「伊吹」は、重巡洋艦として計画・起工したものの、途中で空母に改装された挙句、終戦までに就役しなかった未成艦です。ただ、細かく見ると同艦は重巡としても空母としても、見るべき特徴を持った軍艦でした。

世界一の雷撃力を持つ重巡になるはずが……

 旧日本海軍が太平洋戦争中に建造した航空母艦(空母)「伊吹」。この艦は、改鈴谷型重巡洋艦として計画されたのを、建造中に空母に改装したものです。ただ、紆余曲折の結果、戦争中には完成しませんでした。とはいえ、「伊吹」は重巡洋艦としても、空母としても、際立った特徴を持った軍艦でした。一体、どのような船だったのでしょう。

 太平洋戦争開戦前、旧日本海軍は1939(昭和14)年に利根型巡洋艦の2番艦「筑摩」を就役させたことで、重巡洋艦、いわゆる重巡の所要兵力をおおむね満たすことに成功しました。そこで、同年からの「マル4計画」といわれる次期軍備増強計画では、アップグレード型といえる改利根型2隻の建造を中止するなど、重巡の整備をいったん中断します。

 しかし1940(昭和15)年より、アメリカは「二大洋艦隊整備計画」に従い、アラスカ級大型巡洋艦6隻、ボルティモア級重巡8隻など、合計で排水量137万トンにもなる艦船群の建造を開始しました。これは、日本の連合艦隊がその当時保有していた艦艇の総排水量147万トンに迫るほどの大建艦でした。


終戦後の1946年10月、解体のためにドック入りした旧日本海軍の空母「伊吹」(画像:アメリカ海軍)。

 これに対し、太平洋戦争の開戦直前となる1941(昭和16)年に、日本は31cm主砲を持つ高速戦艦というべき、B65型超甲型巡洋艦2隻や、改鈴谷型重巡2隻(のちの伊吹型)を計画します。

 しかし、この超甲巡は旧日本海軍が「戦艦より航空重視」という方針を掲げたことから、改大和型戦艦とともに中止となり、結果として改鈴谷型重巡のみが建造されます。ちなみに、戦艦の中止は開戦前に決まったため、日本が大艦巨砲主義に固執したという見解は誤りで、実は航空重視の軍備を進めていたことがわかります。

 改鈴谷型は、1番艦が1942(昭和17)年4月に起工されます。2番艦は建造中止となったため、同艦は開戦後に唯一建造が進められた大型水上戦闘艦となりました。

新型機を運用できる空母を目指す

 改鈴谷型1番艦、のちの「伊吹」は建造を急ぐために、既存の鈴谷型重巡(最上型重巡の後期型)の準同型として計画されました。ゆえに改鈴谷型と呼ばれるのです。鈴谷型との主な変更点は、防空指揮所を設置し、2番主砲塔を仰角上げずに係留可能なように改善。加えて後檣(こうしょう)、すなわち後部マストを後部4番砲塔の直前に移し、無線空中線の配置を改善したり、利根型と同型の機関に変更したりといったことも行われたほか、魚雷発射管を61cm3連装4基から、4連装4基に強化するなどしていました。


改鈴谷型重巡洋艦の原型となった最上型重巡洋艦の3番艦「鈴谷」(画像:アメリカ海軍)。

 ただ同艦は、起工後すぐに起きたミッドウェー海戦で旧日本海軍の空母機動部隊が敗戦を喫したことの影響を大きく受けることになります。旧日本海軍が空母の急速建造を計画したため、1942(昭和17年)6月に進水後の工事は一時中止とすることが決まりますが、同年末に雷装強化の設計変更がなされたことで(雷装強化は中止されたという説もあり)、重巡としての工事が継続されています。

 この設計変更では、重巡として偵察機などを搭載するための航空艤装が全廃され、代わりに駆逐艦「島風」と同じ5連装魚雷発射管を5基搭載に変更するというものでした。鈴谷型に追加された1基は、中心線上に配置された移動式で、両舷に配置された2基10門と合わせて、片舷15門の魚雷発射を可能としました。

 重雷装の特殊な軽巡洋艦として知られる「北上」「大井」でも片舷20門ですから、「伊吹」は「北上」に迫るほどの雷撃力が付与される計画だったことがわかります。なお、重巡に限ると世界一といえる雷撃力でした。

 1943(昭和18)年5月、改鈴谷型1番艦は進水し「伊吹」と命名されます。なお、このときすでに主砲塔も搭載されており、巡洋艦としてかなり完成していたといわれています。

 一方、このころアメリカ海軍は、クリーブランド級大型軽巡洋艦の船体を流用した、インディペンデンス級軽空母を続々と建造していました。旧日本海軍も対抗上、建造当初から「伊吹」の空母化を検討していたものの、「船体が短すぎて烈風や流星といった新型艦載機に対応不能」と判断、一時は高速給油艦などへの改装まで検討されています。

 こうしたなか「艦の全長より長い飛行甲板」を備えたり、艦載機側にロケット補助推進離陸、いわゆるRATOを装備すれば、新型艦載機の運用は可能という見通しが立ち、1943(昭和18)年10月に、全長205m、全幅23mの飛行甲板を備えた軽空母への改装が決定されたのです。

戦争に間に合わずに建造中止

 ライバルである、インディペンデンス級軽空母の飛行甲板が、カタパルト装備とはいえ、全長168.3m、全幅22.3mでも飛行甲板が狭すぎると問題視されたことを考えるなら、「伊吹」の飛行甲板は、雲龍型正規空母(飛行甲板長216.9m)に迫る優秀さといえるでしょう。

 空母「伊吹」は基準排水量1万2500トン、29ノット(約53.7km/h)、搭載機は艦上戦闘機「烈風」15機、艦上攻撃機「流星」12機の計27機を予定していました。なお、格納庫を一段にした関係で格納庫が狭く、「烈風」11機については飛行甲板上に露天係止される予定でした。

 ちなみに、インディペンデンス級軽空母は45機の艦載機を搭載可能であることから、27機しか搭載できない「伊吹」よりも上という見解がありますが、インディペンデンス級の45機はあくまでも計画値で、実際には戦闘機24機、雷撃機9機の計33機程度ともいわれています。とはいえ、同級は「伊吹」を上回る速力31.6ノット(約58.5km/h)を発揮でき、優秀な艦型でした。


太平洋戦争終戦後の1945年11月、佐世保で撮影された空母「伊吹」。手前に並んで係留されているのは、旧日本海軍が用いた「波-105」「波-106」「波-109」の各潜水艦(画像:アメリカ海軍)。

 前述した通り「伊吹」は艦の全長より長い飛行甲板を備えていたこともあり、操艦と航空機の指揮上の理由から、飛行甲板に張り出す形で、軽空母としては珍しい島式艦橋を備えていました。また、阿賀野型軽巡洋艦に搭載された、長8cm連装高角砲(高射砲)2基4門も搭載されています。これは装備位置が高く、両舷に発砲できる設計でした。

 このように「伊吹」は、カタログスペック的には新型艦載機が運用可能な、有力な軽空母になれる内容でしたが、資材および労働力の不足や、主砲塔まで搭載した状態からの空母改装に手間取ったこともあり、終戦が近い1945(昭和20)年になっても完成しませんでした。

 結局、この時点で日本空母が作戦を行う見込みはなく、「伊吹」は同年3月に進捗率80%で工事が中止され、戦局になんら寄与せずに終戦を迎えました。

 もし「伊吹」を重巡として、そのまま建造を進めていれば、1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦に参加していたでしょうから、方針変更で活躍できなかった悲劇の艦、裏を返せば、旧日本海軍のあいまいな方針に翻弄され続けた結果、完成しなかったともいえるのかもしれません。