「常に死にたい」外国籍の父親からの性的虐待、母親からの暴力にさらされた子ども時代。性依存と自傷行為の繰り返し~サリナの場合【生きづらさを感じる人々33】 - 渋井哲也
※この記事は2020年04月09日にBLOGOSで公開されたものです
外国人と日本人との間に生まれた、外国にルーツがある子どもたちが増えている。ルーツによって見た目が周りの子どもと違っている場合、いじめや理不尽な扱いを受けることもある。また、子どもたち自身にとっては、外からどう見られているのかということが悩みだったりする。その一方で、そうした外部的な偏見ではなく、国籍に関係なく、家族内の関係に起因する悩みを持つ場合だってある。関東に住むサリナさん(23、仮名)も、家庭内の問題に翻弄された一人だ。
記憶にない、父親からの性的虐待
バングラディッシュ人の父と、日本人の母親のあいだに生まれたサリナさんは、父親のことはほとんど記憶にない。母親へのドメスティック・バイオレンス(D V)が原因で、サリナさんが幼い頃、父親は強制送還されたためだ。そんなにひどいD Vだったのだろうか。母親から聞いた話などをふまえ、サリナさんはこう話す。
「父親は母親の女性器に包丁を突きつけたり、兄と母親を水風呂に入れたりしていました。それに、殴られて、鼻が切れたり、フェンスに投げつけられたりして、血まみれだったのですが、病院には行かなかった、と母親から聞かされました」
「私は記憶にないのですが、生後2ヶ月ほどで性的虐待を受けたようです。3歳のころの自分は覚えているんですが、父親に対して、常に怯えていました。ただし、人前では、いい人ぶっていて、他人にお金を貸したりしていたようです」
母子寮へ入ってから、激しくなった母親からの暴力
サリナさんが受けた虐待は、父親だけではない。母親からも殴られている。養育能力が低く、母親自身にも障害があったことを児童相談所が知り、4歳のころから児童相談所に通所するようになった。
「最初の頃は、父親の暴力から逃げるために、都内のシェルターに逃げ込んでいたようです。その後は、関東圏内の母子寮で過ごしました。母子寮にいるときからも暴力があったと思います。兄は児童養護施設に行きました。私に向けた暴力がどんどんハードになっていったんです。最初は、親は、保護を断っていましたが、一時保護されるようになったんです。ただ、母も暴力をやめたかったんだと思います。苦しくてやっているんだろうな、って思っていました」
安定した子ども期を過ごしていないサリナさんだが、小学校の頃は、人間関係が「しんどい」と感じていた。そのため、自宅から一番近い学校ではなく、数キロ離れた学区外の諸学校へ通っていた。そこでも「いじめ」にあい、「くさい」「きもい」と言われていた。
「『くさい』と言われるには理由がありました。お風呂に入っていなかったんです。だから、『いつもフケばかりだね』と言われていました。1ヶ月に一回もお風呂に入っていませんでしたね。なぜ?って。母親と入ることになるのですが、それが怖かったんです。どつかれるんです。それに体の変化を罵られました。いまになって思えば、言葉による性的虐待です」
両親が正式に離婚したのは、サリナさんが小学4年のころだった。強制送還された父親と一緒に住んでいなかったため、すでに両親は離婚しているとばかり思っていた。
「(離婚したとは)母親が言いたくなかったのでしょう。離婚調停をしていたことを知りませんでした。思い起こせば、『夫を訴える』と弁護士に言っていたのを思い出します。でも、弁護士と会っていたのだから、面談して、私のことを保護してほしかったなと、今では思います。家に帰りたくなかったですからね」
小学生のころは陰キャラ。母親からなぐられ、「死にたい」と思う
小4の頃、サリナさんは毎晩母親に殴られていた。
「このころは、陰キャラでした。『死にたい』と思うようになったのもこのころです。でも、殴られることが、『気持ちいい』と思うようにもなりました。痛みが快楽と思うようになったんです。母親と話すときは敬語。服従をしている感じだった。『殴られるのが好きだろう』と言われたりもした」
小5のころは、学校への遅刻が多かった。学校になじめなかったこともある。体罰もあったという。
「先生がどなっている時間が苦手でした。廊下を引き摺られたりもしました。みんなが見ていましたが、その先生をみんなは『熱血教師』として慕っていたんです。その教師の体罰に反対する人たちは少数派でした」
暴力は家庭だけでなく、学校でもあったということになる。サリナさんの心休まる「居場所」は、学校にも家庭にもない。
中学から自傷行為。頭痛薬を大量に飲むことも
中学の頃になると、被害妄想などが出始める。そして、自傷行為が始まる。精神科に通院するようになるが、このころは薬物療法はしていない。リストカットは、中学3年から高校3年生までが激しかった。
「はじめは、縫い針で腕をチクチクする程度でした。自傷は、中学生から高校生までがピークだったかな。中学生のときはOD(大量服薬、オーバードーズ)を、高校のときは根性やきもしましたけど」
ODといっても、母親が家に保管していた頭痛薬などを飲んでいたようだ。その後、情緒が不安定になり、幻視・幻覚といった統合失調症のような症状や、言葉による表現が難しくなる「全緘黙」となった。
「人間不信で、人が怖かったんです。だからしゃべらなかったのです」
中学時代から精神科に入院するが、頭部が出血するほどのかきむしり、硬いビニールを使ってのリストカット、ほかの患者のシャンプーを飲んだり、階段からのダイブなどの行為を繰り返していた。それだけ、衝動性が強い時期で、隔離されたこともあった。
高校生から援助交際。母親に告げると…
高校生になると、援助交際をするようになった。両親からの虐待によるトラウマを解消しようと援助交際をしていたのかもしれない。それに、母親が彼氏とのデートを見せつけていたのも一因だろう。
「高校のときにも病院に入院したんですが、退院後に自宅に帰ると、母親は若い男と一緒に住んでいました。その男に『お前が帰ってくるまでは幸せだった』と言われたんです。母はその男と別れたり、くっついたりしていました。私はそのため、家出を繰り返しました。声をかけてくる、見知らぬ男についていったりしました」
母親に援助交際をしていることを告げたことがある。しかし、母親は反応を示さなかった。
「知らせた数日後、母親も『売春してきた』というのです。道端で声をかけ、2000円になったと話していました。」
サリナさんは、援助交際で「搾取」されたというよりも、「優位」に立ったと感じることで、何かを解消している。
「口説くのが好きです。性依存のことも自己開示をしすぎているのかもしれません。言いたい衝動に駆られるんです。高校生のとき、胸を触らせていたりしていました。それで男を支配している感じを得られました」
性被害と性依存は表裏一体
このころから、日常的に、解離症状を伴い、ODをするようになっていく。さらに、援助交際を重ねていくと、同意の範囲を超えた行為をする男たちにも出会うことになる。
「道端で出会ったおっさんとカラオケをしたり、居酒屋をハシゴしました。そして漫画喫茶に行ったんです。そこで、『エッチはなしで』とお願いしたにも関わらず、無理矢理されました。これは強姦だと思い、婦人科へ行きました。そのあと、警察の鑑識も来たんです。しかし、警察に『誰でもやれるんだろう?』と言われたんです。被害にあったのに、(警察の対応は)こんなんでいいんですか?」
援助交際をしていたり、風俗で働いていたり、夜遊びをすることは、それを望んだ結果でも、同意の範囲、仕事の範囲を超えて、性暴力になることがある。そんなとき、警察は、十分な捜査をせず、逆に、性的な抵抗感がないかのように扱い、バカにし、被害届を提出させかったり、事件として聴き取らないということを耳にすることがある。援助交際をしていたサリナさんも、性暴力にあい、被害届をだそうとするが、取り合ってくれなかった。
ネット恋愛の末に高校中退して同棲へ
そんなサリナさんにも信頼できる男性との出会いがあった。ネットで知り合った。信頼しすぎて、同棲するために、彼が住む地方に移り住んだ。
「メンヘラの掲示板で知り合い、最初は遠距離恋愛だったんですが、相手の過ごしている地方で一緒に生活をすることになりました。相手は、親の持ち家に住んでいました。家賃は要らないので、経済的には好都合でした。母親には彼氏がいるし、実家から離れたい一心でした。今から考えれば、後悔していますが、当時は、『将来、どうでもいい。母親から離れられれば安心する』と考えていたんです」
学校にも実家にも居場所がない。だからこそ、高校を中退してまで同棲にはまり込んだ。精神疾患を抱える人に、同じような悩みを抱えた人たちと友人関係や恋人関係になることは珍しいことではない。しかし、お互いの問題を抱えたままであれば、共倒れすることもある。サリナさんの場合、アパレルの仕事をするが、ストレスから情緒不安定になった。また、彼氏からのセックス要求が嫌気が差した。2年半の同棲を終え、実家に戻った。
「2、3ヶ月後には苦痛になっていました。好きじゃないとわかったんです。でも、彼氏はいい人でしたよ。『救いの神』だと思っていましたから。これまで、ちゃんと付き合ったのも彼だけでした。でも、関係が苦しくなったんです。だから自分からふりました」
「死にたい」というよりも「傷つけたい」
他人から「自殺未遂」と思われるような行為は何度もしている。しかし、サリナさん本人は「死のう」として実行したことはない。つまりは、自殺企図ではない。衝動的な自傷行為なのだろう。
18歳の8月、3階の自宅マンションから飛び降りた。連絡を絶っていた兄が実家に帰省していたからだ。
「生きていても仕方がない」
そう思って、飛び降りた。
18歳の秋、精神科の閉鎖病棟に入院。退院後も苦しい日々は続いていた。300錠の処方薬を飲んだ。忘れたい、逃れたいことばかりだった。起きたら、病院にいた。ODをした日から3日後に目が覚めた。彼氏との同棲中でも、ODをした。また、昨年の9月、都内でODをして、精神病院に措置入院となった。