【赤木智弘の眼光紙背】あたりまえであることは、本当にあたりまえであるべきか - 赤木智弘
※この記事は2008年11月14日にBLOGOSで公開されたものです
10月18日、大阪府で58歳の男性が、14歳の女子中学生が運転する自動車に跳ねられ、140メートルも引きずられ重症を追った事件があった(*1)。女子中学生はつかまれば無免許運転が発覚するために、そのまま逃げたということである。車にかぎらず子供が大人のマネをして騒ぎになるというのは、よくあることだ。
代表的なのが「たばこを吸う」行為だろう。かくいうわたしも小学校6年生のころに、友達とタバコを吸ったことが数回ある。自分の喫煙歴は今のところその数回だけである。
私は資格がなくタバコを吸ったが、それが事故に繋がることはなかった。タバコは自らの健康被害を引き起こす可能性は高いし、火の不始末で火災を起こすこともある。しかし、車とくらべれば、その危険性は決して高くない。
しかし、車の運転というのは大きな事故に繋がる危険を伴う。それは車という鉄の固まりを、時速5,60キロで動かすのだから、あたりまえのことである。
だからこそ、タバコに免許はいらないが、車の運転には免許が必要なのである。
しかし、今の日本社会において、そうした車の基本的な危険性について、社会全体としての理解が十分だと言えるだろうか?
タバコはかつて「労働者なら吸ってあたりまえ」なものであったが、現在は健康面への危険性が指摘されるようになり、喫煙者もおおっぴらに吸えなくなってきている。そうした状況においては子供の側も「タバコ=大人」という等式を描くことができず、子供の喫煙は減っていくことになる。
ところが、車はそれ自体が十分に危険なものでありながら、タバコほどに危険の周知が徹底していないように、私は感じる。
かつて、タバコのCMは「かっこいい大人はタバコを吸うものだ」というイメージで彩られていた。私の小さいころはまだタバコのCMが流れていて、マルボロやラッキーストライクといった、かっこいいCMを幾度となく目にしていた。
しかし、そうしたCMは、世界の嫌煙の動きによって、どんどん規制されて行った。今の日本ではタバコ単体のCMを流すことはできない。
だがその一方で、「かっこいい大人は高級車に乗るものだ」というかっこいいCMは、今なお流され続けている。そしてかつての高度経済成長時代に車を買うことが一人前の証であったのと同じように、今もまた大人になれば車に乗ることがあたりまえだと、ごく自然に理解されている。そうした社会情勢の中では、子供の無免許運転がなくなることはない。
とはいえ、かつての「バイク3ない運動」のような、一方的に押さえつけるだけでは、むしろ「大人のいうことを無視する俺カッコいい」と考える子供が出てきてしまう。
そうではなく、タバコと同じように「大人は車に乗ってあたりまえ」というイメージを弱め、実際に車があってもなくても生活できる社会をつくっていくことが、今回のような悲劇を減らすことに繋がるのである。
そうした積み重ねが、個人で車に乗るような無駄なエネルギー消費を抑制できる省エネ社会へと繋がっていくと、私は考えている。
*1:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081106-00000143-mai-soci
プロフィール
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国画像を見る」
眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。