世界最初の上陸用舟艇「大発」を造った旧日本陸軍は、その上陸用舟艇を敵前に運ぶための船を欲するようになりました。そしてその船は、のちに世界中で使用されるようになる強襲揚陸艦の先祖ともいうべき先進的なものでした。

大成功の七了口上陸作戦 あえての反省点

 旧日本陸軍が1932(昭和7)年に行った七了口上陸作戦は、当時もっとも成功した近代的上陸作戦の最初の戦例といわれました。しかし当事者の旧日本陸軍には様々な反省点がありました。その最大のものが、作戦実施が急きょ決まったために、兵員を海軍の艦艇で輸送し、上陸時に使用する大発動艇、いわゆる「大発」を始めとした各種舟艇をあとから徴傭(軍がチャーターすること)した貨物船で送らなければなかったことです。

 とくに、上陸する海岸のすぐそばまで接近し上陸部隊を火力支援する装甲艇は、重くて貨物船のデリック・クレーンでは船上から水面に下ろす、いわゆる「泛水(へんすい):水に浮かべること」ができず、曳航されて現場まで行くしかありませんでした。なにより上陸用舟艇を泛水するのに時間がかかりすぎました。

 七了口上陸作戦は、当事者たる旧日本陸軍からすると、薄氷を踏む思いだったと考えられます。


旧日本陸軍の「神州丸」(画像:アメリカ海軍)。

 さらに、海軍を含めた日本軍全体の上陸作戦の考え方は、奇襲を追求するものでした。このため上陸作戦の速度がなにより大切だったのです。そういった要求から、日本陸軍は今でいう「強襲揚陸艦」の先駆けといえる特殊船の開発に踏み切ります。

軍艦とも商船ともつかない不思議な形 でも思想は先進的

 旧日本陸軍が要求した特殊船の開発は、大発などの上陸用舟艇を設計した陸軍運輸部の市原健三技師を中心に、海軍の協力を得て開始されます。起工は1933(昭和8)年4月ですから、すでに七了口上陸作戦以前に計画自体は動き出していたことがわかります。

 翌1934(昭和9)年12月には、陸軍特殊船・舟艇母船「神州丸」として就役します。船型は、ニューヨーク・ライナーと呼ばれた高速貨物船を参考にしていたものの、完成したその姿は、軍艦とも商船ともつかない不思議な形をしていました。

「神州丸」は、その性格から第一級秘密兵器とされ、乗船するには陸軍大臣の許可が必要でした。こうしたことから、MT(陸軍運輸部長の松田巻平少将と、その部下で「船舶の神様」と呼ばれた田尻昌次大佐の頭文字)、GL(GOD LNALD)、龍驤、などの秘匿名称が付けられています。ただし運輸部をはじめ、船舶部隊ではMTと呼ばれることが多かったそうです。


「神州丸」側面・上面図(イラスト:樋口隆晴)。

「神州丸」の機能上の特徴は、やはり舟艇の浮水能力にあり、船内に収容した大発を、人員や火砲を乗せたままワイヤーを使って引っ張り、船尾門から滑り下ろして迅速に泛水させることができました。加えて重量のある装甲艇も、装備する大型デリックを用いて、戦闘準備が整った状態で吊り下ろすことができました。

 また、最終的には装備から外されてしまいましたが、馬欄甲板(馬の収容甲板)と呼ばれた甲板に最大12機の飛行機を搭載し、それをカタパルト(海軍の呉式二号射出機三形改)で打ち出すことができました。むろん着艦はできませんが、上空掩護ののちに上陸部隊が確保した飛行場などに降りることを想定していました。これは太平洋戦争の初頭にマレー半島の飛行場を上陸部隊が占領、そこにインドシナ半島から飛行隊を進出させて航空優勢を獲るという作戦を彷彿とさせます。

 なお、本格的な強襲揚陸艦は、太平洋戦争さなかの1944(昭和19)年に竣工したアメリカのアシュランド級ドック型揚陸艦であるため、旧日本陸軍の上陸作戦に対する先進性がよくわかります。

「神州丸」はどのように運用する予定だった?

 列国に比べて先進的な存在となった「神州丸」。はたしてこのフネはどのように運用されたのでしょうか。

「神州丸」は基準排水量7100トン、満載排水量で8108トン、速力は最大20.4ノット(実際は19ノット程度)、航続距離は7000海里(1万6200km)でした。また収容可能な兵員数は1200名ですが、最大で2000名が乗船可能でした。これに大発の最大搭載数29隻を考えると、おそらくは戦車中隊や砲兵中隊で増強された歩兵大隊を運べる計算になります。したがって上陸第一波として、後続する上陸部隊の掩護部隊となり、海岸堡を確立し拡大する先鋒部隊を運ぶため、真っ先に上陸予定水域に進入する役割を担っていたのでしょう。当初考えられていた飛行機の運用もこれを裏付けるものといえます。

 上陸用のマニュアルでは1922(大正10)年頃までは、上陸部隊の先鋒には海軍の陸戦隊が使用されることになっていましたが、その後に出されたマニュアル『上陸作戦』からは陸軍が独自に行うことになりました。


旧日本陸軍の「神州丸」(画像:アメリカ海軍)。

 これより後の基本的な作戦マニュアルは『上陸作戦綱要草案』(1927年)、『上陸作戦綱要』(1932年)、『作戦要務令第四部』(1940年)と変遷していきますが、「陸軍が(海軍の協力を得て)独自に行い、奇襲上陸を原則とするが、強襲に転じても良いように準備する」という基本的な方針は変化していません。

 まさに「神州丸」は、奇襲・強襲のために造られたフネだったといえるでしょう。

 就役した「神州丸」は舟艇母船としてだけではなく、優れた通信設備を活かして、上陸指揮船としても使用されました。初陣は日中戦争の勃発にともなう太沽上陸です。その後、多くの上陸作戦に参加。太平洋戦争の初頭にジャワ島(現在のインドネシア)のバンタム湾で味方の魚雷の誤射で着底してしまいますが、揚収に成功します。その後は、輸送任務に重用されたのち、1945(昭和20)年1月3日にアメリカ軍機による空襲で大破炎上し、潜水艦の雷撃で沈没しました。

「神州丸」はおもに日中戦争において使用され、その後は輸送任務に活躍しました。他の軍艦のように派手な生涯ではありませんでしたが、世界に先駆けた設計・運用思想は改めて評価するにふさわしいものといえるでしょう。