IWC脱退で背負う、日本の責任 - 赤木智弘
※この記事は2018年12月30日にBLOGOSで公開されたものです
政府は国際捕鯨委員会(以下、IWC)からの脱退を決めたと発表した。(*1)
IWCはクジラ資源の管理を議論する国際委員会で、日本は長年に渡り商業捕鯨の再開を呼びかけていたが、実現せずに脱退を決めた形となる。
ハッキリ言えばいかにも安倍政権らしい、ポピュリズムに酔った暴走と言うべきだろう。
理由としては単純だ。とてもではないが、いまさら商業捕鯨を再開したところで、クジラ肉に商業として成り立つだけの需要がないと考えられるからだ。
長らく商業捕鯨ができなかったことから、今や日本人の大半にとって、クジラはあまり馴染みのない食材である。僕が小さかった頃にも「大和煮」「竜田揚げ」「ベーコン」くらいでしか食べていなかった。
そもそも鯨肉は「量だけ多く、まずい魚肉」の代名詞であり、それを少しでも美味しく食べるために味を整えた加工品として多く流通していたのである。
過去の流通と今の流通では、特に温度管理などが違うので、鮮度を落とさない輸送もできるだろう。しかしそうだとしても、その他の美味しい魚を向こうに回して勝負できるような美味しさなのだろうか?
商業捕鯨が再開されてすぐならば、一時的にニュースなどで報じられてクジラ肉を試しに食べる人も増えるだろうが、そのブームが長く続くとは思いづらい。
需要もないのに「文化を守る」という目的だけのために、捕鯨に多額の助成金が注ぎ込まれるようなマヌケな事態だけは遠慮願いたい。
そもそも「文化を守る」という目的の捕鯨であれば、IWC加入時にもできていたことである。
IWCを脱退してまで、商業捕鯨を再開させるというのであれば、商業ベースに乗るだけの需要の獲得は必須であろう。つまり、商業捕鯨を再開しても十分な需要を獲得できなければ、IWC脱退の意味はなかったことになる。
そしてもちろん、IWCを脱退したからといって、クジラという水産資源の管理責任から日本が解放されたわけではない。逆に、IWCの管理に従わない以上は、日本独自の管理基準をもってクジラ資源を保護する責任を日本が負うことになる。
もし、日本の商業捕鯨再開で、クジラの頭数が大きく減るようなことがあれば、日本に対する国際世論の批判は免れないだろう。
僕も数年前までは「クジラ食は日本の文化であり、文化の有り様を世界側の理由で排除してはならない」と考えていた。しかし、ここ数年で考え方は大きく変わった。
その理由はウナギという同じく危機にある水産物に対する、日本の対応である。
長期的データによって減っていることが明らか、かつ絶滅の危険性もあると言われるウナギの保護が全く進まず、丑の日になればスーパーに食べきれないほどのウナギが並び、売れ残れば大量に捨てられる。
大量消費大量廃棄は商業のやり方として否定するものではないが、それが米や牛や野菜といった生産管理できる食品で行われるなら肯定できても、絶滅の危険を指摘されるようなコントロールできない資源では肯定できない。
東北の食品は「食べて応援!」をしてほしいが、ウナギに関しては食べることでは応援にならないのである。
ウナギの資源管理ができない日本人に、果たしてクジラの資源管理ができるのだろうか?
少なくとも政府にその認識はあるのだろうか?
見切り発車でなければいいのだけれども。
*1:IWC脱退で商業捕鯨再開 太地町漁協関係者は「ずっと待っていた」(MBSニュース Yahoo!ニュース)https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181226-00025889-mbsnews-soci