※この記事は2008年11月25日にBLOGOSで公開されたものです

田母神論文問題と元厚生事務次官等殺傷事件に通底する「嫌な感じ」がする。率直に言うが、クーデターとテロによる「世直し」に国民が不安と期待の入り交じった感情をもっているという印象を筆者は受けている。

民間会社の懸賞論文に応募し、最優秀賞を受賞した田母神俊雄航空幕僚長(空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」に、<日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである>などの記述があることが、政治問題となった。田母神論文の内容が政府の歴史認識と異なるとか、文民統制に違反したという議論があるが、的がはずれていると思う。田母神氏の意図が、自衛隊の改革にあり、歴史認識は、それを導くための物語に過ぎない。防衛省は、田母神氏を空幕長から解任し、定年延長が適用されなくなったので「円満退職」という知恵を出したが、問題がこれで解決しないことは明白だ。

自衛官は無限責任、すなわち有事の際には、自らの命を差し出すことが要請される特殊な公務員だ。国益観、正義感が強い自衛官も多い。自衛官が自らの歴史認識、政治的見解を表明することを過度に恐れる必要はない。重要なのは、上官の命令に服することだ。むしろ自衛官を政治的に無菌状態に置いておこうとすると、逆に「世直し」型の思想が自衛隊内部に浸透し、不測の事態に発展することになる。戦前の大川周明、三上卓、北一輝などの「世直し」思想を志のある自衛官がきちんと学んだ上で、「クーデター型の世直し運動は、最終的にその成果をエリート官僚に簒奪される。

従って、国民大衆のためにならない」という自覚をもたせることが重要だ。自衛官を含め、公務員が現下日本の状況に義憤を感じ、「世直し」を考えることは、基本的によいことと筆者は思う。問題は、それが官僚の自己保全、権益拡張につながらないように社会と結びつく適切な回路をもつことだ。

元厚生事務次官夫妻等殺傷事件については、現時点では不透明なことが多すぎる。しかし、ここでも事件発生直後から「年金テロ」という言説がマスメディアで流布したことが不気味だ。もちろん「テロ」を示唆する発言をした警察官がいるのであろう。しかし、一昔前までならば、確証が得られない時点で、軽々にテロという文字が新聞の紙面に躍ることはなかった。国民が深層心理において、「こういう世の中は、テロでも起きない限り変わらないのではないか」という認識をもっていることを新聞記事やワイドショーの報道が反映しているのだと思う。
 
政治家は、田母神論文問題、元厚生事務次官殺傷事件を通底する「嫌な感じ」についてどう考えているのだろうか? 社会的不満を議会が解決できないとき、クーデターやテロが発生したという戦前の事例をいまこそきちんと学び、方策を考えるべきだ。(2008年11月25日脱稿)


プロフィール:
佐藤優(さとう・まさる)…1960年、東京都生まれ。作家・起訴休職外務事務官。日本の政治・外交問題について、講演・著作活動を通じ、幅広く提言を行っている。
著書に「国家と人生 寛容と多元主義が世界を変える (角川文庫)」、「国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)」、「自壊する帝国 (新潮文庫)」など。


眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。