社会にあふれる「小さなノーサンキュー」とどう付き合うか 御田寺圭×赤木智弘『矛盾社会序説』対談 - BLOGOS編集部
※この記事は2018年12月30日にBLOGOSで公開されたものです
与えられた「自由」こそが社会を縛っているのか--
社会の矛盾を鋭く突いたデビュー作『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る 』(イースト・プレス)が好評の御田寺圭氏を迎え、BLOGOS執筆陣であり、ロスジェネの貧困問題に詳しいライターの赤木智弘氏の特別対談をおこなった。
対談のテーマは、ネットで話題になった「かわいそうランキング」から、ロスジェネ世代が抱える問題、ベーシックインカムまで多岐にわたった。年の瀬、貧困問題に注目が集まるなか、長きにわたり社会の矛盾を見続けてきた二人の対談を、たっぷりとお届けする。
弱者支援を歪ませる「かわいそうランキング」
赤木智弘(以下、赤木):今日はまず、「かわいそうランキング」から話を始めたいと思っています。
貧困について報じられるとき、必ずといっていいほど生活保護を受けている家庭を取材しますよね。その際「この人はこんなにかわいそうなので生活保護が必要だ」という話をするわけです。その時、かならず人や生活を映したがゆえのマイナスの面が生まれる。
「白い卵より10円くらい高い、赤い卵を食べてるぞ」とか。そんなどうでもいいことで、「本当はこいつはかわいそうじゃない!」とバッシングされたりと、かわいそうかそうでないかということが、さも格差問題の本質であるかのように論じられてしまう。これって本当にバカげてますよね。
そうやって、「かわいそうか否か」という感情によって生まれる序列を御田寺さんは「かわいそうランキング」という言葉で、うまく説明してくれた。
御田寺圭(以下、御田寺):人間がかわいそうだな、情けをかけてあげたいなと、感情に基づいて選択しようすればするほど、結果的に救われない人が出てきます。たとえば生活困窮者が公的支援の窓口に行くと、いわゆる「水際作戦」みたいな感じで「まだ働けるから」「若いから」とあれこれ理由をつけて追い返されたりするんですけど、そういうことはやめて、この人はどういった社会的ディスアドバンテージを持っているかをポイント制にしていけばよいと考えています。
仕事がないから5点、なにか病気があるから5点、合計何十点だから支給額は○○円ですと、情を介さず機械的に決まっていくようシステムの方が、人情で救済が決められるシステムよりマシだろうなと。
赤木:僕も『「丸山眞男」をひっぱたきたい-31歳、フリーター。希望は、戦争。』を書いたあとに色々取材されましたが、やはり貧困代表として見られるわけですよ。僕個人の考えを聞いたり、生活を聞いたりと。でも、当時から「俺なんか映さないでくれ」と思っていました。
個人を映すのではなくて、格差が生まれてしまう社会のシステム自体を問題にしなくてはいけないのに、貧しい人がいるということを中心に問題を考えてしまう。このことによって、いかにそうした人たちがかわいそうで悲惨な生活を送っているかという観点からしか貧困問題を見られない人がたくさん生まれた。それがシステムや制度にも影響してしまっていると。そういうのはずっと不満に思っているところです。
だからなるべく、そうした個人的な部分はどんどん排除してシステマティックに支援をするというのが本来の弱者保護の有り様じゃないかというのはずっと思っていたんですね。
「小さなノーサンキュー」が積もり積もって巨大な闇に
御田寺:貧困の問題をマクロでとらえるのではなく、ミクロで考えようとして、個人の暮らしを映したりすると「でも、この人って自業自得じゃないの?」という空気も出てしまいますよね。それこそが人間の情なわけですが。でもそれをベースにしてしまうと、子供だったらより将来性があるとか、苦学生とかだったら今後伸びしろがあるとか、そういうところが価値の重点になってしまう。要は生産性ですよね。
それって「無価値な人間はいる必要はない」という考え方と同じ延長線上にあると思いませんか。あの相模原障害者殺人事件を起こした植松聖がこの延長線のずっと向こうにいるとしたら、「かわいそうじゃなくね」とか「自業自得じゃね」って気持ちは同じ道の手前側にあるのではないかなというのは思ってしまいます。
僕らは付き合う人も自由に選んで、仕事も住む場所も自由に選ぶ。自由になにかを選ぶことは、同時になにかを選ばないことと同時発生的です。選ばなかった機会、選ばなかった人、選ばなかったものごとも当然ある。みんなの悪気ない「小さなノーサンキュー」が積もり積もって巨大な闇みたいになっていく。
赤木:ロスジェネもそうですよね。単に企業が当たり前の権限として、たまたまロスジェネ世代が社会に出たときにに、景気が悪かったから雇わなかったというだけの話なんです。それをたくさんの企業がやって、しかもちょうど団塊ジュニア世代という人口ボリュームの大きい世代だったということで被害が拡大したわけですよね。別に誰も悪いことをしたわけではない。ごく自然な選択の結果、社会が断絶してしまったわけで。
結局、誰かが他者を選ぶ以上はどうしてもそうなることがあり得るというのを大前提として考えなきゃいけないんです。必ず努力すれば選ばれるとか、選ばれなかった人は自己責任とか、そういうことでは全くないんだと。各自が最良と考えて個別に選択した結果、全体として失敗することが山ほどあるんだということを前提として考えないと、貧困問題の最初の部分にたどり着けない。
さっき、うどん屋で食事してたら粗暴なおっちゃんがいて、何か知らないけど怒鳴っているわけですよ。このおっちゃんが仮に生活保護を受けていたとしたら、僕だったらすごいイヤなんですよ。でも、そういうイヤなおっちゃんでも制度としては支援がいくよということにしないといけないわけですよね。それがやっぱり社会保障の基本だと思う。
御田寺:みんなが爪弾きにするようなタイプの人であろうが受けられるものにしないといけないし、マクロではみんな「そういうのは大事だね」と言うんです。でも、いざミクロに転換して自分の身近なところにそういうタイプの人がいらっしゃったら「あなたにはもっとふさわしい場所があるよ」みたいなことを言ってしまう。本でも挙げた、川崎の精神障害者のグループホーム建設に反対するケースもそうですよね。
結局……そばに来られるとイヤなんですよ。いま、外国人の待遇を改善しないといけないって話をしていますけど、いざ外国人がわーっと自分の街に来て騒ぎ出したら「こんなやつら来なきゃいいのに」って言うかもしれないし。でもそれが人間の素直な情だとも思います。
ロスジェネ世代は移民と競争することになる?
赤木:少し前に移民の問題で、移民の受け入れに比較的寛容なのは、今の若い人と年を取った人というデータが出ていました。一方、30代~40代は批判的であると。でもそれは寛容な世代が多様性を認めているという話ではなく、労働者として外国人が入ってきた時に、競争になる人達とならない人達の違いだと思うんですよね。30代、40代ってその移民と労働賃金において戦わされる可能性が高いわけですよ。
御田寺:それはロスジェネ世代がってことですか?
赤木:そうですね。逆に言えば売り手市場で大学を卒業して正社員になることができた20代と、当たり前のように正社員である50代以上の人というのは移民が入ってきたら確実に上に立って、移民を使う側の立場なんですよね。使う側だから安心して彼らを受け入れられると。いざとなったら切っちゃえばいいってだけの話ですから。でも実際30代、40代だとそういうわけにもいかないと。間違いなく建築の現場とかに入ってくるでしょうから。そこで仕事の奪い合いになってしまう。
御田寺:もちろん排外主義的な考えはよしとされないじゃないですか。でも赤木さんがおっしゃるような背景で30~40代の人が反対的な立場をとっているのだとしたら、それはかつて彼らは若い頃に自分たちに向けられた視線を再現しているのにすぎないのかなとも思うんですね。
赤木:実際は、排外主義VS多様性じゃないんですよね。多様性は認めているけども、その中で区別をしている。
御田寺:僕自身もいわゆるリーマン・ショックの就職氷河期世代なので「歓迎されない人間」が社会でどのようなまなざしを向けられ、どのように扱われるかはわかっているつもりです。そういう経験をしたからか、かりに「みんなで仲良く社会をつくっていこう」みたいな話に協力したくない人が同世代に多かったとしても、全然不思議じゃないなとは思います。というのも「あのとき、みんなは自分のことを仲間だと思ってくれていた?」って考えてしまうんですよ。「みんな仲良くしようぜ」って言われても、「一番キツかった時期、俺はなにもしてもらえなかったし……」みたいな。
赤木:助け合いとか言われても、こっちばっかり助けてるじゃねえかみたいなのはすごくありますよね。必ずこっちが後回しじゃないかって。
我々が結局、かわいそうランキングにおいて何と戦っているかというと、外国の飢えてる子供とか、イルカとか犬とか猫とかと戦っているわけですね。お金を持っている人たちに対して、かわいそうと思ってもらえるようなアピール合戦をしている。
そのバカバカしさからどうして脱却できないのかというのは常に思っているんですよね。それは結局、「善意に基づく行為」が一番の悪疫であるという話にもつながるんですが。
御田寺:本でも書いたとおり、僕は人間の「情」とか「善意」というものに問題意識をもっています。たとえば支援者側に立ってみたら、檻で鳴いている犬を助けてあげたら「徳を積んだポイント」みたいなものがグッと上がる感じがするじゃないですか。貧しい国の子どもたちにワクチンや食事を配るのでも同じです。でも、ホームレスのおっちゃんに牛丼を配っても「よいことしたね」って思ってくれる人はそんなにいない。それどころか、自分自身でも前者になにか与えることより充実感を得られないかもしれない。
赤木:ホームレスに施しをするなという人も出てくるでしょうね。
御田寺:そういう誰しもが持っている「人を慈しむ心」が、意図せず人を遠ざけたり排除したり、寒空の下で放置したりすることにつながっている部分があるのではと思っています。それが行き着くところまで行ってしまえば、生産性という言葉で人を測ったりしてしまうのかなと思うと――ああもう、いっそ隕石でも落ちないかなという気分になってきちゃうんですよね。
善意による偏りは、東日本大震災時にも起きていた
赤木:問題は善意による偏りなんですよね。東日本大震災が起きた後に、いわゆる貧困系のNGOとかやっている人はすごく困ったんです。寄附が全部震災の方にいっちゃって、こっちの寄附が減っちゃったと。あの時はみんな困ってましたね。
単純な善意なら、どこで使われているかは知らないけれど、誰かの役に立てばいいから1万円寄付しますというのが1番いい。でも、あそこの地震に対して1万円を寄附しますという行為を選んでしまう。寄附は本来は必要なところに必要なだけ送られるべきなのに、寄付する側の心象としては自分が善意を示したいということのためにおこなうので、そこでズレが生じるわけですよね。そして人気のある寄附先と人気のない寄付先が生まれる。寄付が必要なのはどちらも変わらないのに。
だから僕は再分配ということであれば、やはり税金が1番いいと思います。意図せずとも取られて、意図せずとも配られるというのが最大の理想なんですね。
御田寺:税金でいうと、僕はポリシーとしてふるさと納税を利用しないことにしているんです。その理由はうまくいえないのですが、どこに・何に使われてほしいか自分で決める税金って、すこし怖いなと。それって言い方を変えると、あるセクションには自分の税金を「使わないで欲しい」という現れでもあるので。
赤木:例えば、渋谷区とかは区のレベルで同性婚を認めているじゃないですか。そうした政策を支持するために、ふるさと納税で支援しようとする人がいるかも知れない。
しかしそれは、ある自治体が「うちは市町村のレベルで同性婚は認めないよ。むしろ同性愛者はうちから出ていけ」という政策をやった時、そういう政策を支持する人からふるさと納税という形でお金が集まる可能性でもあるんですよね。
今のところ、大半は商品券目当てとかでやっているイメージではあるんだけれども、そこから金銭目的の部分が外れて、本当にその自治体を支援する気持ちが純粋に出てくると、嫌だなと思いますね。
「移民に仕事をやるくらいなら氷河期世代に」論の乱暴さ
御田寺:入管法が改正される前に、移民に仕事をやるぐらいだったら氷河期世代の非正規雇用やワーキングプアに仕事を与えろと言っている人がいましたよね。
赤木:ありましたね。
御田寺:その人は確実に良いこととして言ってるんですよ。でも彼らはもう20年近く正社員の労働から外されてきたんですよね。
赤木:今から対等な労働賃金にするとすれば、下手するとバイト以下ですよね。新卒の20代だったら手取りで18万円とかあれば良い方で、中にはもっと少ない人もいる。氷河期世代にそういう賃金で仕事を与えたってどうにもならない。むしろ今まで仕事から外したのに、いまさら仕事をさせるのかって気はするんですよね。
御田寺:Twitterでそのムーブメントを見て気持ちはわかるし、半分は賛成できるんですけど、じゃあ具体的にどんな仕事にしたらいいのかってことまで具体的に考えようとすると、厳しいんじゃないかなと思うんです。それは別にその人を切り捨ててよいと言っているいるわけじゃなくて、仕事を与えろとかよりはもう、20年間得るはずだった賠償金じゃないですけど…。
赤木:お金の形にした方が絶対に正しい。
御田寺:そうですね。もちろんお金そのものが単体で承認や自己肯定感をもたらしてくれるというわけではないんですけど。少なくともその非現実的な労働よりかは、まずは形として保障をする方がよかったのかなと思うんですね。
赤木:そもそもあの考え方って、コンビニに行った時、店員が外国人だとイヤなので、だったらそこで就職氷河期世代が居てくれたほうがマシだというレベルの話ですよ。氷河期世代がいっぱしの消費者として生活が成り立つかとか、そんなことは考えていないと思います。
御田寺:本当の意味で、見棄ててきた人たちに対して「人生を立て直してください」とか「私たちが悪かったです」と反省しているわけではなくて、たまたまちょうどいいものをそこにあてがったという感じが拭えない気がして。介護が人手不足だからそこに需要があるって話も出ますけど、なぜそこに需要が集中しているのか、その理由も考えないといけない。
赤木:それって今まで給与が安かったりきつかったりする分野だけなんですよね。「うちの正社員と給料と待遇も同じにして入れ替えるから」みたいなことを言う人は絶対にいないので。
御田寺:それで嫌だと断ると「ほら、コイツらはやっぱり選り好んでる、こうなって当然の奴なんだよ」と。「誰もやらない、やりたがらない仕事があるぞ」と投げつけて「できないです」ってなると「ほらやっぱり、自分の責任でそうなったんだね」という雰囲気が醸成されてしまう。人を人としてではなくて生産性としてしか見ていない。
ベーシックインカムの問題点は、承認を得られないこと
赤木:話は変わりますが、この本にベーシックインカムの話があるじゃないですか。それによると、御田寺さんはただお金を配るベーシックインカムだけでは人間に必要な「承認」が得られないことが問題だという。でも僕は、承認って本当にいるの?って疑問に感じているんです。
御田寺:私は承認がいる派なんですよ。
赤木:反対に、僕は承認というものをとことん無くしたい派なんですよ。
御田寺:そうですか。興味深いです。
赤木:ベースとして、僕の考え方としては、お金はシステマティックに配るべきで、そこに承認はいらないと。むしろ承認というのは自尊心であり、それはもう何か社会が保障するものではないと思っています。なので、ベーシックインカムというシステムを揺るがすくらいに承認というものに意味合いが必要だと考える理由を聞きたい。
御田寺: 私も以前はお金を配って、その後のことは自分で探せばよいと思っていたんです。ですが、好きなことをやって達成感や肯定感を得るのは、想像していたより楽ではなさそうだなと思いはじめました。一方で人間の基本的な感情のなかにある怒り、憎しみ、嫌悪、悲しみといったネガティブな感情を表に出すことは良しとされない。
そうすると、生活や仕事がそれなりにうまくいっている、やりたいことがある、楽しいことがある、ハッピーな人ばかりにポジティブな喜び、達成感、楽しさ、連帯感、絆みたいなものが蓄積していく。一方、ベーシックインカムでなんとか食いつなげるかどうかというレベルの人には、そうしたポジティブなものよりも、悲しみ、疎外感、怒り、憎しみ、嫉妬心といった感情ばかりが鬱積していって、最終的には感情の分布にも偏りが出てくるんじゃないかと最近は思っています。
赤木:仕事って基本的にその辺が全部入りなんですよね。うまくいけば達成感があるし、お金も手に入る。それによって社会的地位も上がっていくという。だからみんな仕事ばかりをして、家事の手伝いやPTA活動なんかはしたがらない。
御田寺:仕事というのはたんにお金がもらえるだけじゃなくて、その過程で色んな報酬をもらえます。さっき言った喜びや達成感や連帯感なんかがそうですね。しかしそこから疎外された人に対してお金を配っても、仕事の過程で得られるような報酬はもらえないわけです。ここを埋め合わせるのは相当難しいんじゃないかと思っています。
今のネットを見てすごく思うようになったんですよ。怒っている人が強すぎる。そしてその怒りとか憎しみがあっという間に拡散する。あれはただただ「ヤバいな」と思うんですよね。
オンライン上で現実の上下関係を再現するSNSの危うさ
赤木:結局現実世界でうまくいっている人は楽しくて、そうでない人は辛いという形で、オンラインでも、現実世界の上下関係が出てくる。
御田寺:リアルのステータスがスライドする領域が多くなっているように思います。
赤木:オフラインだけではなくオンラインでも、他人と関わり始めると、突然そうなってきちゃうわけですよね。
御田寺:他者との距離って物理的には遠いかもしれないけど、オンラインだとその距離を超えて、どうやら楽しそうな人間がいるぞという事実だけが垣間見えてしまう。あれがよくないのかなとも思っています。SNSが普及するまでは知るよしもなかった他人の姿に一喜一憂したり、嘲笑ったり、怒ったり、疑ったりするという行為が、多くの人をポジティブな感情からものすごく遠ざけているような感じがしています。
ベーシックインカムの話に戻りますと、自分が必要最低限の生活をベーシックインカムでなんとか送っている時に、そんなことを気にせずに伸び伸びと暮らしている人間の姿をSNSで見せられたら「承認を埋め合わせる」という課題の解決は困難を極めるのではないかなとも思っています。
赤木:僕はそれはベーシックインカムとか社会保障の問題というよりも、オンラインの問題という気がするんですね。繋がりが可視化されるからこそ、不公平感とか自分がきついことがよく見える。
本当は自分の周りだけ見ておけばいいんですけど、世界が見えちゃいますからね。これは極端すぎる例ですけど、自分達が1万の家電を買うか買わないかで悩んでいる時に、ZOZOの前澤社長は月に行くとか言ってるわけでしょ。そういう人の暮らしも見えてしまうと。ただ1番キツいのは、年収200万円弱~500万円ぐらいの人同士のいさかいですよね。
御田寺:中和する方法としては、それこそ地域社会なんかで共同体的な催しをベーシックインカムと一緒にやってもらうしかないかなと思うんですけど。
赤木:日本の場合、地域性と閉鎖的な関係性が一緒だったので、みんな嫌がって地域性がどんどんなくなってしまって、オルタナティブの可能性が消えちゃったのが大きいですよね。で、結局は地域性関係なくても、職業や年収を見て、やっぱりお金を持っている人のほうが偉い、仕事で上の人が偉いということになっている。
御田寺:地域の寄り合い所帯がイヤで上京して、いざ一人になると寂しくて、周りの人は楽しそうで。お金がなくて怒りと憎しみと悲しみと寂しさが貯まって。それを抱えたまま生きることになっている状況は、やっぱり不健全かなって。
「幸せだけが自己責任。その他のことは社会責任だと思う」
御田寺:以前別の媒体で対談をした時に、赤木さんは「たとえベーシックインカムみたいなもので、再分配がおおむね健全化されたような状況が成立したとしても、恐らく幸福までは再分配されないだろう」とおっしゃっていたんですね。
「なぜですか?」と訊いたら、「幸福の形はみんなそれぞれ違うし、かつ他人から与えられない可能性が高いものだからだ」とおっしゃったんです。私たちは今まで、有形無形の資本の有無とか、他者との関係性の強弱などに注目をしてきたわけですが、もっと単純な「幸福を得るための方法」みたいなところまでは十分に考えて来なかったんじゃないかなと思ったんですね。
赤木: 今のような、会社に勤めれば、ある程度社会人的地位があって、お金を持って、オールインワンだというのは本当のところはまやかしなんですよ。
最終的なところは、幸せというのはまた別なところにある。ブレイクスルーの可能性があるとすればそこだけなんですよね。社会が要請する形にするのではなく他の形で自分で得るという。ただそれもまた1つの自己責任論であるのは間違いない。
「幸せを他人に求めるな!」というのはそのとおりなんだけど、一方でそれを無遠慮に振りかざして良いはずもない。
結局、政府はお金を配るしかできないですから、誰がどういう風にその人を幸せにするかという部分だけは自己責任になる。幸せだけが自己責任。その他のことは社会責任だと思うけど。僕はそんな風に考えているんですよね。
御田寺:そうですね。その話を聞きますと、たとえば若い女性が専業主婦に回帰したがるという話とは無関係ではないような気がしますね。
早々に結婚して、子供もいる友達はなんか幸せそうだぞと。世間的には「自分らしく、自立した生き方がいい」みたいな考えも出てきたけど、もしかしたら自分はそれに合ってないかもしれないという揺れはあるのかなというのは思うんですね。それが人間にビルトインされたものなのか、社会が植え付けてきたものなのかは分からないですが。
うまくいえないのですが「多様性」というものに対して、それは良いものだといわれていて、自分でもなんとなくそう思いながら、いざ自分がそれを発揮しろと要請される段階になるとちょっと不安かなという感じです。
赤木:いま、本当に仕事の価値がダダ上がりし過ぎていて。正社員の仕事が必要以上に立派になって、それだけで看板になってきている。ただ、僕は仕事は石油などと同じようにいつかは枯渇すると思ってます。限りある資源です。
新しく仕事が増えても、そこに人は増えないですよ。どんどん機械が増える。機械的に処理される仕事は、たくさん増えていくと思うんですけど、人の入る仕事はドンドン減っていくと思う。仕事さえしていれば金銭的にも心理的にも幸せだという社会はいずれ破綻します。
今は「仕事が幸せ」という世の中ですが、そこからどうにかして幸せの形をシフトしていく。そういう動きというのを誰が推し進めるのかというのはさっぱり分からないんだけれども。間違いなく政府はやらないでしょう。そんなことをする必要が一切ないし、そもそも政府は幸せを定義できないので。
御田寺:そうすると、さっき言ったようなポジティブな感情はもっとレアになっていくだろうなという気がします。
赤木:だから、仕事以外で何かポジティブになれることを今は真っ先に見つけなきゃいけないのかなと思ってますね。ただどうしても人との関わりあいで仕事の上下が出てきたりするので、そういうところはなんとか処理するしかない。
「みんなが望む『普通』のハードルが高すぎる」
御田寺:みんなが望む「普通」のハードルが高すぎるのではと思います。そこはみんなで「ちょっとムリしすぎじゃないか?」というような議論を起こさないといよいよヤバいのではないかなと思うんですね。
普通の水準が上昇を続けて、みんなスーパーマンみたいになっていったら、当然ダメなところ探しの基準も高くなってくる。「AIやロボットにとって代わられるような仕事にしかつけなかったお前が悪いんじゃない?」「コミュ力がないお前が悪いから友達がいないんじゃない?」とか。
赤木:ダメ出しですね。
御田寺:お互いがちゃんとした人間であらなければならないという相互監視の緊張感とハードルを上げて、自縄自縛な感じがします。どこかで止めないといけないと思う。みんな自分が優等生でいなきゃいけないと思っている。近頃の若い人は、統計でもわかっているように他人に暴力も振るわないし、盗みもしない。若い人だけじゃなくて、全社会的に平和で安全になってきている。でもネットには罵詈雑言が溢れている。
赤木:Twitterなんて、1000ツイートして1つ間違ったツイートをすると一斉に叩かれますからね。その他の999で真っ当なツイートをしていても、何も担保してくれない。
御田寺:ワンミスで人生終了を迫るような相互監視を強めて。お互いからポジティブな報酬を奪い合うどころか、社会全体から蒸発させてしまうような状況ができあがってしまっている。
赤木:僕なんか家でゲームをしているだけで楽しいんで、それで十分だってところもあるんだけど(笑)。そう考えると、ゲームは低い基準でポジティブにやれる手段ですよ。
御田寺:来年はビッグタイトルも出ますしね。そうだ、対談とはまったく関係ないのですが、ここまで読んでくださった皆さん、もしいま「ポジティブな報酬」から縁遠いなと感じているのなら、2019年1月に発売する『エースコンバット7』はぜひやってください。あのシリーズは空戦ゲームと見せかけて、実は違います。いや、もちろん空戦ゲームなのですが、それだけではないのです。敵も味方もそろってプレーヤーをチヤホヤしてくれるゲームなのです。自分が出撃すると、敵は「あいつがきた!ヤバイぞ!」と恐れおののき、味方は「あいつがきてくれた!これで勝ったぞ!」みたいな雰囲気になるわけです。
赤木:飛行機モノを装ったギャルゲーみたいな。
御田寺:言い得て妙ですね。ですから、是非購入いただければと思います。私はバンダイナムコさんの社員でも、宣伝のお金をもらっているわけでもないです。私からは以上です。
プロフィール
御田寺 圭(みたてら・けい):会社員として働くかたわら、テラケイ、白饅頭名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS」などにも寄稿。デビュー作『矛盾社会序説』が11月に発売された。
赤木 智弘(あかぎ・ともひろ):1975年、栃木県生まれ。2007年、「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を発表し話題を呼ぶ。以後、貧困問題を中心に、様々な社会問題を論じている。著書に『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か』(朝日新聞出版)など。