木村花さん出演のテラスハウス 制作陣が作り出す“リアリティーショー”の実態 - 浮田哲
※この記事は2020年05月29日にBLOGOSで公開されたものです
女子プロレスラーの木村花さんが22歳の若さで亡くなった。出演する「テラスハウス」(フジテレビ)での彼女の言動をきっかけにSNSで誹謗中傷されたことで、精神的に追い込まれてしまったことが原因の自殺ではないかといわれている。
テラスハウスはいわゆる「リアリティーショー」と呼ばれるジャンルの番組で、番組冒頭で「テラスハウスは見ず知らずの男女6人が共同生活する様子を、ただただ記録したものです」と謳い、「台本は一切ございません」ということをウリにしていた。
視聴者はその売り文句を信じ、テラスハウスで展開する物語を“リアル”なものとして捉え、共同生活をしているという出演者を出演者本人の実像だと思い込んでしまう。ドラマや映画の中での演技を見て、演じる役者をその役柄から誹謗中傷するようなことが起こらないのは、それがフィクションであることを視聴者が共有しているからである。
この手の「共同生活をウォッチングする」という体裁の番組は「テラスハウス」が最初ではない。今までにも放送されてきたフォーマットだが、私のように長年テレビ番組を制作してきた者が見ると、「ただただ記録したもの」では全くないことがすぐに分かってしまうので、素直に見ることができないジャンルでもある。
コスチューム事件 撮影現場の実態とは
今回、木村さんがSNSで誹謗中傷される原因となったのは、番組内で起きた「コスチューム事件」がきっかけといわれている。彼女が大切にしている試合用のコスチュームを洗濯し、洗濯が終わったコスチュームがまだ洗濯槽に残っていたにもかかわらず、共同生活を営む男性の一人が自分の洗濯物をその上から入れて洗濯し、コスチュームごと乾燥機にかけてしまったという事件である。
自分の体に合わせて10万円以上かけて特注で製作したというコスチュームは、乾燥機にかけたことで縮んでしまい、着ることができなくなってしまったのである。番組では、縮んだコスチュームを手に、木村さんが共同生活を行う女性の友人のところに相談にやってくるというシーンが描かれるが、そのシーンを検証してみる。
シーンの冒頭は、友人が1人で絨毯の上に座っている広い画(部屋全体が映るサイズ)から始まり、木村さんがその画の中に入ってきて(フレームイン)、友人の横に座るのだが、木村さんが座る場所にはあらかじめ白い大型のクッションが置かれており、明らかに事前に「位置決め」が行われていることが分かる。
さらに言えば、彼女はカメラのレンズに非常に近いところから画面に入ってくるのだが、普通、人は歩くときにカメラにはぶつからないようにある程度の距離を空けるものだ。それではメリハリの効いた映像が撮影できないと考えるカメラマンが「すみません、もっとレンズに近いところを通ってもらえませんか」と注文をつける、というのは現場では極めてよく見かける光景である。
そして、そこまで考えると、この前には何があったかというと、「はい、カメラ回りました」「了解、では木村さんお願いします。3、2、1、」というスタッフの声が響く部屋、という光景が目に浮かぶ。
リアリティーの裏には完璧な絵作り
ここで「えっ、カメラマンが近くで撮影していたの!?」と驚く読者もいるかと思うが、この手のリアリティー番組は、カメラがあらかじめ部屋に仕掛けてあって、まるで防犯カメラのように共同生活を行う男女の姿を記録し続けているというように思っている(思わせている)フシもある。しかし、カットのひとつひとつの構図を見ると、絵作りは完璧で、それはプロのカメラマンがしっかりと狙っているからこそ撮れる映像である。
シーンはこの後、泣きながらコスチュームを友人に見せ、乾燥機にかけた男性に対するうらみつらみを申し立てる木村さんと、同意しながらなぐさめる友人の会話が続くのだが、その途中で映像は画角や撮影ポジションが違うカメラの映像にテンポ良くスイッチングされる。
カットを見ながら数えていくと最低3台のカメラでこのシーンが“収録”されていることが分かる。そして、2人の会話の後半ではスマホを取り出してLINEのやりとりを確認するシーンがあるのだが、この時はLINEの画面が文字が見えるサイズで大写しになる。
これはいわゆる「インサートカット」と呼ばれるもので、一通りシーンの撮影が終わったあと、もう一度スマホを取り出すシーンを彼女たちに再現してもらい、カメラマンが彼女たちの真後ろに回り、そこから肩越しに手元のスマホをアップで撮影したものである。そして、その部分を編集時に差し替えるとシーンは完成する。
ことほどさように、このシーンは極めて丁寧に撮影、編集されていることが分かってもらえたかと思う。ただ、驚くべきはそこで展開される木村さんと友人のまったく自然な会話と中身のリアリティーである。そのリアルさがあるからこそ、視聴者はカメラの映像が切り替わったことなど意識することなく、内容に没頭できる。
カメラ前という非日常 演者が思わず見せる変化
木村花さんが、カメラ前で演じた嘆き。これはリアルなのか非リアルなのか。
私はドキュメンタリー番組を専らとしてきたディレクターである。ある有名な女性アーティストに密着したドキュメンタリーを制作していた時の話をしたい。
夏フェスの本番前の楽屋でのワンシーン。その女性アーティストは楽屋にあてがわれたテントの中で発声練習を繰り返している。出番が近づくにつれ、緊張が高まり、発声をしながらテントの中を歩き回る彼女。そして、緊張のあまり思わず吐き出すため息ともうめき声ともつかぬ声。
本番前の緊張感を表す絶好のシーンで、ファンなら固唾を呑んで見つめるところである。私は大学の講義でこの番組を学生に見せながら、ある重大な事実に気がついた。それは、彼女はテントの中で歩き回っているのだが、それはカメラの前を行ったり来たりしているだけで、決してレンズに背中を向けることはない、ということと、「アー」と緊張のあまり漏らすため息は、カメラから顔が一番よく見える場所でしか漏らしていない、という事実である。
このことをもってこの女性アーティストをとんでもない食わせ者だ、などと言う気はさらさらない。それどころか、何万人もの大観客の前で歌う直前で、彼女は実際に吐きそうになるくらい緊張していたのである。
とはいえ、今の自分の姿がいずれ全国に放送されるという状態で、多分彼女は意識することなく「本番前の自分」を自然に演じきったのだと思う。これこそが一流のパフォーマーの証である。
リング上でもカメラ前でも一流のヒールだった木村花さん
そしてまた、木村花さんもリングの上ではヒール(悪役)として一流のパフォーマンスを見せていたのである。
カメラの前で、彼女は大切なコスチュームを失った女子プロレスラーとして、ごく自然に振る舞い、そして、次の男女6人が集まるリビングのシーンで、誤ってコスチュームを乾燥機にかけた男性に対して、毒づくのである。
そこで求められている自分は、ヒール役のプロレスラーとしての木村花であり、そこでも最高のパフォーマンスを見せた彼女。ところが、そのことでSNSを通じて罵詈雑言が浴びせかけられることになってしまったのである。
虚実の間に真実 映画に活かした是枝裕和監督
そこにカメラがある、というのは非日常的なことであり、そこで繰り広げられる日常というのは、どこか色のついた、出演者自身による自己演出の要素が加わったものにならざるを得ない。とはいえ日常とまったくかけ離れたものでもなく、いわば虚実を行き来する微妙な狭間である。そして、この狭間にも真実が宿ることを、制作者は自覚している。
これを映画の世界に巧みに取り込んだのが是枝裕和監督である。元々テレビのドキュメンタリー番組を制作していた彼は、そこで会得した虚実の狭間にある真実を鮮やかに映画にしてみせた。「誰も知らない」の子どもたちや「万引き家族」の家族たち。
フィクションでありながら、その垣根を越えて現実世界に侵入してきたような錯覚を観ている者に感じさせる演出は、強烈にリアリティーを主張しつつも、出演者には「これは映画である」というセーフティーネットが用意されている。
「物語を生み出そう」 出演者や制作者に暗黙の共犯関係
もし本当に見知らぬ男女6人を一つ屋根の下に住まわせ、隠しカメラを縦横に巡らせ、その生活の一部始終を余すことなく記録したら、これは「見世物」になるだろうか。私はそんな退屈な映像は、誰も見ないだろうと確信する。
そこで「物語を生み出そう」という暗黙の共犯関係が出演者にも、制作者にも共有される。あえて「暗黙」としたが、それほど微温的なものではなく、もっと露骨に「テラスハウスでの日常」の方向性を示す「大人」がいたことは容易に想像がつく。
木村さんをはじめ出演者は、そこで求められる自分を精一杯演じたのだと思う。しかも完全なフィクションではなく、時にリアルも求められ、自らも演じるという、22歳の女性には相当過酷と思われる精神的負担を押し付けながら。本人たちは、ヤラセかガチかといった単純な二元論では割り切れない混沌とした現実を生きることを余儀なくされていた。
「テラスハウス」で虚像を生きたつもりの木村さんに、実の世界から浴びせられた罵詈雑言。番組は「台本はありません」をモットーとし、フィクションというセーフティーネットも与えられない。
それが「リアリティー番組」の本質だとすれば、なんと罪作りなフォーマットであることか。
そんな虚実混沌の世界で最高のパフォーマンスを見せた木村さん。
今はただ、木村花さんのご冥福を心よりお祈りいたします。