【赤木智弘の眼光紙背】消すか消さないか - 赤木智弘
※この記事は2008年06月12日にBLOGOSで公開されたものです
少し古い記事ではあるが、日刊サイゾーに、興味深い記事が掲載されていた。「社会 炎上阻止部隊がスゴイ!?タレントブログ始めるならアメブロ!!」(*1)という記事で、要はサイバーエージェントが運営するアメーバブログでは、タレントのブログを24時間体制で管理して、不適切なコメントを削除するなどして、ブログの炎上を防いでいるのだという。いわゆるタレントというものはイメージを売りにしているのであり、コメントによってブログが炎上すること自体が、イメージ低下に繋がりかねないのであれば、それを徹底的に排除したいと思うのは当然だろう。
その一方で、こうした管理体制を知らなかったと、電撃ネットワークのギュウゾウさんが怒っている。(*2)
確かに、ギュウゾウさんの怒りはもっともで、自分のところに来た、肯定的であろうと否定的であろうと「意見」というものを、ブログ運営の側がギュウゾウさんのあずかり知らぬところで削除してしまったのであれば、ギュウゾウさんの意思に反するのみならず、不都合なコメントをギュウゾウさんが消したと勘違いされれば、イメージの低下にも繋がりかねない。
まぁ、この2つを並べて考えれば、非常に単純な話、コメントの削除などを通して管理するしないは、ちゃんとタレント自身に選択させるべきだということなのだけれども、ネット上ではコメントが削除されることに否定的な反応をしている人が多いようだ。まぁ、昔から「コメントの削除は言論の自由を否定するものだ」なんていう人はいたけれど。
しかし今や、人気ブロガーに商品を宣伝してもらうようなマーケティングとか、匿名掲示板への会社組織による書込み、wikiでの編集合戦などなど、ネットはとうの昔に純朴な表現の場ではなくなっているはずで、友達や、まれにくる知らない人からの書込みに対応していればいい個人のブログならともかく、タレントという「1対大衆」というコニュニケーションを取らなければならないタレントに対して「ブログだから、コメントの削除はすべきではない」というのは酷だろう。
ネットは個人間の双方向コミュニケーションを容易にしたが、容易過ぎるコミュニケーションは他人との距離や立場の違いを容易に読み違える。たとえコメントをする側がそのタレントをテレビなどで良く知っていたとしても、タレント側からすれば数多いファンのひとり、すなわち他人でしかない。
もちろんタレント側もコミュニケーションを望んではいるが、あくまでもそこは友達関係ではなく、タレントとファンというレベルでの話である。それを保つためにコメントを取捨選択するのも、簡単に人と人が繋がってしまうネット時代の、新しいコミュニケーション術なのだと、私は考えている。
少なくとも、コメントを消すから不誠実で、消さないから誠実だという話ではない。
*1:"http://www.cyzo.com/2008/01/post_284.html
*2:http://www.j-cast.com/2008/05/30020889.html
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国画像を見る」
眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。