※この記事は2019年01月13日にBLOGOSで公開されたものです

橋下徹氏が「三角関数は国民全員が絶対に学ぶべき義務教育である必要はない」との趣旨の発言が、ネットで炎上している。

橋下氏の言葉に反発する人は「三角関数はこんなに様々な場面で使われているから必要だ!!」と主張している。(*1)

そもそも三角関数は高校の数学なので義務教育ではないというツッコミはあるにしても、僕も橋下氏の言葉には同感である。

この手の「この学問はいらない!」VS「いやいる!」の戦いというのは、ハッキリ言えば「伝統行事」だ。

特に三角関数がいるかいらないかの議論は、絶えず行われてきたと言っていい、今回の話以前にもネット上では三角関数を巡る戦いが繰り返されてきたし、ネット以前にも学校でいつ使うかもしれない知識を先回りで学ぶことに対する懸念というのは、ずっと示され続けてきたものである。

なので僕は、この件に関しては明確に結論を決めている。

それは「三角関数を国民全員が学ぶ必要はない。学ばずとも必要に応じて利用できればいい」というものだ。

三角関数は距離の測定や往復運動の理解などを行うためには必要な基礎知識ではあるが、一方で「三角関数を知っていることが必要か」と問われれば、その必要はないと言える。なぜなら我々の大半は三角関数を利用した機器などを用いての距離測定をすることはあったり、自動車などのピストン機構を備えた道具を利用することはあっても、三角関数そのものの計算で何かを算出することを求められることは、ほとんどないからだ。

三角関数は「基礎」だが、それが役に立つというのは、あくまでも「応用」の結果なのである。

三角関数を学ぶ必要があるなし以前に、三角関数は社会の様々な場で応用されており、その結果の成果物を我々は利用している。

こうした「基礎は知らなくても、その成果物が利用される」ことは、いくらでも例示できる。

例えば、自分はウィスキーなどの洋酒が好きで、よく買ってくる。洋酒の大半はガラス瓶に詰められている。

僕がガラス瓶からお酒を、同じガラス製品であるグラスに注ぐときに、僕はガラス瓶やグラスの製造工程、そしてガラスがどのように生産されているのかを知っている必要はないのである。

他にも、今や生活に欠かせない製品であるスマホ。何気なく使っているスマホには多くのテクノロジーが使われている。しかし利用者である私達は、そのテクノロジーの存在を一切理解せずとも、スマホを利用することができる。

それは決して利用者だけではなく、スマホアプリを作る人ような人たちでも同じである。

スマホやパソコンなどに使われる心臓部であるCPUは、本来は「機械語」と言われる命令しか理解しない。しかし、スマホアプリ作成者の大半は機械語など理解していない。アプリ作成社は機械語ではなく、人間が理解しやすい「プログラミング言語」を用いてプログラムを行っているのである。

このように、世の中で利用される基礎的な技術の大半は裏に隠され、人間の使いやすい形に加工され、応用されることで上手に利用されている。この利用に至ることこそが、基礎知識の存在意義なのである。

そして利用するシーンや利用する人数が増えれば増えるほど、基礎知識はより使いやすく加工され、その結果として基礎知識はどんどん見えなくなっていく。かつては三角関数ができなければCGやCADなどが利用できない時代もあったらしいが、現在では設計者ではなくオペレーターであれば、三角関数を必要とすることはない。

三角関数は社会の様々な場所で利用されてはいるが、それは隠されているし、それを隠すことで、誰にでも使いやすく簡単に必要とする結果を得ることができている。それが「三角関数は社会の役に立っている」という言葉の意味である。

故に「三角関数を勉強する必要はない」「三角関数は社会の役に立っている」の2つは、矛盾することなく共に成立するのである。

つまり、この議論そのものが「無駄な議論」であると、僕は結論づけたい。

最後に1つだけ。

「三角関数はいらない」の言葉に過剰に反発するあまり「三角関数を学ばないということは、将来、三角関数を利用する仕事に就けないということだ。人生選択の幅が狭まる!」みたいなモノの言い方をしている人を見かけたことが気になっている。

それは「学ぶ」という行為を、あまりに学校教育という限定的な場に依存し過ぎる考え方ではないか。

「就職は学校活動の結実」みたいな安直な考え方に陥らず、必要に応じていつからでもいくらでも、学ぶことができる社会であることが、基礎知識の流通にとっては重要ではないかと、僕は思うのだけれど。

*1:橋下徹"三角関数は絶対必要な知識なのか"(PRESIDENT Online BLOGOS)https://blogos.com/article/349970/