【赤木智弘の眼光紙背】無駄な過剰はいらない - 赤木智弘
※この記事は2010年02月04日にBLOGOSで公開されたものです
震災で傷ついたハイチの人たちに千羽鶴を送ろうと、mixiで提案し、行動を始めた女性が批判に晒されているようだ。(*1)確かに、千羽鶴などを送り、現地の人たちを慰めてあげたい気持ちはわかる。だが、温かい気持ちは持っても、行動は冷静でなければならない。今、ハイチに必要なものは何かと考えれば、それは金や物資、そしてそれを分配する専門家の力であって、ボランティアきどりの野次馬や、かさばるだけの千羽鶴ではないだろう。
阪神大震災のときには自尊心だけはたっぷりだが、経験と判断力が不足したボランティア希望者が集まり、現地のボランティアがボランティア希望者の対応に時間を使わざるを得なくなり、現場が余計に混乱したと聞く。
また、食料が必要ではあったものの、おにぎりなどの保存性のない食料が送られ、食べきれず捨てなければならなかったということもあったという。
そうした過去の失敗を踏まえ、ハイチに対して何かをしたいのであれば、何をするかはプロに任せて、我々のような素人は、信頼できる団体に募金をすることなどにとどめておいた方が良さそうだ。
千羽鶴を送ろうとした女性たちは、「地震で家族を失ったハイチの人たちに、1人ではないと元気づけてもらうのが狙い」なのだとしている。確かに、被災で多くのモノを失ったハイチの人たちに、そうしたメッセージを届けることは無意味ではない。ハイチの人たちに今必要なのは物資や復旧支援などの形あるものだが、人間は形あるものだけで生存しているわけではないからだ。
しかし、本当に「1人ではない」と元気づけてもらいたかったのは、むしろそうした活動に賛同した人たちではないのだろうか?
また、そうした活動を批判した人たちもまた、他人と一緒になって批判をすることによって、1人ではないことを実感したかったのではないか。
千羽鶴を送ろうとしたり、それを批判したりする「行為」は、社会に対して自らの存在意義をアピールするための手段である。
人間の価値というものが自然に存在するだけで認められず、働いたり、お金を儲けたりと、何らかの社会的な行動をとって始めて認められる社会において、行為のアピールは極めて重要である。何もアピールしなければ「何もしていない人」と社会からみなされ、「自己責任」と言われて見捨てられる。
そうした不安から逃れるために、自分が決して1人ではないこと、社会から見捨てられていないことを、強くアピールする必要がある。
だからボランティアをしようと思えば、単なる募金よりも、千羽鶴などというパフォーマンスに走ってしまいがちになる。そして、それを非難する人たちの態度もまた、穏当にたしなめるのではなく、苛烈な批判に至るのである。
社会的な承認を求めるが故に、アピールがどんどん過激になり、適切な行為の価値が貶められていく。
そして過剰な行為が社会のリソースを必要以上に浪費しまうことにより、その他の行為に回らなくなる。
そうした状況を是正するためにも、何が必要十分であるかを慎重に見極めることが必要であろう。
*1:「ハイチに千羽鶴贈ろう」 被災者喜ぶのか、迷惑なのか(J-CASTニュース)http://www.j-cast.com/2010/01/27058874.html?p=all
プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。著書に「「当たり前」をひっぱたく」など。