存在するのだろうか。例えば不倫騒動を起こした際、彼らが本当に謝るべきは、テレビの前の視聴者なのだろうか。

決して個人主義が良く、集団主義が悪いというわけではない。東日本大震災においては、世界が称賛するほど強く美しい「絆」や「団結」という集団の力が日本にはあった。国の発展も、個人主義の人間だけではどうすることもできない。

しかし、集団には「赤信号でもみんなで渡れば怖くない」という心理が働くだけでなく、「みんなが渡るから自分も仕方なく渡ってしまう」、「渡らなかったら仲間外れにされる」という踏み絵的圧力がかかる危険性があることは、決して忘れてはならない。

そして社会的には、その「みんなで渡る赤信号」ほど怖いものはないことも。

つい先日、親戚の子どもと近くの公園に行くと、コロナ禍で学校に行けない小学生たちが、子ども界の永遠のヒットソング、「いけないんだいけないんだ~先生に言ってやろう~」を大合唱する光景があった。

10人ほどの子どもたちが笑いながら、マスクをしていない小学校低学年くらいの女児に指さし歌っているその光景を見た時、「自粛警察官」の成り立ちを垣間見た気がした。