「和牛券」はなぜ提起されたのか コロナ以前から在庫がダブついていた業界の裏事情 - 山本謙治(農と食のジャーナリスト) - BLOGOS編集部
※この記事は2020年05月02日にBLOGOSで公開されたものです
3月、新型コロナウイルス不況の景気対策として自民党内でいわゆる「和牛券」を配付しようという案が検討されたことが話題になったが(その後、撤回)、そもそもなぜ和牛券なるものが提起されたのか。
新型コロナウイルスの影響でいくつかの食品の生産や流通に大きな変化、もっと言えば危機が訪れているが、牛肉もそのひとつだ。実はいま、日本は空前の牛肉余り状態となっている。それも元を辿ればコロナ騒動が起こる前の2019年から異変は起きていたのだ。【農と食のジャーナリスト・山本謙治】(やまけんの出張食い倒れ日記)
和牛も国産牛も、輸入牛肉も行く先がない
日本ではここ15年ほど牛肉ブームが到来していたはずだ。ではなぜ、いま牛肉が余っているのだろうか。
東京・品川駅からすぐの芝浦という好立地に東京都中央卸売市場の食肉市場がある。ここで毎日のように10頭分以上の枝肉(※家畜の頭、内臓、尾などを取り去った肉)を買い付け、ホテルや飲食店に販売する食肉卸売業者は深刻な表情で語る。
「緊急事態宣言の発令によって、ホテルや飲食店の多くが営業を自粛し、営業している店も売り上げが50%以下に減少しているため、取引はほとんどストップしています。比較的大きなホテルとの取引になると、ビュッフェ形式のローストビーフやしゃぶしゃぶ・ステーキ用の需要が月間に5トン以上。それが数十社分もなくなってしまったので、本当に大変な状況です」(食肉卸A社)
牛肉余りの直接的な原因はコロナ禍である。1月後半、中国政府は海外への団体旅行を事実上禁止した。2月、3月となると世界的な感染拡大で、旺盛な食欲を持つ海外からの観光客が姿を消し、日本のインバウンド需要はほぼ消滅した。併行して、少しずつ増えていたアジアやEUに向けた牛肉輸出もストップした。日本の高級牛肉の消費を支えていたインバウンドと輸出の二つの消費が消えてしまったのだ。
それなら外出自粛で巣ごもり消費が増える背景を踏まえ、家庭消費に振り向ければよいのではと考える人も多いだろう。ところがスーパーなど小売店での牛肉販売の不振は、昨年のはじめには始まっていた。
天皇即位の祝日を足して最大10連休となったゴールデンウィークは需要が伸びず、夏の需要期である7月も前年度相場を大きく割り込み、10月には消費増税や大型台風が各地を襲ったこともあってか、消費環境が悪化した状態で冬を迎えたのだ。
「通常、冬になるとすき焼き・しゃぶしゃぶなどの需要が上がり、またクリスマスシーズンで牛肉消費が伸びるはずです。ところがまず暖冬の影響か、鍋物向け素材の売れ行きが伸びませんでした。忘年会需要も落ち込み、正月三が日に店を閉める小売店も多かった。こうしたことが影響してか、12月の東京食肉市場の相場は一年を通じて最も安値をつけたんです」(同前)
もともと牛肉消費が減退したところにさらにコロナ禍の影響が加わり、加速度的に状況が悪化してしまったというわけである。また、国産の和牛肉や国産牛肉のみならず、輸入牛肉も同様の状況だ。外国産牛肉を主に外食産業向けに納品する輸入商社の担当者は肩を落とす。
「外食店やホテルの稼働が低下していることで、販売状況は1月後半から悪化の一途をたどっています。3月は前年比6割台後半をキープしていましたが、緊急事態宣言後の4月は5割台に下落。緊急事態宣言の対象が全国に広がってからは3割以下の売上に落ちました。国産牛肉の危機が叫ばれ、補助金などが出る動きを見ますが、輸入牛肉にはそうした施策は適用されませんから、厳しい状況ですね」(食肉輸入商社B)
いまの価格だと大赤字になる黒毛和牛の生産
さる4月10日、全国の和牛相場に影響するといわれる東京食肉市場の和牛枝肉加重平均価格(A5・去勢)が1944円/キロとなり、2000円台を割り込んだ。
(参考:日本食肉市場卸売協会https://mmb.jmma.or.jp/report/beef_average_month/)
同じ枝肉価格の前年度・前々年度の平均値は2800円台である。和牛相場の800円以上の下落は牛肉業界にとって文字通り緊急事態だ。
中でも肥育農家が被る損失は大きい。農水省の調査によれば、黒毛和牛(去勢)を肥育するためにかかる費用は、子牛価格や餌の内容によって違いは出るものの、平均すると平成30年度のデータで139万円となっている1 。1944円/キロという枝肉相場で、黒毛和牛の枝肉重量が560kgとれるとすると2 、1944円×560kgでおよそ109万円。生産費139万円に対して30万円の赤字である。月間に10頭を出荷する農家であれば300万円の大赤字となり、これが続けばとても耐えられるものではない。このため出荷を見合わせる生産者も多いが、A5を狙う黒毛和牛は出荷時期をみすえて肥らせていることもあり、長く保留することは難しい。また、保留している間にも日々の餌代がかかる。出荷するも地獄、待つのも地獄ということになる。
実際には、肉牛肥育農家を守るための「マルキン(肉用牛肥育経営安定交付金)」という交付金制度があり、販売価格が生産費を下回った場合には、その差額の9割が補填される。ただし、その交付金の中には生産者の拠出分もあるため、実質的な補填額は7割弱とされる。また、交付金の支払は数ヶ月後になるため、その間の運転資金は生産者がなんとかしなければならない。
それに、生産費が139万円というのはあくまで平均値である。実際には味わいをよくしたいという信念から、余計に生産費のかかる飼育方法をとる生産者もいる。
「通常、黒毛和牛は28ヶ月齢くらいで出荷する生産者が多いのですが、うちでは味を重視して36~38ヶ月齢の長期肥育をしています。また、餌の内容も一般の農家さんより高いものを使っています。ですから、地域平均で算出されるマルキンの補填金ではとても損失をカバーできません」(500頭の黒毛和牛を飼育する生産農家)
付加価値を出すために工夫を凝らした経営をしている農家ほど報われないというのも、皮肉な話である。
空前の牛肉余りで、冷蔵・冷凍倉庫が足りない
さらに予想だにしない事態が起きている。牛肉を冷蔵・冷凍するための倉庫が満杯になってしまったのだ。
「東京の湾岸地域の倉庫はどこも冷蔵・冷凍に関わらず新規の貨物受け入れをしてくれません。年明けから国産牛肉・輸入牛肉のどちらも売れず、賞味期限内に冷凍に回すなどしたため、どこの倉庫も満杯なんです」(食肉卸A社)
「昨年秋頃に『来年からは荷物を受けませんし、いま入っている在庫も移して欲しい』と言い渡されました。どうやらオリンピック向け食材のスペースを確保するためだったようです」(輸入商社B社)
「輸入品は地方の倉庫に一時疎開させていますが、このままではチルド(冷蔵)の輸入自体が減るでしょう」(輸入商社C社)
このような状況の中、国は新型コロナ感染拡大に伴い、16.7兆円もの補正予算案を閣議決定した。目を引くのが、需要が減退した品目の販売促進を行うための予算1900億円だ。
このうち、なんと牛肉の在庫保管・販促費に500億円が割り振られる。食肉卸売業者が和牛肉の販売のためにかけた加工費や冷凍倉庫の保管料、輸送費などを補填するのと、和牛肉を販売する際の販売奨励金として、令和2年中はキロあたり1000円を支払うというものだ。
ただし、こうした措置にも関係者は困惑を隠せない。
「牛肉を冷蔵倉庫に1ヶ月以上保管をしたのち、加工日から1年以内に販売しないと補助が出ません。いつ販売出来るのか分からない中、保管は地方の営業倉庫でしなければならない。そして申請の手続きは大変複雑です」(前出・B社)
在庫を保管するための倉庫代や、余った和牛肉を販売するための奨励金まで国が出すというのは前代未聞の事態である。
消費者が買うのは値頃な牛肉だけ
一方、消費者は牛肉余りと聞いても「その割に店頭価格は安くなっていない」という感想を持つかもしれない。実際には、牛肉の小売店頭価格は低く値付けされているケースが多いのだが、それでも豚肉や鶏肉に比べると高値であるため気づきにくい。
というのも、スーパーや量販店は仕入れ値がいつもの半額だったとしても、店頭価格も半値で売るということはしない。安易に安値感を与えてしまうと、値段がまた高値に戻ったときに消費者が離れてしまうからだ。
もちろん、安価な牛肉は意外なほどに売れている。ただ、その多くはオーストラリアやアメリカからの輸入牛肉だ。消費期限近くなったホテルや飲食店向けの輸入牛肉が小売店頭に並んだこともあり、一時は驚くような安値で売られていた。財務省の貿易統計によれば、3月の牛肉輸入量は4万7500トンと、前年比21%も増加している。それだけ見れば牛肉消費も旺盛なように映る。
しかし、ミドルグレード以上の牛肉には消費者の手が伸びていないのが現状だ。ミドルグレード以上の牛肉とは、主に「国産牛」や「和牛」と表示される、まさにいま問題となっている牛肉なのである。
消費者は安ければ買ってくれる。しかし、輸入牛肉のレベルまで安くしてしまったら、生産コストを割り込んでしまう。いま日本の牛肉が直面しているのはそういう事態なのだ。
最上級であるはずのA5和牛肉が多くなりすぎた現実
日本は1988年に決定された牛肉輸入の自由化の際、国産の牛肉が輸入牛肉より高く評価されるように、食肉格付を改正した。
食肉の格付において、一頭の牛からどれだけ肉がとれるかを表す歩留まり等級がA~Cで表され、肉質の等級が1~5までで示される。ここでいう肉質は、霜降り度合いの高さが最重要な指標となり、最も歩留まりがよく霜降り度合いが高い肉がA5と称される。
米国や豪州から輸入される牛肉は赤身中心であるため、肉質等級は2あたりにしかならない。日本で生産される和牛肉は少なくとも3以上になるため、差別化を図ることができる。こうして国内で生産される牛肉は、輸入牛肉よりも格上だという扱いをすることで、バランスを保ってきた。
しかし、一般消費者の牛肉需要が落ち込み、コロナ禍によるインバウンド需要と輸出も消失することによって、誰もが買いにくい高級な和牛肉が余ってしまったのが悲劇ともいえる。
この格付を巡る状況で興味深いのは、「最上級」として最も高値で取引されるA5が多くなりすぎたということだ。
和牛の格付を行う日本食肉格付協会のデータを見ると、平成15年にA5と格付されたのは全体の13%に過ぎず、A4が32%と最も多かった。全体の13%であれば「A5の黒毛和牛は稀少な最上級肉」というのは妥当だろう。しかしその後、A5の占める割合はどんどん増加し、他等級の割合を超えてしまった。
平成30年にはA5が41%とA4の37.9%を逆転し、令和元年には46%。ちなみに今年に入ってからも毎月45%超えをしている。つまり、A5の和牛肉こそが日本で一番多い肉だという事態になっている。
ブランド・マーケティングの世界では通常、高級なハイエンド商品は一般商品に比べれば少ない量しか流通させないものだ。それは当然、ハイエンド商品を購入できる消費者自体が少ないからであるし、その方が付加価値も高まるからだ。そうした意味ではハイエンド商品であるはずのA5が溢れかえっているという状況はおかしい。
また青果物や水産物であれば、旬を迎えて多量に出回る商品は、需要と供給の関係上、安くなるのが普通だ。ところがA5の和牛肉は、子牛の導入と日々の餌代で膨大な経費がかかっているため、多量に出回っても安く販売するわけにはいかない。これはいびつな状況である。
先の精肉卸社長は、嘆息しながらこう話してくれた。
「和牛の相場が2000円以下に下落したと言っても、毎日のように3500円、4000円を超える枝肉も出ています。美味しい肉を生産するために生産者が工夫したものについては、きちんと評価がなされています。
一方でA5格付される和牛の中にも、脂質が悪くて美味しくない血統のものが多くなっているのも事実です。そんな牛肉もアジア向けの輸出が順調で、インバウンド需要で消費が旺盛だった時期には売れていました。現在の和牛肉余りは、A5の牛肉が必ずしも美味しいものではなくなったということも示しているかもしれません」(食肉卸A社)
憧れの最上級肉だったA5の和牛肉はいま、政府が補助金をつけて販売促進しなければならない存在となってしまった。さまざまな問題をはらんではいるものの、この状況を解消するには消費をするしかない。
ホテルやレストラン、焼肉店といった外食産業での消費が伸びないいま、家庭での消費拡大が求められる。このコロナ禍が長引くと、悪影響は生産者にまで及び、日本の牛肉生産量が大幅に縮小することになるかもしれない。そうなったら、和牛肉は今度こそ本当に日本の消費者の手が届かない高級品になってしまう。
賞味期限が迫る在庫が多いことや、国の販売奨励金の後押しによって、これから店頭には比較的安価な牛肉商品が並ぶことになるはずだ。筆者もこの状況に対して複雑な思いがあるが、消費者の皆さんにはぜひ、牛肉を、それも国産の、できれば和牛肉をたくさん買って食べてあげて欲しい。
そして、コロナ禍が一段落した暁には、日本という国の間尺にあった牛肉生産のあり方をきちんと見直すべきだ。
1.農林水産統計 平成30年度肉用牛生産費より https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/noukei/seisanhi_tikusan/attach/pdf/index-15.pdf
2.家畜改良増殖目標令和2年3月版 https://www.maff.go.jp/j/chikusan/kikaku/lin/attach/pdf/rakuniku_kihon_houshin-7.pdf