【赤木智弘の眼光紙背】「タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!」に、いろいろと追記 - 赤木智弘
※この記事は2009年04月23日にBLOGOSで公開されたものです
前回の「タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!」(*1)に対し、多くの反応があった。読み返して見ると、確かに「これはマズかったな」という文章があった、それは「そんなに嫌ならホーム端に行かなければいいだけのことだろう。」という部分である。
これに関しては、分煙の原則を「煙を漏らさないこと」であると考えれば、露天における喫煙自体が分煙の要件を満たさないのだから、「一瞬ならかまわない」などという恣意的な判断ではなく、喫煙ルームなど、煙を一定の場所に留め、処理することの徹底を主張するべきであった。
結論としては、ただ喫煙所を廃止して、「皆さまの健康のために」とアナウンスして良しとするのではなく、公共交通に携わるものの責任として、多くの場所を禁煙としながらも、喫煙者の権利を守る配慮としての、喫煙ルーム設置が義務づけられるべきであろう。ということになる。
それは駅構内もそうだし、禁煙エリアもおなじである。ある程度の面積に対して、一定割合の喫煙ルームを整備することが、喫煙者と非喫煙者、双方の権利を守ることができる落とし所ではないかと考えている。
「批判されているのはそこじゃないだろ」という声が聞こえるが、とにかく前回の記事において、私が反省するべきなのは以上の部分のみであり、他の論点については、極めて妥当であったと考えている。
そもそも前回の文章はタイトルからして「タバコが迷惑なら(仮定)、子育てだって迷惑だ!(仮定から導き出される考え方)」という、仮定を前提とした話である。なので、仮定が変われば結論も変わる。ちゃんと最後に書いてある通り、私が望むのは、タバコを吸うことも子供を育てることも、同様に尊重される社会であって、決して子育てを貶める意図はない。
けれどもその「同様に」という考えに異論を唱えたい人が多くいるようだ。
子育ては「子供を育てて、社会を円滑に運営するための、社会の役に立つ行為」である一方、タバコを吸うことは「本人の健康に悪く、医療費を増大させ、他者にも危険を及ぼす、社会にマイナスの行為」であるというのが、その主張の根幹であろう。
憲法13条に、このような事が記されている。
「第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
このうち、幸福追求に対する国民の権利を「幸福追求権」という。私は子供を育てる事も、タバコを吸うことも、この幸福追求権の範疇であると考えている。
というと、「タバコを吸えば、健康を害する。だからタバコを吸うことは幸福追求とは言えない」という反論も出るだろう。しかし、この幸福追求権という言葉は、あくまでも「国民という個人」の自由として規定されている。つまり、ここで言う「幸福」とは、「こうしたデータがある」という客観的から導き出した「タバコを吸わない方が幸福であろう」ということではなく、「今日も元気だタバコがうまい!」という主観的な幸福である。
そのことを強調するために、幸福追求権を「愚行権」と呼ぶ人もいる。それがたとえ客観的に愚行であるとしても、当人が望む限りはその権利は認められるべきという考え方である。
もちろん、これらの権利に関しては「公共の福祉に反しない限り」という制限がつく。公共の福祉に反しないということが、どの範囲を示すかは線引き問題なので、明確な定義はしないでおくが(*2)、少なくとも「タバコを吸うことそのもの」が公共の福祉に反していないことは明白である。なぜなら、成人がタバコを吸うこと自体は違法ではないからである。
では、タバコの煙を他の人に吸わせてしまうことはどうだろうか。私はこれは公共の福祉に反してしまうと考える。タバコを吸う権利が認められるならば、当然タバコを吸わない権利も認められるべきであり、露天での喫煙は他人のタバコを吸わない権利を侵害することになる。だからこそ、その調整として「喫煙ルーム」が必要なのである。
もちろん、だからといって、タバコを吸うことを手放しで翼賛する必要もない。タバコを吸える場所を確保した上で、健康に対するデータを提供する。そして、本人が自ら「タバコを辞めたい」と思えば、禁煙外来を整備するなどして、本人の幸福追求権を尊重しながら、タバコを辞めることをフォローすればいい。
タバコを吸うにしても辞めるにしても、それは完全に個人の趣味趣向と考えられるべきであり、そのどちらとも、国が尊重するべき権利である。
そして私は、それは「子育て」も同じことだと考えている。
子供を産み育てることは、完全に個人の趣味趣向であり、それを国は尊重し、適切な支援を行う責任を負うのである。
子供を育てることが仮に「役に立つ立たない」という文脈上でしか認められないとすれば、「貧乏人の子供は犯罪率が高いと思われ、社会に害をなすから、子供を産むことに所得制限を定めよう」であったり、「遺伝性の障害を持つと疑われる親に、子供を産ませても役に立たないから、断種しよう」という優性思想が肯定されることとなる。
また、批判の中には、「子供を育てるのが趣味なんてとんでもない。子供を育てるのが親の義務だ」という意見もあった。
大半の親は「これは義務だから」と子供を産んだのではなく、自らの幸福のために、望んで子供を産み育てているのだと信じたい。しかし、親達が「私たちは義務で子供を育てているのだ!!」と大声で叫ばなければ、自らの存在意義を肯定できない現状があるとすれば、それは親自身にとっても、そして存在意義の条件という打算によって育てられる子供にとっても、不幸であると言えよう。
そして、義務を果たしていることを大声で叫ぶとすれば、必ず「アイツは義務を果たしていない」という非難によって自らの正しさを証明する手続きが必要となる。
そしてその標的は、身体的要因で子供を産むことができない人や、子供を産まないことを選択した人たち、そして単身者である。また、最近報じられる給食費の滞納問題なども、「親の義務を果たしていない」ことに対する批判である。そしてそうした批判は「給食費を払わない親の子供が、給食を食べられなくても仕方ない」という形で、一番弱い立場の人間に辱めを与えることに至ってしまう。私は子育てを「役に立つ立たない」や「義務」という視点で論じるべきではないと考えている。
私が子育てを「趣味」と記したのは、子育てに対する主たる責任が社会に属するのではなく、個人にあることを明確にするためである。
あくまでも子供を育てるという選択は、「自由の行使」であることを、まずは自覚しなければならない。それを「社会のため」とか「義務だから」と、さも「自分は強制的にやらされている」ように言い換えることは、自ら自由を行使しながら、他者の自由を非難するための偽装にすぎない。
そしてもちろん、子育てが趣味であることは「子育ては自己責任」という結論には至らない。子育ては自由の行使であるからこそ、国はその自由を尊び、適切な支援を行う責任を負うのである。
だからこそ、私は「タバコを吸うこと」と「子供を育てること」という両極端な事柄を同じ俎上にあげ、両方を「自由の行使」という同質の事柄として論じたのである。
タバコを吸うことは悪いこと、子供を育てることはいいこととして、聖域にするのではなく、タバコから子育てまで、あらゆる個人の自由は、幸福追求権として公共の福祉に反しない限り、尊重しなければならない。
そしてその尊重というのが、タバコを吸うことであれば、煙を垂れ流して非喫煙者の健康を損ねず、かつ喫煙者の権利を一方的に奪うことでもなく、喫煙ルームの設置などの落とし所を調整することだろう。
そして、子供を育てることであれば、どんな人でも子供を産む権利を持ち、産まれた子供を育てることに対して、国が親と子供、双方の幸福のために、十分な支援を行うことである。
そうして国民の自由を尊重することこそが、日本が民主主義国家として成り立つために、そして、この日本が住みやすい社会になるための必須要件である。私はそう考えている。
以上を読んで、「こじつけだろう」と思う人もいるかもしれない。
しかし、私の話は前回から一貫して「自由と幸福追求権」という話なのである。
*1:【眼光紙背】タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!(ライブドアニュース)
http://news.livedoor.com/article/detail/4109939/
*2:一番難しいのは、この「公共の福祉に反しない限り」の範囲を、どのくらいとるかという、線引き問題である。最近の線引きはあまりにも非寛容であると思う。
プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「「当たり前」をひっぱたく」。
眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。