※この記事は2008年08月14日にBLOGOSで公開されたものです

産経新聞が報じた所によると、高校・大学・専門学校生のうち、3割が親に対して「殺意を抱いたことがある」ということが、大阪大大学院人間科学研究科の藤田綾子教授らの調査で分かったということだ。(*1)

正直、見出しを見たときに「なんで、3割しかいないの?」と思った。

私は反抗期の子供が親に殺意を抱くなんて当たり前のことであると考えている。まぁ殺意まで抱かなくても、多かれ少なかれ否定的な感情を抱くのは当たり前のことだと思う。にもかかわらず、それが3割しかいないということが私には意外だった。

まぁ、ネット上の反応を見ると、私と同じような感覚を持つ方も少なくないようで、それなりに冷静にこのニュースは受け取られているようだ。

とはいえ、ネット上の反応は決して世間の反応と同等ではない。こうしたニュースを見たときに善良な一般市民の方々はやはり「親に対して殺意を抱くなんて、最近の子供はおかしい」と思ってしまうのだろう。実際には最近の子供の方が殺人を犯していないにもかかわらず。(*2)

私はいくら子供が親に殺意を抱こうとも、問題はほとんどないと考える。

「殺意を抱くこと」と「殺人を犯すこと」の間には圧倒的な壁がある。それこそ親子関係に限らずとも、例えば物分かりの悪い上司に対して「あいつをぶん殴ってやりたい」と思うことはあっても、実際にぶん殴るのはごくごく少数だろう。ちょっと殴る程度でそのくらいの壁があるのだから、殺人に至る壁はいかほどばかりだろう。

そして結局、大半の恨みは、それが実行されないうちに、昇華されたり、別の事情で関係性そのものが終わったりする。この調査に答えた多くの「親に殺意を抱いたことがある」人たちも、その大半は「かつて親に対して殺意を抱いていた自分」を見つめ、客観的視座から「そうした過去があった」と答えているのではないかと推測する。

それを私は「成長」と呼ぶのだと思う。過去の自分を客観視して自覚的に受け入れて、その先を考える。それができているからこそ、このような調査に対して真面目に答えることができたのだろう。

私がもし、親に対して現在進行形で殺意を覚えているとすれば、私は絶対に「殺意を抱いたことがある」などと答えない。殺意などという負の感情をアカの他人である調査員に直接明け透けに話すなど、どう考えても考えられない。

そういう意味で、私は「殺意を抱いたことなんてない」と答えた人の方が、よほど内在的な問題が潜んでいるのかもしれないと勘ぐってしまう。


赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国画像を見る」

眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。