※この記事は2020年05月25日にBLOGOSで公開されたものです

新型コロナウイルスの流行を受けて延期されていた中国の全国人民代表大会(国会に相当)が5月22日に開幕した。審議を通じて、香港に適用する新たな「国家安全法」の成立が確実視されている。これは国家分裂を招く行為などを禁じる内容とみられ、昨年6月から激化している香港の反体制デモを強烈に抑え込むことを念頭に入れているのは確実だ。

香港は1997年にイギリスから中国に返還された後も、一国二制度のもとで中国大陸とは異なる自由な社会環境を享受してきた。この一国二制度は、中英間での香港返還交渉のなかで、当時の中国側の最高指導者だった蠟小平が考案したトリッキーなルールである。

すなわち、「中国」というひとつの国家(一国)の内部に社会主義的な経済・社会の体制と、資本主義的な経済・社会体制にふたつの体制(二制度)が存在することを認め、さらに返還から50年間は香港の社会体制が変わらないことを約束したのだ。

2010年前後から「一国二制度」に変化

蠟小平がこうした制度を適用しようと考えた理由は、香港返還交渉がおこなわれた1980年代の時点での、中国大陸と香港の社会の相違があまりにも大きすぎたためである。

返還前、経済成長著しかった香港のGDPは中国本土のGDPの5分の1近くに達するなど中国大陸と香港との経済格差は非常に大きく、また南京条約の時代以来150年以上もイギリス植民地に組み込まれていた香港は、貧しい社会主義中国の「内地」とは価値観も大きく異なっていた。なにより、香港の透明度の高い金融市場は中国にとって得難い存在であり、その価値を毀損しない方法を考える必要があった。

ゆえに定められたのが一国二制度だ。香港には香港特別行政区基本法という「ミニ憲法」が設けられ、中国大陸とは異なる法体系を残すことになった。たとえば、共産党体制に批判的な言説を発表する行為は、中国内地の法律では「罪」になるが、言論の自由が保証された香港では罪にならない。罪状を理由に中国に引き渡されることもなかったわけである。

一国二制度はゼロ年代まではかなりうまくいっており、香港人の多くもこれを歓迎していた。当時までは中国の国力や経済力が限定的で、北京の共産党政権は香港に対してある程度の遠慮があり、また香港と中国内地との経済格差もまだまだ大きかったからだ。

だが、中国が大国化していく2010年ごろを境に、北京は香港への政治的関与を強化し、さらに香港経済の中国内地への従属傾向も強まる。これに対して若い世代を中心に反発が強まったことが、2014年の雨傘革命(雨傘運動)や、昨年の大規模な反体制デモへとつながっていくことになった。

法案成立なら“中国基準の法律”が香港にも

現在、話題となっている国家安全法に近い内容の法律については、返還以来の「ミニ憲法」香港基本法の23条に「反逆、国家分裂、反乱扇動、中央政府転覆を禁止する法律を自ら制定する」ことがもともと定められてはいた。

だが、これは表現の自由や報道の自由などの権利を脅かしかねないとする香港市民の抵抗感は強く、2003年に董建華行政長官(当時)が同様の法律制定を目指した際には、当時の香港では最大規模である約50万人が参加する反対デモが発生して頓挫している。

香港の社会の自由を担保する一国二制度の堅持は、香港の市民であればかなり「北京より」の政治的立場の人でも譲りがたい。昨年6月、林鄭月娥行政長官が成立を目指した逃亡犯条例改正案(中国本土を含む地域への犯罪容疑者の引き渡しを可能にする内容の法案)への反対運動に際して、1日で100~200万人規模の市民が参加する大規模な抗議運動が起きたのも、市民の間でこの法案に対して「一国二制度を壊す」ものだとする共通認識が出来上がっていたからだった。

今回の国家安全法が成立すれば、香港内での国家の分裂や政権転覆を招く行為――すなわち、従来は言論や表現の自由のもとで守られていた中国共産党への批判行為が「罪」となりかねない。これは中国基準の法律が一国二制度の壁を破って香港に侵入する事態だろう。昨年初夏に話題となった逃亡犯条例改正案と比較しても、今回のほうが大幅に一国二制度の枠を破っているのは間違いない。

法案は香港議会を実質的に迂回することも可能な「基本法付属文書3」の規定を使って導入される見通しだ。何人もの香港の民主派の論者が、今回の国家安全法について「一国二制度はすでに死んだ」と、一見するとかなり過激に聞こえる発言をおこなっているのは、相当の根拠があってのことである。

新型コロナの影響で異例づくしの全人代

そもそも、今回の全人代は異例づくしだった。まず、全人代の開幕が新型コロナの影響によって延期されたことからして珍しい事態である。だが、もっと異例なのは、政府活動報告をおこなった李克強が「予測困難な影響の要因に直面している。経済成長率については具体的な年間目標を提示しない」と、毎年恒例となっている全人代での経済成長率の数値目標を示さなかったことだ。

中国でコロナ禍が猛威を振るった今年1~3月の経済成長率がマイナスを記録しているなかで、あまり高い目標の数字を示せなかったということだろう。

ご存知の通り、中国は中国共産党の一党専制体制下にあるが、民意をもとにした選挙で選ばれていない共産党政権は、人民に対して常に「統治の正当性」を説明する必要に迫られている。従来、この説明の根拠となってきたのが順調な経済発展だった。「中国人民をこれほど豊かにできるのは中国共産党だけ」という論理によって、統治の正当性を説明してきたのである。

だが、今回のコロナ禍による景気後退のもとでは、そうした主張はおこないにくい。今回の全人代で李克強が経済成長率の目標について具体的な数字を挙げなかったのは、コロナ流行という不確実性の強い要因があることで、目標として挙げた数字を達成できなかった場合の混乱を恐れたためだったろう。

いっぽう、中国当局はコロナ対策向けの特別国債を1兆元(約15兆円)規模で発行するなど、積極的な財政政策によって景気を支えていく方針も打ち出している。

「国家安全法」は世論対策の側面も

香港を対象とした国家安全法の制定は、中国側の考えに立つならば、ある意味で「国内世論対策」の側面もある。

昨年の香港の反政府デモは、デモ隊側の行き過ぎた破壊行為や中国内地の中国人に対するヘイトスピーチなどもあって、中国内地の世論からの反発が強い。

「香港討つべし」的な雰囲気が強いなかで、中国当局としては毅然として香港を叩きのめす姿勢を国内向けにアピールする必要があったのは確かだ。むろん、中国の国内メディアはそういった香港のデモ隊の負の側面をより大きく報じているため、コロナ禍による求心力の低下を香港への締め付け姿勢を示すことでごまかす意図はあったと言えるだろう。

もちろん、これは法律を適用される香港の市民感情に対して中央政府がほとんど配慮をしていないことも意味している。

香港でさらなる混乱の可能性か

昨年6月、当初は平和的な形式でおこなわれていた香港での反政府デモは、警察側の暴力的な鎮圧行為や、また雨傘革命の時期から警察に強い恨みを持っている過激派の扇動、7月21日に郊外で発生した地元ヤクザによるデモ隊襲撃などが組み合わさることで、8月末ごろから急速に暴力性を強めるようになった。

対して香港警察側の鎮圧も過激化し、10月ごろからはデモとは無関係な通行中の車両や野次馬、取材中の外国人記者などに対しても容赦なく胡椒スプレーや催涙弾などを撃ち込むようになった。

街頭での過激なデモはコロナウイルスの流行とともに今年1月中旬以降はやや沈静化したが、香港ではウイルスの封じ込めがかなり成功していたこともあって、過激なデモと警官隊との衝突は継続。デモ隊側も警察等を標的にした爆弾闘争や、外国人を含む運動への批判者に対する街頭やインターネット上での吊し上げを盛んにおこなうようになっている。

今回の国家安全法の成立は、こうした混乱をいっそう助長させるかもしれない。

安田峰俊
中国ルポライター、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員。著書に『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』『性と欲望の中国』『さいはての中国』など多数。
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