※この記事は2020年05月20日にBLOGOSで公開されたものです

「俺コロナだ」と名乗り、地域社会に不安や混乱をもたらす、はた迷惑なおじさんの事件が愛知県で続発しているようだ。

十七日午前十一時十五分ごろ、「『俺はコロナだ』と言って、役場から逃げた男がいる」と愛知県大治町役場の職員が、津島署大治交番に届け出た。同署は役場関係者から事情を聴いている。

町は、他の来庁者に庁外に出てもらった上で、午前十一時すぎから役場を閉鎖している。今後、消毒作業を行う。

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中日新聞『役場で男「俺コロナ」、書類出し逃走愛知・大治、庁舎閉鎖』(2020年4月17日)より引用
https://www.chunichi.co.jp/article/feature/coronavirus/list/CK2020041702100146.html

「俺はコロナだ」「ばらまくぞ」などと言って息を吹きかけたとして、愛知県警中川署は16日、名古屋市中川区山王1丁目のアルバイト山田幸弘容疑者(54)を脅迫の疑いで逮捕し、発表した。「間違いありません」と容疑を認めているという。

署によると、山田容疑者は15日午後5時ごろ、名古屋市中川区の路上で自営業男性(51)に対し、「俺はコロナだ」「コロナばらまくぞ」などと言いながら息を吹きかけ、脅迫した疑いがある。発熱はなく、血中の酸素飽和度は問題ない数値という。

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朝日新聞デジタル『「俺はコロナだ」「ばらまくぞ」息吹きかけ脅迫した疑い』(2020年5月16日)より引用
https://www.asahi.com/articles/ASN5J0J4RN5HOIPE03P.html

「俺、コロナ」の続発について、はっきりとした理由は現時点では断定できないが、個人的な経験則では思い当たる節がある。私の地元にいた、ある「迷惑なおじさん」についての思い出だ。

社会貢献のつもり?「自転車キックおじさん」の思い出

いまから十年以上前のことだ。私の地元には一時期、走っている自転車を蹴りつけようとする男性がいた。年齢はおそらく60歳以上で、平日の昼間に高頻度で出没していたことからも、なにか仕事しているような様子もなかった。おそらくは定年退職した年金世代だったのだろう。

狭い商店街を自転車で走っている学生などを見かけると怒号とともに駆けより、自転車の横っ腹に蹴りを入れようとするのだ。これによって自転車が破損したり、転倒したりして怪我をした人もいた。不思議なことに「自転車キックおじさん」は学生あるいは若い男しか狙わず、同じく自転車に乗っている主婦や高齢者などには一切口出ししなかった。

学生たちの間では「頭のおかしなジジイ」などと呼ばれて憎まれていた。また学生たちだけでなく、老若男女問わず近隣住民からも忌み嫌われていた。いま思えばとんでもない犯罪行為に他ならないが、蹴りを入れられた学生の側にも警察に通報すると自分にも弱みがあったせいか(学校側になにか連絡が入るのを嫌がっていた)、あまり大事にならず「自転車キックおじさん」はその何年も活動し続けた。

その後さまざまなトラブルから判明したことだが、「自転車キックおじさん」はなにも嫌がらせをしていたわけではなかった。むしろ実際はその逆で、自分なりの地域社会への参加・貢献のつもりでやっていたのだという。

「俺が不良のガキどもを取り締まっとるんや」――と、若者の自転車に蹴りを入れて「若い荒れた連中を糾す、みんなにとって役立つ自分」を演出し、それをもって地域の人びとから感謝と尊敬を集め、つながりを得るためのきっかけにしたかったのだという。

たしかに、狭い商店街や小路を自転車で疾走すれば危険なので、たしかに注意することには一理ある。だがその手段に賛意を示す者はだれもいなかった。「ちょっとやり方は手荒いかもしれないが、自分のことを理解してくれる」という、自分の期待している周囲からの自己像と、実際の評価があまりにもかけ離れていた。

傍から見れば、そんな期待が叶うわけがないとわかりそうなものだが「自転車キックおじさん」本人にとっては、賢明に考え抜いた結果として思いついた方法だったのだ。

中高年男性にありがちな“疎外”と“不器用さ”

去年のちょうど今ぐらいの季節のできごとだったはずだ。三重県のとある街で出没していた「正論おじさん」が、テレビでもネットでも大きく話題になった。覚えている人はいるだろうか。

商店街の看板や幟(のぼり)や自転車が、歩道にはみ出したりしていないかどうかを徹底的にチェックして回り、近隣住民とトラブルになっていた人物だ。たしかに法律や条例に照らせば「正論」を言っていることには違いないのだが、自分には直接的に利害のないところにまで「自警行為」を実践する姿に、近隣住民は辟易としていた。

先日、テレビのニュース番組やワイドショーで話題になった、三重県松阪市に出没する「正論おじさん」。毎日のように地元の商店街に現れるその男性は、歩道に並べられた看板、幟、自転車などを片っ端から注意して回り、店とトラブルになっているという。確かに法律上は、公道に勝手に物を置くことは許されないため、ネット上では「正論おじさん」と呼ばれている。

このニュースを偶然テレビで見ていて「血の気が引いた」というのは、都内在住のライター・Tさん(40代)だ。Tさんの父親は数年前に亡くなっているが、やっていたことは「正論おじさん」と全く同じだったのだ。

「ウチの父は、階段で上り・下りの指示を無視する人、自転車で歩道を走る人、スーパーの前の路上に停められた自転車など、気がつけば文句ばかり言っている人でした。確かにルール上、父の言うことは正しいのですが、いきなり怒鳴ったり、上目線で説教を始めたりすれば、トラブルになるのは当たり前です。(中略)

「戦前生まれの父は難関大学を卒業していて、会社での地位も高かったので、自分がエリートだという意識があったのでしょう。しかしプライドの高さゆえ、周囲からは疎まれて誰にも相手にされず溜まった鬱屈を、クレームをつけることで吐き出していたのだと思います。晩年に初孫が生まれ、孫の成長という楽しみができると“クレーム癖”もなくなりましたから、もう少し私が寄り添えば良かったのかもしれません」

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マネーポストWEB『話題の「正論おじさん」、もし遭遇したらどう対処すべきか?』(2019年6月26日)より引用
https://www.moneypost.jp/553650

この「正論おじさん」も、私の故郷にいた「自転車キックおじさん」と同じタイプの人物だろう。これが自分なりの地域参加の方法であり、地域社会とのコミュニケーションのきっかけになると期待していたはずだ。実際に成功することはなかっただろうが。

一般の人には信じられないかもしれないが、世の中には常識的にはまったく考えられないような「不器用あるいは不適切な方法でしか社会とのつながり方の発想が出てこない人」が相当数いる。これにはかなり性差があり、そのほとんどが男性だと言ってもよいだろう。

男性がこのような状況に陥りやすいのは、男性の多くは他者とのコミュニケーションの供給源を社会的地位や職務に依存して生きているためだ。その供給源――すなわち仕事を辞めてしまうと、たちまち他者とのコミュニケーション機会が失われる。

これまで自分の「肩書」や「職能」などによって与えられてきた他者からのかかわりが仕事と同時に消え去り、大きな不安と焦燥感に呑みこまれてしまう(その点女性は、地域社会でのコミュニケーション構築に長けており、地域でのコミュニティ形成もほとんどは女性が主導的立場を担っている)。

長い期間、仕事上でしか他者とのコミュニケーションの構築を行ってこなかった者にとって、地域社会でどのように良好なコミュニケーションの関係性を構築すればよいのか皆目見当がつかないことは珍しくない。

考えあぐねて、とりあえず仕事をやっていた頃のスタイルを踏襲し、上から目線で「地域社会の指導役」をやってしまうこともあれば、親しい間柄だからこそ許されていたようなハラスメントまがいの冗談を言ったりして顰蹙(ひんしゅく)を買うこともある。「俺はコロナだなど軽はずみに言ってしまうおじさん」はどちらかといえば後者かもしれない。

いずれにしても「俺はコロナだ」という中年あるいは高齢男性たちも、これまで地域社会でどのように他者との関係性を築いてよいのかわからず、あれこれと試行錯誤したはずだ。そのどれもが奏功せず「はた迷惑なおじさん」扱いされる程度の結果に終わってしまっていた。

そして今回時代のトレンドに乗って「俺、コロナ」の策を思いついて実行したが、時期が悪かった。コミュニケーションのきっかけになるどころか、逮捕のきっかけになってしまった。

愛知県で起きた事件ばかりがいま取沙汰されているが「俺、コロナ」とまではいかないまでも、それに類するたちの悪い冗談を言ったり、「地域の自警団」を買って出たりして、なんとかコミュニケーションのきっかけを得ようと見当違いの努力を繰りかえしている男性は数えきれないほどいるだろう(ただし、愛知の「俺、コロナ」には幾人か30代の若者世代も含まれており、一様に非正規労働者だ。仕事が不安定となり、他者とのコミュニケーションの供給源にはもはやならない時代であることを示唆するのかもしれない)。

「俺コロナ」はコミュニケーション弱者からのSOSかもしれない

いま世間は「新しい生活様式」の一環として、コミュニケーションのあり方も変貌しつつある。業務上のコミュニケーションだけでなく、日常のやりとりでさえ、SNSやオンライン会議などの「オンライン・コミュニケーション」へと移行しつつある。

だがそれは「オンラインで新しい人間関係を構築する可能性の地平を拓く」ものではない。あくまで「既存の人間関係をオンライン上に移管する」ものだ。このため、これまでに人間関係を構築していない人にとってはとくに意味がないどころか、状況はますます厳しくなりえる。

実社会でそれなりに観測できていた人と人とのコミュニケーションが、急速にオンラインの世界へと移行していった結果、実社会ではあたかもだれもコミュニケーションを取っていないように見える「音のしない社会」へと変貌していく。

「不器用あるいは不適切な方法でしか社会とのつながり方の発想が出てこない人」は、だれもオフラインでコミュニケーションを取らなくなった「話し声の聞こえない新しい地域社会」で、ただひとり疎外され、取り残されてしまうのだ。

コミュニケーションが物理的空間の共有を必要としなくなる世界では、疎外された立場の人がコミュニケーションに今後参加できる可能性が限りなくゼロに近づいていく。世間の人びとがどこでコミュニケーションを取っているのかさえ、疎外され、取り残された人には見えなくなっていくからだ。

コミュニケーションに飛び入り参加することはできない。もはや人びとは実社会ではそれぞれの用事を済ませるだけで会話はせず、コミュニケーションはもっぱら家でやるようになる。

「俺、コロナ」は、地域社会における既存のコミュニケーションのつながりからも、そして新しい時代のコミュニケーションの流れからも疎外された人びとの「SOS」なのかもしれない。

だが、私たちは彼らの声を「SOS」として解釈することはない。むしろ、次の時代にはこのような人と関わりを持つことがますますなくなって、快適になって嬉しい――とさえ思うのではないだろうか。