「全部捨てて日本に来た」アメ横の誕生と在日外国人 ~ヤミ市から続く、リアリズム~ - フリート横田 - BLOGOS編集部
※この記事は2018年12月30日にBLOGOSで公開されたものです
まず、この狭く、うねる高架下空間に漂う匂い。この匂いが好きか苦手か。これでこの街が好きかどうかもわかる。匂いとは、生魚、カレーやケバブ、炊いた米、モツ焼きの煙など食い物の匂い、酒やたばこの匂い、そしてガード下とビルのすき間を行き来する、大勢の人間の匂いだ。
それがもっとも強さを増すのが、年の瀬。そう、ここはアメヤ横丁。通称、アメ横。この匂いが好きな人は、どこに焦点を合わせていいか分からなくなるほど多種多様な商品とその色彩に圧倒されながら、その前を流れていく雑踏の一つとなって、自分も流されるように歩くのがたまらないだろう。私などが美点だと思うこれらの点が、苦手な人にはもっとも苦手な点であるところも面白い。好悪がわかれるほど強烈な個性を持つ横丁、東京にいくつ残っているだろうか。
「ノガミのヤミ市」がアメ横になるまで
さて、このアメ横はどうやって生まれたのか。ここで73年前までタイムスリップしよう。
昭和20年8月15日終戦。省線(現JR)上野駅から御徒町駅にかけての高架橋周辺は、戦前はしょんべん横丁なんて揶揄される薄暗い一角だったが、このときはすでに更地になっていた。高架下にあった変電設備を米軍の空襲から守るため、戦中に建物疎開(あらかじめ建物を壊し火災の延焼を防ぐ措置)が行われていたのだ。
間もなく、ここに人が群がり集まりだした。上野駅の高架橋はカーブして御徒町駅へと向かう。この曲線が、両駅前それぞれにあった交番からの視線を隠した。このブラックスポットであるガード下とその周辺の狭い一角には人間が流入し続けた。焼け出された人々、復員兵、引揚者、娼婦、戦災孤児、テキヤ、暴力団。物資統制のあった時代に、そういう人々が大勢集まり、政府の決める公定価格を無視してさまざまなヤミ物資を持ち寄って売り買いする青空市場が立った。
ヤミ市の誕生である。それは「上野」の文字をひっくりかえして「ノガミのヤミ市」と呼ばれ、あっという間に都内最大規模にまで膨れ上がった。
とにかくなんでも飛ぶように売れた。上野駅は当時もターミナル駅。東北本線を使って、「カツギヤ」が米や食料を東北から運び込み、進駐軍のPX(軍用の売店)からはタバコや酒なども大量に持ち込まれた。もちろん全て統制を逃れるか、流通してはいけないはずのヤミ物資である。
このときガード下を借り受けた人々は、ほとんどが引揚者だった。それも、元々中国大陸や朝鮮半島の鉄道会社(南満州鉄道、朝鮮鉄道、華北交通など)にいた人々であった。帰国して、古巣国鉄(この時点では厳密には鉄道総局)の縁を頼ったのである。ここで大量にイモアメなどの菓子を売り、それが評判をよんだことから、いつしか「飴屋横丁」と呼ばれ、現在のアメ横の呼称が定着した。
「全部捨てて日本に来た」一大勢力だった在日朝鮮人グループ
さてこの時、いろいろな境遇の人々に交じって、一つの勢力を成すグループがあった。それが在日外国人である。
台湾省民や中国人などの華僑、そして特に存在感が際立っていたのが、在日朝鮮人である(以後、「在日」と表記)。終戦後、それまで抑圧されていた在日は“解放国民”とされ、彼らもまた我が世の春がきたと感じていた。終戦直後の統制経済下でも、日本人ではないためにあらゆる物資が入手しやすかった。進駐軍からタバコ、洋酒などの横流し品を買い入れ、また米や穀物をカツギヤに運ばせ地方から集め、密造のどぶろくを作り、ヤミ市でおおっぴらに売っていた。
カツギヤといえば、私には忘れられない言葉がある。前に、とある老人の話を聞いたときのこと。彼は朝鮮半島最南部の沖に浮かぶ済州島の出身。第二次大戦が終わり、朝鮮半島が南北に分断しつつあったころの話をしてくれた。彼は、住民弾圧の起こった四・三事件(※1)発生の真っ只中、昭和23年に日本に密航し、カツギヤとなった。17歳だった。済州島時代は、混乱する島内で、「北」の「先輩たち」(朝鮮労働党の影響下にある左派の学生グループだったという)に感化され、ビラ配りや学生運動のようなことをしていたというから、過激派学生だったとも言えるかもしれない。旧日本軍が戦中に置いていった手榴弾で、先輩たちが交番を襲撃するのについていったことさえあると言っていた。
でも、「全部捨てて日本に来たんだ」。
彼は、長い物語りの最後に、ぽつりと言った。そして言葉を継いだ。思想も、家族も、全てを捨てて「乞食同然の格好で海を渡ったんだ」と。事件の後、関係者の多くが処刑され、知人も何人も行方不明になったり、「銃殺された」という状況下、単身海を渡りカツギヤになったのだった。数十キロの米を背負い、連日脂汗を流して荷を運ぶつらさは半端なものではなかったと、老人は小さく笑った。カツギヤの後はタクシー運転手、雀荘など仕事を変えながらもこの国で働きに働き、自分の店(焼肉店)を持ち、子も孫もでき、引退した今は、静かな余生を送っている。だが、一度として、故郷には帰っていない。
少々話がそれたが、日本人以外にもこういう境遇の外国人も集まり、物資も大量に集積され、同時に一大販売地でもあったのが、ヤミ市だったのだ。あらゆるモノが欠乏していた時代、本来世に出回っていないはずのモノが並ぶわけだから、それはそれは大きく売れた。特に外国人の店は、最初期はほとんど取り締まられることもなかった。日本人ではないわけだから、日本の法に従う必要はないと彼らが主張し、実際にそうなったのだ。
それに、そもそもこの国から一時警察力が失われていて取り締まりも不十分だった。敗戦により弱体化した警察は、この時期ピストルさえ持たされていない。外国人の一部には我が物顔にふる舞う者もいて、日本人との対立を引き起こした。日本のあちこちで同様のことが起こっていたが、外国人たちの対抗力になったのが、テキヤ組織だった。強力な指導力を持つ親分のもと、ヤミ市そのものをテキヤが運営し、腕っぷしの強い子分たちが横暴な一部外国人たちをけん制することが多かったが、上野はそうはいかなかった。テキヤ、暴力団ともにいくつかのグループにわかれていて、求心力が弱かったのだ。
結局、新宿のテキヤの大親分・関東尾津組、尾津喜之助の力を借りている。尾津親分の主導により下谷神社にて「手打ち」が行われたが、そこにはいくつかのテキヤ組織幹部と在日朝鮮人グループのリーダーたちとともに、上野警察署長や台東区長など行政関係者までが集まっている。
路地にただよう焼肉の煙 東上野コリアンタウンのいま
このとき在日の人々は上野駅の東側に立ち退き商売を始めた。「国際親善マーケット」と名付けられたバラック街は、今では「東上野コリアンタウン(キムチ横丁)」となり現在に至っている(ちなみに、マーケット設立時にここに住んだ人は、私が調べた限り一人もここに残ってはいない)。
狭い路地に木造の建物が肩寄せ合って並び、夜半ともなれば路地は深い闇におおわれ、牛肉の焼ける匂いと煙がただよう。私のように日ごろ路地を徘徊する者にとってはたまらない風景を、今に残している。
じつはこのキムチ横丁、かつては北朝鮮の意向を受けた日本での民族団体である朝鮮総連に所属している店が多かった。もちろん韓国の人もいる。昭和後期ごろまでは、北に関係の深い店は、南(韓国の民族団体である民団に所属)の店の人と街で出会っても、挨拶もしないような状態だったそうだが、近年ではだいぶ様子が変わってきている。
私が以前、民団の台東支部に取材に行ったときのこと。団長は在日の方ではなく、十数年前に来日した韓国人であった。日本語はほとんど話せなかった。いわゆる「ニューカマー」(※2)だ。在日ではなく、ニューカマーの韓国人が開く店もこの一角では増えている。
事務の方に通訳してもらい、「北や南の、ということよりもこの街の戦後の歴史を知りたいのです」という趣旨を私が伝えると、団長は「分かった、待っていなさい」という意味のこと言うなり、突然民団事務所を出て、スタスタとどこかへ行ってしまった。
十数分ののち戻ってくると、驚くことをおっしゃる。「いま、『北』の人の店に行って、あなた(筆者)が話を聞きたいそうだから、協力してやってくれないかと言ってきた」と。なんと総連系の店に、民団の支団長がお願いごとをしに出掛けたのだった。
結果的にはその店の取材は叶わなかったのだが、かつては考えられなかったような変化が起きているのを肌で感じた。いまや、政治的な対立の空気はあまり漂っていないのだ。
この中で暮らす在日三世の30代男性に話をきいたときは、「僕は北にも南のことにも全く興味がありません。在日の友達はいません。日本人の友達ばかり」と言い切られることさえあった。東上野のこの一角以外にも、上野、御徒町界隈には在日コリアンの人々は多く、老舗喫茶店や大きな量販店などを経営している人などもいるが、皆、年月が経てば経つほど日本社会に溶け込み、この国で暮らすときの権利と義務の間で悩みや矛盾を抱えながらも、静かに暮らしている。
「国籍も人種も全然関係ない」アメ横のリアリズム
さて、アメ横にまた戻ろう。この狭い路地を歩くと、途中でひときわ存在感を示す建物に出くわす。路地が二股にわかれる三角形の土地に建つ、「アメ横センタービル」である。これも、ヤミ市時代にルーツを持つ建物だ。
終戦間もない混沌のブラックマーケット内では、ほとんど秩序らしい秩序もなく、前述した外国人勢力の伸張以外に、「地回り」と呼ばれる暴力団員たちの横暴も目にあまるものがあった。店から金をせびったり、それを拒むと食い逃げしたり店をめちゃくちゃに壊すようなことをしていたのだ。いよいよ放っておけなくなり、上野警察署長や下谷区(後の台東区)長に請われて、近藤広吉なる実業家がバラック建ての「近藤マーケット」を建てた。無秩序にめいめい勝手に店をやるのではなく、バラックとはいえ複数の商店主たちが共同で運営していく近代的なマーケットの体裁を整えようとしたのだ。
昭和21年、一坪半の店が25コマのバラックと、80コマのバラックが並び立つマーケットが完成した。24年に火災で焼けて再建してから、東京消防庁の防災危険地域第一位というありがたくない称号をもらいつつ、この建物は30年以上にわたって存続した。ヤミ市時代のアメ横の残り香を伝える最後の建物だったようだから、その佇まいを一目みてみたかったが……。
とはいえ、それほど残念がる必要もない。建て替えたビルがまた、じつにいいのだ。アメ横の中洲ともいえる、150平米の三角地帯に建っていたマーケットを取り壊し、昭和57年、地下1階、地上5階の商業ビルに建て替えが完了した。
いびつな土地に立っているから、各フロアは三角形をしていて、なおかつ最小一坪の店があったりと、現在の商業ビルにない不思議な味わいを持っている。ヤミ市以来、「物を売るぞ」という真っ向勝負の気迫を、ビルの構えから感じてしまう。
一階路面店は路地にむかってテントを張り出し、まさに露店。ここで海苔や鮮魚を売っている。店のお兄さんたちは威勢よく通行人に声をかける。裏側のケバブ屋のトルコ人らしきお兄さんはもっと露骨。おいしいよと、若い女性たちに声をかけている。普通こう来られると、ちょっと迷惑に感じるものだが、アメ横だと不思議とそうでもない。路地一杯に並ぶ魚屋からかかる「千円でいい」のダミ声の洗礼を浴び、大きな人の波にのまれながら買い物を楽しみにくる人々は、そのあたりは心得て来ている。
気取った統一コンセプト、計算されたリーシングなどもない「アメ横リアリズム」がここに結実していると、私はこの風景を見るたびに強く感じる。
高度成長期、年の瀬にふるさとに帰る人々に向け、新巻ジャケを売りまくったアメ横。マイカー普及、新幹線の続々開通でふるさとが近くなり、仰々しいシャケ一尾が売れなくなってきたバブル期には、スキーウェアに切り替えて売りまくったアメ横。これも売れなくなってくると今度は、スニーカーに切り替えて売りまくったアメ横。いいモノで、なおかつ売れる、という手ごたえをつかんだら、どんなモノであろうとあとは安く大量に売る道へと一直線に向かう、アメ横リアリズムは、誠にすがすがしい。
そして今、このリアリズムをもっとも強く感じたいなら、地下食品街におりてみるといい。一歩足を踏み入れたなら、巨大な名も知らぬ淡水魚、まだ青いバナナの山、豚の鼻が詰め合わせてあったりと、日本とは思えない食材が所せましと陳列されているのが目に飛び込むはずだ。中国を中心に、インドネシアなど東南アジアの生鮮食品、乾物などだ。買い物客も外国人が中心だし、店主たちもまた、外国人が中心だ。
現在、ビル上階に入る宝飾店などは全盛時に比べて大分苦戦しているようだし、空き店舗も目につくが、この地下街には商品と客と熱気が充満している。東日本大震災の発生時、一気に店を引き払って帰国してしまった店主たちが多かったそうだが、ここにも「売れるか売れないか」のみで行動する商売人の機敏さ、したたかさを感じずにおれない。そしてまた商売になると見るや、ふたたび地下街に戻り、またも繁盛させている。
ところで、この地下街含め、じつはこのビル内には店舗を仲介する不動産会社が入っていない。全てビル運営会社が直接貸している。このことを教えてくれたオーナーの一言がまた、私は忘れられない。それは最も美しいアメ横リアリズムの響きであり、またアメ横の哲学でもあり、活気の源泉でもあると思わずにいられなかったからだ。
「ここはね、直接顔を合わせて信頼できる人だったら貸す。昔から、国籍も人種も、ぜんぜん関係ないんだよ」。
※1:済州島四・三事件
1948年から翌年にかけて発生した住民弾圧・虐殺事件。米軍による軍政下の済州島で、南北統一総選挙を望む住民が蜂起したことを契機に、朝鮮労働党支持の人々と南朝鮮・李承晩政権支持の人々との対立が深まり、南朝鮮当局が住民を弾圧・虐殺した。この混乱を避けて日本に渡った人々が在日コリアン一世になった例が多い。
※2:ニューカマー
第二次世界大戦前後に日本に渡った在日朝鮮人をオールドカマーと呼ぶのに対し、1980年代頃に来日した韓国人をニューカマーと呼ぶ。現在一般に在日韓国・朝鮮人、在日コリアンとして呼称するのは前者を指す場合が多い。
著者プロフィール
フリート横田 文筆家・路地徘徊家
出版社勤務、タウン誌の編集長などを経て独立。古びた路地、酒場、建物、古老の昔話を追い、“盛り場の戦後史”を雑誌・ウェブなどに多数寄稿。街歩き本の監修も行う。著書『東京ノスタルジック百景』『東京ヤミ市酒場』等。現在、昭和の横丁の成立を探るルポの取材を進めている(2019年秋発行予定)。編集集団(株)フリートの代表取締役もつとめる。
twitter:@fleetyokota