※この記事は2010年02月11日にBLOGOSで公開されたものです

 NHKスペシャルで放送された「無縁社会 『無縁死』3万2千人の衝撃」という番組が話題になっている。(*1)
身元不明の死者や、一人暮らしの家で倒れ、数週間発見されない孤独死。そして死んでも身元の引受人がない、その家の直系ではないなど、さまざまな理由でお墓に入れず、共同墓地に埋葬されたり、献体に回されるなど、人の死の現実を突きつける内容であった。

 私は再放送を、twitterで同じ番組を見ている人たちのつぶやきと一緒に見ていたが、この番組を見た多くの人たちは、こうした現実を「寂しい」「惨め」であると受け取っていたようだ。
 しかし私は、人間にとって避けられない死という状況が、孤独である時に訪れる可能性を十分に考慮していない行政のありように不備があるとは思ったものの、無縁死に決して寂しさは感じなかった。
 私自身、多くの人に囲まれたにぎやかな晩年を過ごせるとは思ってないので、無縁死に至ることは十分に想像できる。病院のベッドで死ねればいいが、自宅内の不慮の事故で死ぬかもしれない。
 しかし、その場合の懸念は「自分の死体が、生活した部屋を汚してしまうのではないか。そうなると大家さんに迷惑がかかるな」という周囲へ与えてしまう迷惑に対する懸念である。死んだ後に死を処理してくれる人がいなかったり、墓に入れず共同墓地に埋葬されるということそのものを、「寂しい」とか「惨め」だとはまったく思えない。(*2)
 中には、「自由、気ままな暮らしをしてきたツケ」などと論じる人もいたが、単に死を処理してくれる人がいるかいないかだけで、人を見下すことのできるメンタリティーに寒気を覚えた。

 また、無縁死の貧困問題と関連深いことは確かであるが、だからといって「貧しい人にも家の墓に入れる権利を!」と主張しようとも思わない。
 「人は家族に看取られて当たり前」という意識は、無縁死を「人の死の例外」として扱ってしまうが、人間の最小単位は家族ではなく各個人なのだから、無縁死は本当であれば「人の死の基本」なのである。そうした人の死が、単に「死を処理してくれる人がいない」というだけのことで、問題をはらんでいるかのように思えてしまうのは、基本の死すら処理することのできない行政の怠慢であるし、また人の死をすべての人間が各家庭で処理できるかのような高度経済成長の幻影があったのではないかと思う。
 そもそも、「先祖代々のお墓」など、お金持ちの示威的行動の一種である。それを一般人までもがマネするようになったのは、やはり高度経済成長によって、潤沢なお金が一般の労働者に回ったからだろう。ある世代の人たちは、当たり前のように車を買い、家を買い、そして墓を買った。そして「病院や自宅のベッドで死を迎え、自分の家の墓に入るのが人間として当たり前」であるかのように思い込んでしまった。
 けれども、それは経済成長前提の傲慢である。
 「死」という、人間が人間であるがゆえに避けられぬ根源的な現象に対して、「墓を得られるようなお金」や「死の後処理をしてくれる家族」という、自らが努力で勝ち得たと信じているもので、死の痛みが和らげられると信じ込み、死そのものから逃避しているに過ぎない。
 「家の墓に入れない人や、後処理をしてくれる家族がいない人間は寂しいのだ」という同情は同時に、墓も家族もない人に対する侮蔑なのである。

 「社会の最小単位は家族」などという人たちがいるが、私は「社会の最小単位は個人」であると考えている。
 個人がよりよく生きようとした結果として家族があるのであり、決して家族があることが個人がよりよく生きるための絶対条件ではないし、よりよく生きた証でもない。
 今後、こうした無縁死は増えるであろうが、むしろ増えることによって、無縁死が「人の死の基本」として認められ、単独での死に対して、より早く死体を発見し、火葬や共同墓地への埋葬という流れががスムーズに行われることを、私は期待している。最近だと独居老人などのために、ポットのお湯やガスの利用、また室内センサーで家の中で人が動いていることを確認するシステムなどが利用されている。こうした動きは、社会が個人でも安心して死ねる社会を目指している一端といえよう。
 孤独であっても豊かに生き、安心して死ぬことのできる社会こそ、本質的な意味で豊かな社会であると、私は思う。

*1:NHK「無縁死3万人」に大反響 「他人事とは思えない」コメント殺到(J-CASTニュース)http://news.livedoor.com/article/detail/4583565/
*2:仮に家族がいたとしても、私が死んだ後はその人たちの人生である。思い出すなら写真やVTRでも見てくれればいい。何も骨壷を、後生大事に高価な石の下に保管する必要などない。そんなものさっさと捨てて欲しい。

プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。著書に「「当たり前」をひっぱたく」など。