「ネットの存在が思考停止を引き起こした」東浩紀が新型コロナ時代に考える人文知の価値 - 村上 隆則
※この記事は2020年05月25日にBLOGOSで公開されたものです
批評家・東浩紀氏が編集長を務める会員制メディア「ゲンロンα」がスタートした。新型コロナウイルスによって社会が混乱するなか、「人文系ポータルサイト」として始まった同メディアで東氏は何を目指しているのか。同氏の考えを聞いた。
東浩紀が人文系ポータルサイトを始めた理由
-- 東さんが編集長の新メディア、「ゲンロンα」がスタートしました。このメディアは「人文系ポータルサイト」ということになっていますが、なぜいま人文知を中心にした媒体を始めたのでしょうか
スタートとしてはシンプルで、ゲンロンでは「ゲンロンβ」という月刊誌をメルマガと電子書籍で出しているのですが、それ以外にも記事ごとに読みたい、バックナンバーを読みたいという要望があったので、会員制のサービスを立ち上げることにしました。
人文系ポータルサイトについては……、これは、「人文知とはなんなのか」ということにもなりますね。
僕は基本的に、今まで人間が人間について考えてきた知恵を、ちゃんと受け取って未来につなぐというのが人文知のスタンスだと思うんです。つまり、ゼロから始まる人文知はない。絶対に過去の哲学だったり文学だったりといったものの蓄積の上に存在しています。それはいわゆる自然科学とは違うんですね。過去の伝統、過去の文化といったものをちゃんと引き受けて前につなぐというのが、僕が考える人文知の基本的な軸です。
いま、新型コロナウイルスで世の中は大騒ぎしていますが、この状況下においても、僕はもっとそういうところがもっとあっていいと思っています。つまり、過去に感染症による被害はこれまで何度も起きていて、ある程度社会は感染症と共存してきた歴史がある。そうした人類社会の知恵、記憶みたいなものが、まずベースとして発信されるべきだと思っているんですね。ところが今はいかに感染症を抑え込むかという話にしかなっていない。
そういう過去の記憶を僕たちが失っていることが、今回の新型コロナによる危機でも見えていると思うので。そういうことに対しては違う視点を発することができるのかなと思っていますね。
-- 私たちが過去の記憶を失ってしまうというのは、どういうことでしょうか
たとえば8割の行動制限という数字が出ると、すぐにみんなそれに縛られて、過去の蓄積に学べることがあるにもかかわらず、事態の本質を見失ってしまう。メディアでも、たとえば今日の新宿駅では75%でしたとか、渋谷駅では78%でしたといった感じで取り上げる。もちろんエビデンスは大事ですが、数値目標は単なる目安でしかない。だけれども、数字をもらうとみんな安心するので、目の前の数字ばかり追い求めるようになる。これは常に感じているし、残念だなと思っています。
人文知というところに戻すと、大きく言えば文明と危機の共存みたいな話で、危険といえば危険、でも必要といえば必要だから、最終的にはどこで落とし所をつくるかという話ですよね。そこにはいろんな問題があって、生命の安全の問題もあれば、経済の問題もあり、また政治の問題もある。たとえば原発とかだと、国家の安全保障だって関わってくる。現実にはそれらが合わさっているなかで何かを決めなければいけない。そのときに人文知が必要ないということはありえないと思います。
「役に立った感じがしない」人文知の特徴
-- 人文知が必要というのは、感覚的にはわかります。一方で、実際にどのような役割が持てるんだろうというのが多くの人の疑問だと思いますが
それは文学部不要論とか、その手の話が議論されるときに常に言われていることですよね。つまり、これを勉強したからこれがわかるという、ちゃんとしたメルクマールがない。メルクマールがないので役に立った感じもないし、なんのためにお金を払っているのかもよくわからない。これが人文知の特徴なんです。ただ、全部が数値目標になって、達成度が測れるものだけが知識ではない。それ以外のものも人間にはいっぱいある。ところが、特にインターネット社会になってから、とにかくいろんなものが数値化されるようになった結果、あらゆる知識の形や言葉の形を数値目標に合うよう最適化していったんですよね。
-- 計測できる数値を中心に物事を考えてしまうと
たとえば、作品や言葉のような文化的なもので人を感動させることは数値にならない。けれども、アクセス数は数値になる。感動させることとアクセス数は本来なら全然違うものなのに、インターネットをやっていると、これが同じもののような気がしてしまうわけです。いろんな人に届くということとアクセス数って本当は全然違う。ところがアクセス数は測れても、人の心にどれだけ届いたかは測れないから、とりあえずアクセス数でビジネスを立ち上げようとなってしまう。
でもそれをやっていると、いつの間にかアクセス数を稼ぐための記事ばっかりになって、何をやりたかったのかわからなくなるわけですよ。実際、今はそんなものばっかりになっていると思いますが、まさにそうしたものに対する疑いの目を持つというか、「本当はこれだけではなかったんじゃないのか?」ということを問題提起するものとして人文知はあるんです。簡単に言うと、数字以外の大切なものがあるということですかね。ありきたりですが、最終的にはそういうことだと思います。
歴史を学ぶことは、「実はそんなに進歩してないぞ」と気付くこと
-- 古いものに注目が集まる例のひとつとして、今、カミュの『ペスト』が売れているという話もありますね
文学やいろんな作品、歴史に関心が向かっているのはいいことだと思います。ただ、カミュなんかが売れているのはいいことなんですが、たとえば世界で主導的な哲学者だということになっている、ユヴァル・ノア・ハラリ、彼が今回感染症について書いているのを見ると、「人類は科学を信じなければいけない、人類は進歩を信じなければいけない」という平板なメッセージなんですよね。
でも、本当は人類が過去の歴史を学ぶことって、「実はそんなに進歩してないぞ」ということに気付くことなんですよね。感染症に対する対策だって大して変わっていない。ロックダウンなんて何百年も前からされていることです。これだけITが発達した、ビッグデータで分析できる、シミュレーションの計算能力も高くなったといっても、やっていることはロックダウンと手洗いとうがいですからね。そういうことから自分たち人間の限界を知ることも人文的な知の非常に重要なところだと思うんですね。
-- 今回だけでなく3.11もそうでしたが、災害のたびに人間の無力さを知るというところはあるかもしれませんね
原発の問題にしても、いったん事故が起きると、たとえばチェルノブイリもそうですが、蓋をかぶせているだけなんですよね。蓋かぶせて、危険なものを取り出してどうするか。それも技術的に問題を解消するのではなく、地下に埋めるわけです。蓋をする、埋める、ですよ。大したことはできていない。そういうことについて少し離れたところから、「人類は大して進歩してないし、社会のパニックも毎回変わってないんだから、もう少し自分たちの限界を知っておこう」とメッセージを発する人たちはもっと必要だと思うんですよね。ゲンロンαもそういう立場になれたらいいなと思っています。
「ネットの存在が思考停止を引き起こした」
-- 最近東さんは、「コロナ・イデオロギー」とよくおっしゃっています
いま、オンラインで社会は完結できるというような話が出ていますが、それは幻想です。当たり前ですが、身体的接触がなければやはりいろんなもののクオリティも下がるし、そもそも宅配や、保育、介護といった身体的接触が必須の仕事をしている人たちもいる。その人たちがいるからこそ、オンラインでのビジネスやテレワークが実現できているんですよね。そういうことを全部忘れて、全部オンラインでいけると言っていることについて、僕は「コロナ・イデオロギー」と呼んでいます。
このコロナ・イデオロギーは、90年代の「カリフォルニアン・イデオロギー(情報技術が人間の可能性を最大限に引き出し、自由にするという観念)」の延長線上にあります。また、カリフォルニアン・イデオロギーのあと、リチャード・フロリダという経営学者が、これからの社会を導くのは「クリエイティブ・クラス」になると言って人気を博しました。クリエイティブ・クラスというのは、弁護士やアーティストや科学者など、シンボルを使って価値を生み出す人たちのことです。まさに今回、オンラインでいけると言ってる人たちは、このクリエイティブ・クラスなんですよね。
クリエイティブ・クラスとそうでない人たちの間には今でも経済格差がありますが、このコロナ・イデオロギーによって今後も社会はオンラインになっていくべきだという議論が進めば、間違いなく格差は開いていく。それは結局、感染症のリスクを社会全体で共有しないで、オンラインになれる人がオンラインになれない人に押しつける社会になっていくので、僕はそれに対しては反対を唱えていきたいなと思うんですね。
-- オンラインで済ませようという流れのなかで、政府などの権力が自由を制限することについても人々は理解を示しているように思いますが、これについてはどうですか
僕もそれには率直に言って驚いているんですよ。なんでこうなのか、僕もわからない。わからないというか、みんな実はそれほど自由を大切だと思ってなかったというか。去年、表現の自由が話題になっていましたが、集会の自由なんてある意味表現の自由よりもっともっと深いところにあるものです。そう考えると、集会禁止ってものすごく政治的な自由をつぶすものですよね。
先日、ニューヨークでユダヤ教の指導者が亡くなって、葬儀でユダヤ教徒が集まったところにニューヨーク市長が行って解散させたという報道がありました。これは彼らのコミュニティのまさに集会の自由に対する弾圧だし、普通は政治問題になると思います。こういうのが感染拡大だからしょうがないとスルーされていることにびっくりしています。なんでこういうことになってしまったのかな。だから、わからないですね。リベラルがなんでこんなに、この状況を受け入れてしまってるかというのは。
-- 一番大事だと言っていたはずなのに、あっさり手放してしまったという印象でしょうか
人と人とが会うということは、一番大事でしょう。それがなかったら、政治も権力も、権力批判も何もないですよ。全員Zoomでどうするんだということですよ。
これは変な言い方ですが、僕は今回ネットがなかったほうがよかったかもしれないと思っていて。もちろんネットがあって、いろいろできていることはありますが、あえて言えば、ネットがなかったら、もっとみんな考えたと思うんですよ。つまり、感染症がある状態でどうやって社会を回していくのか。一人ひとりが気をつけなければいけないけど、しかし社会をなくすわけにはいかないから、どうやって自分たちの行動を律するか、つまり社会へのあり方を変えるかということをもっと真剣に考えたと思うんですよね。ところが、ネットで顔は見られるから、別に会わないでもOKでしょうと言っている。
人が移動できないというのは、コミュニティも壊すし、親子関係だって壊しかねないすごいことです。そのことに対してもっと本当は真剣に考えなきゃいけなかったのに、「Zoomもあるし、UberEatsもあるし」と進んでしまった。今回、ネットの存在が思考停止を引き起こした感じがしますね。
「みんな、マンガや映画の見すぎ」
-- ネット万能論、科学万能論のようなものが復活してしまった?
そうです。人間が身体を持っているのはとても大事なことだし、特に教育なんか、面と向かってその人がどのような振る舞いをするのか、どんな佇まいでいるかが重要なんです。別のこと、たとえばゲンロンがやっている対談であれば、部屋に入った瞬間の挨拶の仕方だとか、そういうことが全部一体になって対談になるんですよね。フィジカルな接触を全部切ってしまったら、本当は社会というのはなくなってしまうんですよ。
みんな、マンガや映画の見すぎみたいなところがあって、人類にはいろんなことができると思いこんでいるような気がしますね。「ウイルスとの戦いに打ち勝つ」という言葉もそうだし、すごく映画的というか。先進国首脳のテレビ会議の映像なんかも、ハリウッド映画で見たような風景ですよね。
最近ではスマホが近くなったら接触履歴が残っていくシステムをつくろうというのもありますよね。あの発想もそうですが、でも実際人間はスマホなんて忘れるのかもしれないし、スマホを複数台持っているかもしれない。あれが完璧だったらいいですが、実際には完璧じゃないんですよ。
だから、ITによって社会で莫大な人間が勝手に動いているのを全部数理的なモデルで解析して、リスクが減らせるという考え方そのものが誇大妄想なんだと思うんですよね。その意味では、ここ10年間くらいずっと、AIやシンギュラリティといったIT社会の誇大妄想がどんどん膨らんできた時代だったということなのかもしれない。
-- 新型コロナのあとの出発点はどのようになると思いますか
やはり、ITだなんだと言っていたものの、自分たちは感染症ひとつ相手に何もできなかったじゃないかという話からスタートするべきでしょう。等身大の私たちが現実を認識しただけなので、僕はそれが健全でいいと思っています。その上で、人類は大して進化していないんだから、あんまり夢を持たないほうがいいぞということをちゃんと言っていく必要はあると思っています。
ただ、そうなるまでにはけっこうまだ時間がかかるのかもしれない。ただ、スマホで接触を記録する仕組みもそうですが、中途半端な、やたらと監視だけが強まっていく社会が出現するのはよくない。そういうことをしてもしょうがないんだというのは言っていかないと。
「ハプニング=誤配」がなければ言論のレベルは下がる
-- 東さんのこれまでの活動を知っていると、ネットやオンラインのやりとりについて批判的なことを不思議に思う人もいる気がしますが
僕はご存知のとおり、インターネットとかこういうことが好きなので、SNSもやっています。でも、SNSはダメだと思っている。うちのイベントスペースでもあるゲンロンカフェというところは、それこそオンライン飲み会とかオンライン授業をずっとやっていた会社なんですが、僕はそれはダメだと思っているわけです。ここがたぶん僕の立場や、ゲンロンという会社が簡単に理解されないところなんですが、とにかく、オンライン化はしているけれど、オンラインはダメだって言い続けているんですよ。
-- 難しいですね
言っていることとやっていることが違うように見えますからね。でもまあ、僕がずっとやってるのは結局そういうことなんです。たとえばゲンロンカフェなら、ニコ生で見ているお客さんのほうが現場に来ているお客さんより多い。けれども、あくまでも会話としてはそこにいる人のためにやってるし、顔を見て話すからこそ、登壇者も面白いことを言う。それをお客さんもわかっているから、会場に足を運びたいと思ってくれる。そういう生態系をずっとつくってきたので、オンラインを使ってオフラインの価値に目覚めさせるのは全然できると思います。
-- 基本的にはオフラインでのやり取りが大事だという立場なんですね
大事です。本当に大事ですね。ゲンロンはスクールとかもやっていますが、その特徴は、アフタースクールの飲み会が妙に充実しているということだったりします。ゲンロンの授業はどれも長いんですが、授業後に飲みに行く人たちが多い。
これも自然発生的にそうなっていったんですが、たとえば30人とか40人の授業があったら、20人くらいが徹夜で飲む変なスクールなんですよ。そうすると生徒間にもいいコミュニティができるし、講師が深夜まで残ってくれることもあるから、そこで貴重なコミュニケーションが生まれるんですよね。いわばハプニングのようなものなんですが、これこそが生徒のモチベーションや能力を上げていく。このハプニングがオンラインでは生まれないんですね。
-- ハプニングというのはまさに東さんがずっと言い続けている、「誤配」のことですね
そう。でも誤配は定義上、事前に売れないし数値化もできないんですよ。飲み会はあくまでも自発的に起こるし、ハプニングとして起こる。でも、生徒になった人間たちにとっては、そっちのほうが大事だという。
ゲンロンで僕はこのハプニングの部分をどうつくるかということをずっと心がけながらやってきたんですよね。だからこのハプニング、誤配の部分がなければ、いろんなコミュニケーションのクオリティが落ちるというのが僕の考えなんです。今、コロナ・イデオロギー的にすべてがオンラインになると発想すると、この部分を誰もつくれなくなってしまうんですよ。それが今心配してるところで、このままだと全体的に報道、取材、言論、全体のレベルが下がるだろうというのが僕の思っていることですね。
東氏の新刊『新対話篇』『哲学の誤配』がゲンロンショップで現在発売中
プロフィール
東 浩紀(あずま・ひろき):1971年生まれ。哲学者・作家。 株式会社ゲンロン前代表、同社で批評誌『ゲンロン』を刊行。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『ゲンロン0観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『テーマパーク化する地球』(ゲンロン)、他多数。 この4月に、新刊『新対話篇』『哲学の誤配』の2冊をゲンロンより同時発売。