大手マスコミに代わって危険な戦地へ向かうフリーランス 安田純平さん拘束から見えるいびつな構造 - BLOGOS編集部

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※この記事は2019年01月11日にBLOGOSで公開されたものです

シリアで拘束され、昨年10月に3年4か月ぶりに解放されたジャーナリスト安田純平さんの経験を共有し、ジャーナリズムや戦場取材の意義を考えるシンポジウムが2018年12月26日、東京都文京区で開かれた。

安田さんは拘束までの流れに関する報道や情報に誤りが多いとして、「(自分が批判を受けることは)構わないが、事実関係だけはしっかりするべきだと思う。批判の根拠となっている情報はデマが多い」と指摘。

自己責任論が上がる要因について、「事実なんかどうでもいいとする人が多いため」と見解を示した上で、「ジャーナリズムは事実を明らかにするためのもの。事実に基づいてモノを考えるというのは非常に大事だ」と述べた。

シンポジウムは雑誌「創」編集部や新聞労連などが主催。「創」編集長の篠田博之さんの司会進行の元、安田さんや国内外で活動するジャーナリストや新聞記者らパネリスト7人(以下、敬称略)が登壇した。自己責任論やジャーナリズムの役割に言及した発言を紹介する。

「対テロ戦争」の陰で、犠牲者の大半は一般市民

安田純平(ジャーナリスト):1974年生まれ。信濃毎日新聞を経て、フリージャーナリスト。戦時下のイラクやシリアなど紛争地を取材。著書に『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(集英社新書)など。有料メルマガ『安田純平の死んでも書きたい話』(https://www.mag2.com/m/0001685218.html)の配信を始めた。

イラク戦争以降、特に言われているのが「対テロ戦争」。テロリストの掃討作戦、テロリストを殺す戦争であるということでやっているわけです。でも、実際に犠牲になっているのは、一般人が多い。

私は04年にもイラクで拘束されました。その時、私の拘束場所には近所のちびっ子が多く見物に来ました。(テロリストと言われる人は)実際は農家の人たちだった。テロリストと呼ばれる人が実は一般市民だった、というのは私自身が見ました。実際、イラク、シリアで犠牲になっている人は大半が一般の市民。それをテロリストと言ってしまえば、殺されてしまうのが対テロ戦争です。

テロリストと言われた時点で、その人は人間じゃないわけです。人権ゼロですから、反論する機会もない。誰がテロリストなのかは、言いたい人が「この人はテロリストだ」と言うだけのこと。国家権力がそう言えば軍隊を使って殺すし、メディアである我々が言えば「この人は人間ではない」と言ってしまうことになる。

12年のシリア内戦でもアサド政権が「テロリストがいる」として空爆をしたわけですけど、実際に行ってみると犠牲者の大半が子供でした。自分のいる場所から着弾地点まで1分以内のとこに毎日、迫撃砲や、ヘリからの空爆、戦車からの攻撃があって、どんどん遺体が出てくる状況です。そういったところで犠牲になっているのは一般市民がほとんど。「テロリストだから仕方ない」と言われたら、我々も何となくそう思ってしまう。

生身の人間が殺害される その現実を伝えるため戦場へ行く

人間というものを記号に当てはめてしまう。記号に当てはめた時点で、その人は人間じゃないような気がしてくる。で、無数の人が犠牲になっても、人が殺されているという実感がわきにくくなってしまう。そうしたときに、記号に当てはめるのではなくて、「彼らは生身の人間である」「それぞれに人生がある人間だ」ということを、現場へ見に行きたいと思った。テロリストという言葉が出始めたところで、現場にぜひ行ってみたいという気がした。だから、「対テロ戦争」をテーマに取材している。

自己責任論がどうして出てくるかというと、「事実なんかどうでもいい」と思っているからです。だから、現場の情報なんかいらないなんて話になるし、批判の根拠は大体デマが多い。ジャーナリズムというのは事実を明らかにするためのもの。事実なんかどうでもいいと言っている人に何を言っても通じないです。事実に基づいてモノを考えるというのは非常に大事である、ということをまず共有できないと話が始まらないというのが私の意見です。

安田さんが謝るかどうかは本質ではなかった

原田浩司(共同通信編集委員):1964年生まれ。88年から共同通信カメラマン。ペルー日本大使館公邸人質事件、アフガン首都陥落取材で日本新聞協会賞受賞。国内外で災害や紛争を取材している。

自己責任の論争ですが、いくら考えても結論は出ない。人間は「生きていてごめんなさい」みたいなそんな存在だと思います。例えば、中年のおじさんはそこにいるだけで、みっともなかったり、臭かったりするわけです。それを責任取れと言われてもどうしようもないわけです。その延長線上に戦場取材における自己責任論もあると思う。

(解放後、安田さんの最初の記者会見を受けた)世論、ネットの反応を見ていると、世の中の人はある程度納得したのではないかという印象を持ちました。我々言葉を扱う職業の人間は、考えすぎじゃないかと。意外に世間は謝る、謝らないは気にしていなくて、それが本質じゃないのではないかと。では、どういう社会があるべきかと考えると、僕は緩い社会、おおらかな社会であればいいなと考えます。

海外メディア「安田さんは謝罪する必要はない」

綿井健陽(ジャーナリスト・映画監督):1971年生まれ。アジアプレス・インターナショナル所属。米軍によるイラク侵攻では、現地に留まって取材を続けた。スリランカや東ティモールなど数多くの紛争を取材し、「ロカルノ国際映画祭」人権部門・最優秀賞を受賞。

イラク戦争の取材を2003年以降、細々とやっているのですが、日本人の殺害と、その合間に拘束事件が起きている。だいたい2、3年おきに起きていて、そのたびに「創」で座談会をやり、シンポジウムをやるのが定着している。いつも忸怩たる思いなのですが、こういうときだけジャーナリストが注目される。取材していることやシリアで何が起きているかはあまり注目されない。

安田さんの日本記者クラブの会見の1週間後、日本外国特派員協会で会見があった。最初の会見は非常に張り詰めた空気だったと思うのですが、特派員協会のほうは温かい歓迎ムードだった。日本のメディアと、外国のメディアが注目するところは非常に違うと思いました。最初の質問は「あなたは謝罪する必要はないのだ」というところから始まって、そういう質問が相次いだ。

ジャーナリストが標的にされている

2018年は、世界的にジャーナリストが注目された年だと思います。サウジアラビアの記者が領事館で殺害されました。ミャンマーでロイター通信の記者2人が国家機密を盗み出した罪で禁固7年という判決を受けました。調査段階ですが、2018年のジャーナリストの死亡者は53人から80人ぐらいということなんです。ジャーナリストが非常に標的にされている。見せしめとして殺害されたり、あるいは脅しとして殺害されたり。非常に憂慮しています。

世界のジャーナリストたちはいわゆる戦闘や銃弾に巻き込まれる以上に、国の中でローカルな記者が対国家や対政権の機密や秘密を暴こう、あるいは伝えようとしている。それをいつも横目に見ていて、「やっぱり日本の記者もそういうところにいたほうが」と。(殺害されたフリージャーナリストの)後藤健二さんも安田純平さんもそうですけど、日本人が日本の感覚で、日本と比べたりして取材して報道すると身近に感じられると思います。

政府に従わないと叩かれる 日本の国民性に疑問

金平茂紀(TVキャスター):1953年生まれ。77年にTBSに入社し、モスクワ支局長、ワシントン支局長などを経て、『筑紫哲也 NEWS23』の番組編集長(デスク)。2004年度「ボーン・上田記念国際記者賞」受賞。

自己責任論でいうと、2004年にイラクで日本人3人が人質となった時に、まるで彼らが非国民であるかのようなバッシングが起きた。その時、私はワシントン支局にいた。アメリカでは人質になっていた人が戻ってきたら非常に温かく迎える。「よかったね」と。

日本の場合はめちゃくちゃに叩かれて、家族にまで脅迫状がいく。ワシントンにいて信じられなかった。この国民性は何なんだと。政府に従わないものは叩いて当然だと。要するに、自己責任論の背景というのは、今の政権を支持するものが声高に自己責任論を叫ぶということをきちんとつかまねばならない。

ある女性国際政治学者をテレビが良く使うんです。政治学者って言ってるのに、安田さんの言うような事実を踏まえずに、「身代金が払われただけである」とか、「ひとつも事実がわからなかったから失敗だ」とか何を言っているんだと。そういう人が政治学者として食っていけるという世の中のほうがおかしいんですよ。それを聞いていて私は非常に不愉快だったのですが、そういう人間を使うメディアもまたメディアなんだと思います。

自己責任は、新自由主義の経済が出てきて、政府とか公の責任をいかに軽くするかの文脈で出てきた言葉だが、今使われている文脈は自業自得。ざまあみろ論です。日本的な同調圧力をかけてはじき出すみたいな。非国民探しですよね。そういう論理は全く与する必要はない。そういう論が出たら、「一体どういう立場でそんなこと言っているんだ」と問い詰めて、徹底的に論破する必要がある。

危険な現場はフリーランスに 大手マスコミの欺瞞

もう一つはフリーランスが置かれている立場です。既存の大手メディアが戦場に取材に行かずフリーランスに行かせる構造が、NHKもTBSもテレ東も日テレもある。危険を回避して自分たちの社員は行かせないで、フリーランスの人が行って出来高払いでモノを放映する。そういった構造を打ち砕かないといけない。自分たちが危険を回避して自己規制して、忖度して、危険をフリーランスに追わせて、その成果を自分たちの成果であるかのようにオンエアする醜悪さをそろそろ感じるべきだ。

今起きていることの背景にある一つが排外主義。「日本だけでいいじゃないか」「そんな外のことでわけ分からないとこまでわざわざ行って」と。日本だけで充足して、「日本は素晴らしい日本は良いとこだ」と言って、外のことに目をつぶる排外主義がすごく広がっている。中東で起きていることは、「遠いとこのことなんて関係ねえよ」みたいな空気が流れていることが、自己責任論の背景、フリーランスの人にきちんとした対応をしない背景にある。

外に目を向けないままでは、日本は戦争に気づけなくなる

川上泰徳(中東ジャーナリスト):1956年生まれ。元朝日新聞中東特派員で、2002年「ボーン・上田記念国際記者賞」受賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に「『イスラム国』はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想」(集英社新書)など。

戦争というのはずっと中東で続いています。戦争というのは日本から見ると非常に遠いことと思うかもしれません。実際にそうかもしれません。ただ現地で見ると、僕たちが考えている以上に恐ろしい。戦争が起こると、武器が集まって武器が蔓延する。それから暴力が蔓延する。戦争が起こると、地域も国も不安定になる。そうすると、みんなが自分で身を守らなくてはならなくなり、結局、武装化が進む。

日本の排外主義の中で、外に目を向けない中で、戦争の怖さがだんだんと遠のいていく。ということは、戦争が近づいてきたときに分からないわけです。中東を取材していますが、日本との関係や、これは知らなくては、知らせなくてはと思って取材をする。安田さんが紛争地に入っていく、そこの社会がどうなっているかに関心をもって、知りたい、伝えたいということで入っていく。危険は伴うが、重要なことなんです。

シリア内戦は30万人の人々が死に、500万人の難民、700万人の避難民というような状況。こんなひどいことが世界に広がっているという想像力、単に想像するだけじゃなくて、現地に行ってどういったことが起きているかを調べて取材して、伝えるのはジャーナリストしかない。国は情報を統制したいでしょう。「なぜ危険地で安全が確保されないのに行くのだ」とパスポートを取り上げたりする。

「戦争の現実は?」 市民の思いがメディアを動かす

ジャーナリストがなぜ戦場に行くのか。行かなくてはならないからです。暴力によって、イラクで生活が無茶苦茶になったことが、いつ日本で起こるかわからない。70年前は日本でそういうことが起こったわけですよ。今中東で起こっていることを知ることは日本の未来かもしれない。

自己責任論が広がると、新聞社が「こんなことをするとバッシングを受けるから」となりかねない。「君は中東のことを知りたくて行くかもしれないけど、君が捕まったら、会社は責任取れない」と言われる。情報を伝えることに市民の支持がないわけです。それは、日本のメディアの責任かもしれないけど、市民が「戦争の現実が知りたい」「中東で何が起こっているのか知りたい」となれば、新聞社だってテレビ局だって人を送って伝えるはずです。

戦争の現場から伝えるため 国家のコントロールには従わない

野中章弘(アジアプレス):1953年生まれ。フリーのフォトジャーナリストとして活動を始め、インドシナ難民やアフガニスタン難民、東ティモール独立闘争など数多くの国際問題を取材。大学などでのジャーナリスト養成教育にも力を入れている。

自己責任論という批判について話したい。一つは政府の避難勧告をなぜ無視したのか、政府の方針に従うべきという話。これは、ジャーナリストの仕事を全く理解していない人にはわからない感想です。戦争地に入るときはたいがい隣の国から入るのですが、入国管理法というのは完全に無視します。2012年に安田さんが入った時もレバノンから入って、レバノンに戻れなくなって、トルコの入管に出頭して釈放された。ほとんどが、隣の国から不法出入国するわけです。入管法を守るということはありません。

法は法だという考え方もありますが、ナンセンスです。国家が隠したいことを暴いていくのが、ジャーナリストの役割です。中国とか朝鮮民主主義人民共和国とか、メディアコントロールの強い国もありますが、多くの国は強権的な独裁国家であったりするわけです。法律そのものが国民にモノを知らせない。独裁的な強権的な支配を支えるための法律があったりします。ジャーナリストはそれをかいくぐる仕事です。国家を監視するのがジャーナリストの仕事ですから、国家のコントロールに従うということはありません。

戦争は最大の不条理 社会を良くするための価値ある取材対象

二つ目は安全を確保してから取材をするべきというもの。安全な戦争取材なんてないんです。安全な戦争取材だったら誰でも行きます。世界で最高の戦場カメラマンと言われたロバート・キャパは1954年にベトナムで地雷を踏んで死にました。日本で最高の戦場カメラマンと言われた沢田教一さんは1970年にカンボジアのプノンペン郊外で殺害されました。どちらも明らかにミスがあったのです。ジャーナリストが死ぬときは必ずミスがある。しかし、戦場でのミスというのはリスクをゼロにすることはできないんです。大方は、後で「冷や汗かいた」で終わるんですが、戦場の恐ろしさはそれが死につながることがあることです。

戦争というのは我々の社会で起きているもっとも大きな不条理です。たくさんの命が失われ、我々の生活そのものを破壊する。ジャーナリストが、社会が少しでも良くなってほしいと思って取材する限り、戦争は最大の価値のある取材対象であることは間違いない。私もいろんな戦争地を取材したが、援助関係者も同じスピリットだ。17年だけで援助関係者、つまり国連関係者、国際NGOの人だけで179人が殺害されている。この人たちがリスクをかけて戦地で救援活動を行うからこそ、たくさんの人の命が救われたんです。

フリージャーナリストの支援態勢という課題が浮き彫りに

さらに、フリーは金のために戦争取材をやっているとの指摘。もちろん、まったく金にならないことに行くことはないかもしれませんが、フリーランスの名誉のために言っておきますが、僕の周りには少なくとも戦争カメラマン、戦場ジャーナリストといって気取っている人は一人もいない。みんなそこに最大の矛盾があるから行っているんです。戦場取材をしても売れないことが多いし、儲からないです。

最後にこういうことが起きた時に、我々の側に問題がなかったと言ったら、そうではない。バックアップ態勢がほとんどとれていなかった。特にフリーランスの場合、支援するような組織は日本にはほとんどないんですね。戦争の保険も、誘拐の保険もかけていないんです。そこにかけるお金があれば、取材にかけるといって。我々の側にもいくつもの課題が残った。

メディアとフリーが支え合える体制を構築したい

南彰(新聞労連委員長):1979年生まれ。2002年朝日新聞社に入社し、政治取材を担当。昨年9月から新聞労連委員長。政治家らの発言のファクトチェックに取り組んでいる。

政府があまり知られたくない、見せたくないという状況がある中で、ジャーナリストが「これは知るべきで、国民に知ってもらったほうがいい」と行動して、危害を受けたり、安田さんの場合は拘束されて命のリスクにおかれた。そういう時にしっかりネットワークとして支えていこうというのが新聞労連の取り組みです。

メディアの人間として、大手メディア、組織ジャーナリズムのほうが、戦場取材など厳しい取材を自分たちがやらないことによって、フリーの方に支えられて甘えている構造がある。そこの部分を含めて、どう支え合うかの部分をもう一度構築しないとならないと考えている。