「『反権力』は正義ですか」ニッポン放送・飯田浩司アナウンサーがマスコミの報道姿勢に疑問 - BLOGOS編集部

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※この記事は2020年04月09日にBLOGOSで公開されたものです

毎週月曜日から金曜日、早朝6時から8時までのニュース番組を担当するニッポン放送の飯田浩司アナウンサー。足繁く報道現場に向かい、自分の目で見たものをリポートし続けている。

そんな飯田アナウンサーが、マスコミの報道姿勢に一石を投じるニュース論を一冊にまとめた。ニュースの現場では一体何が起きているのだろうか。話を聞いた。【撮影:大本賢児 取材:大竹将義・田野幸伸】

「反権力」は正義ですか

―「『反権力』は正義ですか」という刺激的なタイトルの本を出されました。マスメディアの中にいながらのメディア批判ですが、タイトルに込めた思いは。

象徴的な意味での「反権力」なので、カギカッコをつけました。

こういうタイトルをつけると「お前は親権力なのか」とか「権力におもねるのが正義なのか」と言われますけど、最初に「反権力」に自分の立ち位置を決めてから、何かを報じようとするマスコミの姿勢はおかしいだろうというのが本の論旨です。

その意味では、タイトルは「『親権力』は正義ですか」でもいいんです。ポジションを決めて物事を伝えているマスコミへの疑問なので。

『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(2017)という映画がありました。ベトナム戦争を分析・記録したアメリカ国防総省の最高機密文書の内容を暴露したワシントン・ポストのジャーナリストの実話を描いた作品ですが、アメリカ政権がベトナム戦争に関して、隠している部分や誤った判断があったのではないかと。

権力の監視として報道を行うことは意義のあることだし、マスコミがそういうものだというのには僕も大賛成な部分があります。

ただそれがもう一歩進んで「そもそも俺たちは『反権力』だから」になると、国民の知る権利の付託を受けて仕事をしているというマスコミの根本の部分から外れるのではないかと。もっと言うと、それは運動家になるのではないか、というのがタイトルに込めた思いです。

―反権力というと左派に当たるのかと思いますが、新聞にはそれぞれ立ち位置があります。左の朝日新聞があり、東京新聞があり、右には読売新聞があり、そして産経新聞がある。新聞社と放送局の系列があって、この枠組で長い間日本のマスコミはやってきた。放送法で中立という建前がある中で、アナウンサーとしてどんな思いでマイクの前に座っているのでしょうか。

ファクトの部分、数字で論理的に伝えられる部分はきちんと伝えなくてはと考えています。数字の受け取り方については、各々であるのかもしれないですけれど、そもそも論としてのファクトの部分はきっちり伝えなければと。そこから曖昧な形で「色」をつけたらダメだよなと言うのはすごくある。

新聞を読んで、これは色のついた見出しだなと思えば「皆さんこれは色がついていますよ」と言うのも仕事なのかなと。新聞の場合は役割があるじゃないですか。「編集」は基本的に起きたことを伝える部署で、それぞれの新聞における色は「論説」で示すと。

いま、そこがけっこうぐちゃぐちゃになっていますよね。編集の部分の記事のはずなのに、結論で「…批判を呼びそうだ」というように、ちょっと論説めいた色が入ったりとか。

自分の番組ではその境界が曖昧にならないように「ここから先は僕の意見ですよ」ときちんと分けて伝えようと思っています。

―Googleで飯田浩司と検索すると、サジェストキーワードに「右寄り」と出てきて、この本の中でも何回も番組に抗議が来たと書かれています。それはニッポン放送がフジサンケイグループだから政権寄りの意見も言いやすいということなのでしょうか。

僕が意見を言う時に、グループを意識したことは一切ないです。「これを言うな」「これを言え」と言われたこともない。あまり右左を意識したことはないですね。

本の中には経済についてもかなり書いたんですけど、もし左右で色分けをしようとするなら、僕が支持しているのは左派の政策です。金融緩和を一生懸命やって財政出動をして景気を良くしていこうと。そのためには大きな政府になりますよとか。

これってアメリカでは民主党のバーニー・サンダースが言ってたことだったりとか、イギリスでは労働党のジェレミー・コービンが言っていたことだったりとかするんで、本当は左派政策のはずなんですよ。でも自分が右左どちらに見られているかは、あまり気にせずにやっています。

マスメディアは報道で「忖度」しているのか

―いま、ネットメディアのインタビューを受けているわけですけれども、私はマスメディアからネットに来た人間です。依然としてマスコミがネットメディアを見下している図式はありますが、ネットには「これは見下されてもしょうがないな」という質の仕事があることも事実です。裏取りがなんだかわかってる? ページビューとスポンサーのことしか考えてないの? 報道を金儲けの道具だと思ってない? なんてレベルの低いことがたくさん起きています。

一方で、国民の中にマスコミ不信が広がってきている現状もある。メディアと受け手の関係について、電波の中の人としてどのように感じていますか?

ネットで誰もが発信者になれるというのは、玉石混交を生むことにもなりますけど、一方で一次情報を一次情報に近い人や当事者が発信できるのは、マスコミの置かれた環境を変えたなと。

その人の言うことが事実かどうか、裏の取り方は難しくなった部分はあるかもしれない。デマが飛ぶこともあるかもしれない。ただその一方で、香港のデモの時のように、当事者による生中継も可能になりました。

マスコミが報じるよりも、現地からインターネットで生中継している人のほうが早かったりするわけじゃないですか。実際、僕もずっと香港デモの配信を見ながら字幕を読んで、中国語訳を見ながら「こんなことも起こってます」「現地ではこんな報道もされています」と放送で伝えました。それが2~3日後に日本のマスコミに出ていたりする。

玉石混交の「石」がいっぱいある中で、情報の裏の取り方について、既存マスコミはそこの作法を徹底的に叩きこまれるわけじゃないですか。「これは本物だ」「これは偽物だ」と見極める目のようなものが、作法としてマスコミに一日の長があるので、むしろそのノウハウがどんどん広がるといいですよね。

―ネット上では大手メディアを「マスゴミ」と呼んでいる人たちもたくさんいます。「これを言うな」なんて上からの指示はないとのことですが、現場で忖度を求められることはありませんか。

気を遣うみたいなものがあるとすれば、選挙の前だけですかね。ニュース番組を担当していると、放送法の線引きみたいなものが見えてきます。ボーダーラインギリギリまでは攻めますが、越えないように気を遣っています。

そもそも論として放送法は、放送内容について「公平中立」という原則をうたっているもので、例えば放送を使った選挙活動・・・「この人はいい人だから投票したほうがいいですよ」「とんでもないから投票しちゃダメですよ」と言うのはアウトですが、各々の主張を紹介することは全く問題ありません。

BPOが2017年に見解を出したように、(2016年の選挙をめぐる テレビ放送についての意見:https://www.bpo.gr.jp/wordpress/wp-content/themes/codex/pdf/kensyo/determination/2016/25/dec/0.pdf) 選挙報道の公平性は量で判断するものではありません。

しかし放送局は過度に公平性にこだわってしまいがちで、みんな同じ時間で扱うみたいな縛りをかけています。こう言ってはなんですが、泡沫候補まで含めてすべての人の主張を1分ずつで伝えることは、知る権利に本当に応えているのかと言うと、違うのではないかと。

ある程度の比重を置いて、「与党だからこういう政策をとっています」「野党第一党はこういうことを言ってます」「他にはこういう政党・政策があります」というような形の紹介をしても、その基準がきちんと説明できれば問題ないと思います。

なぜなら、この国には言論の自由があるからです。公の権力が我々を縛るのもいけません。では何に縛られているのかというと、放送局の自主規制。ただ、放送というのは限りのある電波を借りて放送しているわけで、行き過ぎたことを放送するのはマズイという考えは確かにそうです。そうしたことが『放送法』に書いてあります。

―忖度するのは選挙の時くらい、と。でもネットを見ていると、放送局が権力におもねって「この番組では安倍の悪口言わないんだろ」「この局はこの問題を追及しないんだろ」という見方も多い。

僕は「政権寄り」と指摘されることが多いです。「提灯持ち」とか酷いこと言われたこともありますが、普通に政権批判はしています。

特に経済政策では「国民生活を考えれば消費税増税は絶対すべきではない」と言ってきましたし、増税後も、ことあるごとに減税すべきだ、と主張しています。この本の編集者に「飯田さんは本当に諦めが悪いですよね。増税してから半年が経ってからも消費増税のことを言っている人なんていないですよ」と。

―マスコミの人っていい意味でそんなに行儀よくないですよね。特に放送現場は上からの命令に「なんだと!」と食って掛かる血気盛んな人がわりと揃っていたりして。少なくともラジオでは忖度はないですか?

少なくとも私は一切ありません。

―報道の人はガラは悪いけど使命感みたいなものは持っていますよね、伝えることに対して背負っているものがあるというか。

確かにそうかもしれないですね。知ったことは言わないといけないという使命を感じているかもしれません。

現場を取材し続けて見えてきたもの

―飯田アナウンサーは常に現場取材へ向かっています。それは素直に同業者としてすごいと思うんです。机の上で調べるのと、自分の目で見てから話すのはやはり違いますか。

例えば東日本大震災の被災地。震災から6年経った頃、「震災の記憶を風化させてはならない」と、福島県楢葉町の語り部の高原カネ子さんにお話を伺いました。

その時、高原さんから、「風化風化って言われますけど、いつまで私たちは被災者でいなきゃいけないんですか」って、すごく言葉を選びながらですけど、言われたことがすごい衝撃で。

そうだよね、この人たちだって私たちと同じように日常生活があるんだよね、と。もちろん震災の記憶は忘れることはできないでしょうけれど、毎日思い出して、思い出しては涙することを6年間も続けられるのかと。

でも震災報道とか見ていると、頭の中では「悲惨な現場」のイメージがどんどん固定されていく。そういう固定観念みたいなものは現場に行くとふっ飛ばされます。多かれ少なかれ想像と違うことがあっても、ラジオのありがたいところは、その時に映像がないから情報の組み換えがしやすい。

テレビ局は大人数の番組スタッフの中で、「こんな画を撮ってこい」と言われて撮りに来たのに「イメージ通りのものはないです」ってきっと言いづらいんだろうなと。それっぽい、イメージに近い画を探しちゃうことが起こっているのでは、と現場で思いましたね。

―沖縄の基地問題もじっくり取材されています。実際に行ってみて辺野古の印象は変わりましたか。

辺野古も「全員が米軍基地絶対反対」といったイメージがありました。もちろん、基地の前で反対運動をしている人もいますけど、辺野古で暮らしている人にはそこに日常の生活があって、葛藤や苦悩もあるその中で、各々が結論を出そうともがいています。でも結論はなかなか出ません。ミクロなそれぞれの事情って、マクロな強い画があるとそれに引っ張られて置き去りにされますけど、そういうところを見ることができました。

辺野古には、基地移設には賛成しないけど生活を考えたら容認せざるを得ないという人、その代わりきちんとした福利厚生を求める人、基地の雇用を必要としている人、いろいろな人がいます。

辺野古の住民すべてが反対一色で、それをブルドーザーで埋め立てるが如く政府が潰していく。善悪二元論みたいな構図はわかりやすいし、一面を切り取ればそう見えないこともないと思います。

ただそれをやると一番苦しむのは地元の人たち。膠着状態が20年以上続いて、その間に育っていた子どもたちは「ここでは稼げないから」とどんどん出て行き、町は高齢化が進む。「俺たちが求めた辺野古の未来ってこんなじゃなかったよな」「もっと開発が進んだ明るい未来を目指していたはずだ」という話を聞くと、何が良くて何が悪いのかわからなくなります。

権力も反権力もなく、それこそ正義とはなんだという話になります。でもそこでバランスを調整して最適化を求めていく努力を忘れてはいけません。2つに分かれてお互いがお互いの陣地から石を投げあっていたら、真ん中に残された人たちはどうするのと。現場に行くと、その「真ん中」を痛感するところがありますね。

―それが表にニュースとして出てこない、ステレオタイプの意見しか出てこないのはなぜだと思いますか?

わかりやすさを求めるのはマスコミの中にすごくありますよね。そういうわかりやすさ信仰みたいなものって、ある意味受け手をバカにしている部分もあると思います。 「難しいこと言ったってわかんないだろう」と。

そうするとわかりやすい画に引っ張られます。放送尺の関係ももちろんあるのでしょうが、現場で聞く声のようなニュアンスを「細かい」「難しい」と切り捨ててしまうと、作る側もステレオタイプなものに陥りやすいですよね。

辺野古で言えば、ダンプカーが走る画、埋め立ての画、反対派の人々を引き剥がす画。その上で「政府の説明が足りないと言えます。続いてスポーツ」と言うと、なんとなくそれっぽいですが、現場の実情から考えれば、ざっくり描きすぎだろうと。

もちろん、しっかりと実情を描いたドキュメンタリーもありますけど、特に日々のニュース番組はわかりやすさに引っ張られていると思います。


【後編】「リスナーはパーソナリティを騙さない」信頼感が生んだラジオ独自の情報収集力

プロフィール

飯田浩司
1981(昭和56)年生まれ。神奈川県出身。横浜国立大学経営学部卒業後、ニッポン放送に入社。「ザ・ボイス そこまで言うか!」アンカーマンを経て、2018年からニュース番組「飯田浩司のOK! Cozy up!」(月~金曜・午前6時~)のパーソナリティ。
・番組ホームページ:飯田浩司のOK!Cozy up!
・Twitter:飯田浩司 そこまで言うか!