イスラム教徒6割のマレーシアをコロナ禍が直撃 現地在住の日本人専門家が見た宗教と防災 - 松浦象平 - BLOGOS編集部
※この記事は2020年06月03日にBLOGOSで公開されたものです
約3千万人の人口を有するマレーシア。
主にマレー系、中国系、インド系の三大民族により構成されており、その内、国教であるイスラム教の信者は約6割を占める。
当国のマジョリティーであるイスラム教が国民の思考態度や社会的行動に与える影響は大きいことは過言ではなく、感染症や自然災害の管理や予防対策にも現れていると思われる。
宗教と人々の防災行動の関連性に関する調査や研究は限定されているが、その限られた数の文献の中で、イスラム教徒の多くが災害は「神の業※」によるものであり、人は苦境に置かれて試練を与えられていると信じているということを何度か耳にしてきた。
災害は日々の悪い行いを正すための神からの我々に対する暗示であるという考えもあるようである。そして、この状況を乗り越えるには、アッラーの擁護を祈願し、信仰心を一層高めるしかないと信じる人々は決して少なくない。
※神の業:Act of God
イスラム教の大集会でクラスター 東南アジアで最大の集団感染に
マレーシアで新型コロナウイルスの危機感が全国的に広まったのは、2月下旬、首都クアラルンプールで開催されたイスラム教の大集会でのクラスターが明らかになってからであった。
国内外からの約1万6千人の参加者が数日間にわたり、狭い会場で礼拝し、宿食をともにしたとのことであり、まさに3密の状態であったと言われている。
結果として、673人の感染が確認され、東南アジアで最大の集団感染の事例となってしまった。
その後、マレーシアの感染者数は日々増加し、一時、ASEAN諸国で最も感染者が多い国となったが、ここからの対応に目を見張るものがある。
マレーシア政府は、コロナ問題を公衆衛生上の問題から国家安全保障の問題と位置付け、ムヒディン新首相の下、世界的にも厳しいとされる事実上のロックダウンである活動制限令(MCO※)を3月18日に発令した。
※MCO:Movement Control Order
夜8時以降は外出禁止 ロックダウンで激変したマレーシア生活
活動制限令により現地の生活は激変した。
生活用品買い出しのための外出は1世帯1名に制限。スーパーではソーシャルディスタンス実施のため、長い列で待つことになり、入り口では検温、手の消毒、手袋が配布され、店内の人数も制限された。
市内のレストランやバーは出前を除き閉鎖され、ホームパーティや自宅のコンドミニアムの敷地内の散歩ですら禁止された。
学校も閉鎖されたため、息子の授業はすべてオンラインになり、仕事も自宅勤務となった。
さらに、夜8時以降の外出が禁止され、警察と国軍が路上検問を実施し、人々の行動を厳しく取り締まった。
ジョギング中の日本人らが逮捕 地元からは不満の声
このような状況下、外国人が多く暮らす自宅付近で活動制限令を無視してジョギングをしていた日本人4名を含む計11名の外国人が警察に逮捕されるというニュースが流れた。
これに対し、地元住民はSNS上で、「我々は地域コミュニティの健康を守るため活動制限令に忠実に従っているのに、外国人は自分勝手な行動を取っていいのか?」と不満を露わにしたという。
今後、しばらくの間、外国人の行動がシビアに監視されるのではないかと緊張感が走った。
イスラム教徒にとって最も重要な時期 断食など宗教行事にコロナが影響
活動制限令はその後、4回にわたり延長された(現フェーズは6月9日まで)。このムヒディン首相の政治判断による徹底した対策に安心感を覚えたが、やはり行動制限下の生活は息苦しいものである。
さらに困難な時期を過ごしたと言えるのはこの期間中、ラマダン(断食)やハリラヤ(ラマダン明けの祝祭※)といった宗教行事を迎えたイスラム教徒であろう。
※イスラム教最大の祝祭である「イード」をマレーシアでは「ハリラヤ」と呼ぶ
「Malaysians prepare for a different kind of Raya
(マレーシア人は、いつもとは違うハリラヤに備える)」
地元紙The Star(5月2日)
ラマダンとはムスリムが1ヶ月の間、日中の飲食を断つ「聖なる月」のこと。
イスラム教で義務とされる五行
信仰告白(シャハーダ)をより厳格に実行し信仰心を高める、ムスリムにとって一年の中で最も重要な時期である。
礼拝(サラー)
喜捨(ザカート)
断食(サウム)
巡礼(ハッジ)
ラマダン中に断食することは一般的によく知られているが、その他にも喫煙、性行為や喧嘩なども禁じられる。さらに、タラーウィーと呼ばれるラマダン中だけ行う礼拝もある。
マレーシア国民の連帯感が最高潮になるラマダン明けの祝祭も…
何かしら重々しい雰囲気と思われるラマダンであるが、実はとても賑やかで楽しい一面もある。
普段のラマダン中は、日没後の食事の時間になると、街には一気に活気が戻り、レストランやラマダン・バザールと呼ばれる路上の屋台には行列ができる。大晩餐会があちらこちらで展開されるのだ。
ラマダン明けのハリラヤになると、祝賀ムードは益々エスカレート。クアラルンプールなどの大都市で暮らす地方出身者はハリラヤ休暇を家族と過ごすため、一斉に帰省する。
また、この時期に多いのがオープン・ハウスだ。家族、親戚、友人、ご近所さん、職場の同僚、さらには知らない人までも家に招き入れ、食事を一日中振る舞い、ともに祝うのである。
一度、筆者がドライブ中、路上で信号待ちをしている時に、近くの住民から満面の笑顔で飲み物と食べ物を渡された時は、さすがに驚いた。ムスリム同士はもちろんのこと、マレーシア全国民の連帯感が最高潮になるのがハリラヤである。
「こんな事態は初めて」 礼拝やラマダン・バザールでの食事会が原則禁止に
しかし、今年はコロナの予防のため、礼拝やラマダン・バザールなどでの食事会は原則禁止となった。オープン・ハウスにおいても、不特定多数の訪問者が集合するような催しを取り締まると警察は警告している。
州を跨ぐ移動も禁止されたため、帰省できない多くの人が家族と離れたハリラヤを過ごすことになった。
自然災害、産業事故、政治危機などの様々な危機を経験してきたマレーシアだが、多くのマレーシア人の知人は「このような事態を目の当たりにするのは初めてだ」と口を揃える。
人々が集まる機会が多い時期であるからこそ、敢えて厳しい予防措置を取ったマレーシア政府。幸いにも、この措置の成果は、新規感染者数の確実な減少に現れ始めている。
日本の公衆衛生・防災対策の経験と知見をマレーシアに共有
イスラム教徒が6割を占め、科学的な説明よりも文化や社会の慣習に基づく、ある意味、運命・宿命論的な思考を持つ人が多い国マレーシア。
人々の防災行動や対策にどのような影響を与えるのであろうか。
日本との関わりとともに紹介する。
マレーシア政府は2011年、国際協力機構(JICA)の支援を受け、同政府の東方政策に基づく日本式工学教育を提供するマレーシア日本国際工科院(MJIIT※1)をマレーシア工科大学(UTM※2)に設立。
その約4年後に、防災科学研究センター(DPPC※3)をマレーシア日本国際工科院に設立した。
防災科学研究センターは、マレーシアと日本の防災分野の研究者や専門家が協働し、防災関連機関が科学技術の根拠に基づく対策を行えるようになるための研究を通じた支援と、災害管理に携わる中堅実務者向けの人材育成を行うことにより、マレーシアを含むASEAN各国の防災力の向上に貢献する防災ハブになることを目指している。
現在のコロナ対策においても、防災科学研究センターが実施する防災修士プログラム(MDRM※4)の卒業生の多くが初動対応や緊急医療の最前線で活躍しており、日本人講師から学んだ公衆衛生や応急・防災対策などに関する日本の知見がマレーシアの現場で活かされている。
※1 MJIIT:Malaysia-Japan International Institute of Technology
※2 UTM:Universiti Teknologi Malaysia
※3 DPPC:Disaster Preparedness and Prevention Center
※4 MDRM:Master of Disaster Risk Management
世界の防災力向上に役立つ日本の災害経験
日本は長年にわたる災害経験と防災対策の技術力を有しており、これまでも世界各国の防災力の向上に貢献してきた。
その一環として、日本は、防災対策のグローバル・アジェンダである「仙台防災枠組※」の策定にも大きく貢献し、同枠組が採択された2015年の国連世界防災会議を仙台市で主催した。(過去にも、「兵庫行動枠組(2005-2015)」を神戸市、「国際防災の10年(1990-1999)」を横浜市で主催し、防災の枠組が採択されてきた)
マレーシアで防災分野における効果的なプログラムを実施するには、上記のような日本の知見や世界的な動向を参考にしながら、多民族・多文化国家である同国の政治・経済の状況、自然環境の課題、日常生活の慣習など、様々な社会背景への考慮が必要となる。
マレーシア日本国際工科院では、これらの要素をバランス良く取り入れるべく、マレーシア、日本、そして時にはASEAN諸国の行政・研究機関、専門家、NGO、民間企業などのパートナーからの助言を基に防災プログラムを設計してきた。
※ Sendai Framework for Disaster Risk Reduction:2015-2030
防災と宗教、科学技術との関係を今後も議論
マレーシア、日本を含む世界各国が採用した前述の「仙台防災枠組」は、災害が発生してからの対応を繰り返すことよりも、災害リスクの把握、法整備の促進、リスク軽減のための防災投資、災害対応への備えの向上などといった事前準備を強化することを推奨している。
つまり、災害を運命的なものとして受け入れるのではなく、むしろ積極性を持って、あらゆる手段を講じて災害のリスクを軽減するべきだと言っているのである。
今回の新型コロナウイルスのような未曾有のパンデミックに対する事前準備は困難であったかもしれないが、少なくとも、新規感染の予防、また、将来的に大規模な感染症が発生した場合、今回の経験から学べる多くの教訓を防災対策に活かすことは可能であろう。防災と宗教、さらに科学技術との関係においては、今後も議論する余地が大いにある。
宗教・文化的要因が災害対策にプラスになる事例も
理論的な話はさておき、マレーシアの日常生活の中で、宗教・文化的な要因が災害対策や人々の防災行動にプラスの影響を与えている事例をいくつかここで紹介する。
イスラム教徒にとって重要な施設で市民組織であるマスジド(モスク)は、礼拝の場であるだけでなく、地域コミュニティを繋ぐ様々な機能を持っている。
マスジドの中には、保育園、宗教学校や多目的ホールなどが併設されているものもあり、教育・文化プログラム、健康相談などの社会福祉サービスが提供されている。
洪水常襲地では、雨季前に避難訓練などの防災プログラムを開催することもあり、災害が発生した場合には、マスジドの各施設を避難所として利用することができ、その際には、非ムスリムでも利用できることになっている。
また、前述のイスラム教の五行の一つである喜捨(ザカート)は、困窮者を救済するためのイスラム式の資金システムであるが、その管理者である各地の州政府は、災害時にその資金を被災者向けの義援金として生活支援や復興活動に活用することができる。
現在、コロナの影響で経済的に厳しい家庭や個人商店などが、既にザカート資金による援助を受けているようである。
マレーシア社会の強靭性を現地で実感
上記のように、マスジドを中心としたマレーシアの地域コミュニティは、一般的にソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が高く、人々の信頼関係と共通認識などから生まれる絆は、緊急時の対応や防災行動にプラスの作用がある。
また、上記で挙げた相互支援の仕組みは、日本の防災の基本でもある災害時の公助・自助・共助の「共助」と概念は同じである。(災害時の「公助」は行政による支援、「共助」は地域コミュニティの助け合い、「自助」は一人ひとりの自主行動)
今年、マレーシアは、いつもとは違うラマダンとハリラヤを迎えたが、政府の徹底した対策に加え、地域コミュニティの宗教・文化的な価値観と慣習に基づく行動で、新型コロナウイルスを乗り越えようとしている。
現状が解消されるには、今しばらく時間がかかることと思われるが、現地でその過程を見ながら、マレーシア社会のレジリエンス(強靭性)を実感しているところである。
* * *著者:松浦象平
独立行政法人国際協力機構(JICA)専門家(防災分野アドバイザー)、マレーシア日本国際工科院(MJIIT)客員准教授
民間金融機関勤務後、在ベトナム日本国大使館、国連開発計画(UNDP)フィリピン事務所、JICAベトナム事務所、大洋州広域防災アドバイザー、京都大学大学院地球環境学堂の研究員などを経て現職