隠れ重巡、のちに航空巡洋艦へ 1934.3.14「最上」進水 没後75年に海底で発見
旧日本海軍の重巡洋艦「最上」が1934年の今日、進水しました。ただし対外的には「軽巡洋艦」。決して大きくない船体には、主砲などがいくつも搭載されました。後に航空巡洋艦となりますが、不運に見舞われた艦でもありました。
条約絡みで軽巡に“偽装”
1934(昭和9)年の3月14日は、旧日本海軍の重巡洋艦「最上」が進水した日です。「最上」はそののち、水上機を搭載できる航空巡洋艦へと姿を変えた珍しい艦でもあります。
なお冒頭で「重巡洋艦」と表記しましたが、対外的には最後まで「軽巡洋艦」とされました。理由は建造当時、重巡洋艦の保有数を制限するロンドン海軍軍縮条約の縛りがあったからです。そのため、船体は基準排水量8500トンに抑えられ、搭載する主砲も15.5cm砲と小ぶりなモノ。この三連装砲塔を5基15門、三連装魚雷発射管は12門搭載したものの、船体に対しやや無理をした設計であることは否めませんでした。
1935年3月20日、宿毛湾で最高速度試験中の重巡洋艦「最上」(画像:アメリカ海軍)。
ただし旧海軍は、この条約を破棄する前提で建造を進めており、将来的には主砲塔などを換装して重巡化する予定でした。なお、機関出力は戦艦「大和」に匹敵する15万馬力あまりとされたほか、最大速力も37ノット(約66km/h)と高速を追求しました。
就役してすぐの演習中、「最上」は台風に遭遇。早くも第2砲塔が故障してしまいます。改修を行ったのち、翌1936(昭和11)年末に軍縮条約が失効すると、「最上」はすぐさま主砲の口径を20.3cm連装砲塔に更新。ほかにも、高かった船体の重心を下げる工事などを行った結果、排水量は1万2000トンに増加しました。これにより実質的に「重巡」にふさわしい艦容に生まれ変わっています。
主な戦歴は太平洋戦争に入ってからでした。重巡部隊の1隻としてマレーやジャワなどへ赴き、南方作戦の上陸支援に従事します。1942(昭和17)年2月末から3月にかけては、砲撃と雷撃でアメリカ海軍とオーストラリア海軍の巡洋艦を1隻ずつ撃沈。しかしこの際、外れた魚雷が味方の輸送船なども撃沈してしまっています。
2度の味方艦との衝突
1942(昭和17)年6月には、ミッドウェー島攻略部隊を支援すべく、ミッドウェー海戦に参加します。しかし日本は主力空母4隻を喪失。夜間に反撃を試みますが、撤退命令が出て後退する最中、アメリカ軍の潜水艦に発見されます。このとき、回避行動の最中に味方の重巡洋艦「三隈」と衝突。このあとに襲来した敵機の空襲もあり「三隈」は沈没、「最上」も大破してしまいます。
なんとか佐世保に帰り着いた「最上」は修理を受けるとともに、旧海軍の航空戦力を強化するため、後部砲塔を撤去し水上機用甲板を増設。こうして翌1943(昭和18)年、「航空巡洋艦」となります。水上機は最大で11機搭載できました。
その後はパプアニューギニアのラバウルなどへ物資輸送任務に従事します。1944(昭和19)年6月には、中部太平洋の要衝、サイパン島およびグアム島を巡ってマリアナ沖海戦が勃発。「最上」も参戦しますが、戦果を挙げられないまま、日本は敗北を喫しました。
同年10月、フィリピンを攻略しようとアメリカ軍がレイテ島に上陸。ここに日米の総力を挙げたレイテ沖海戦が勃発、「最上」も参戦します。
「最上」はフィリピン東部のスリガオ海峡に進出。水上偵察機を発進させ、アメリカ艦隊の索敵に成功します。しかし圧倒的な戦力差に、日本は苦戦。行動をともにした戦艦や駆逐艦が撃沈され、「最上」も砲撃で火災に見舞われます。
さらにその最中、「最上」は味方の重巡洋艦「那智」と衝突してしまいます。炎上している「最上」を「那智」は停止と判断、その前方を横切ってしまったためでした。大破した「最上」は味方の駆逐艦により、雷撃処分されました。
こうしてフィリピン沖に没した「最上」でしたが、沈没から75年後の2019年5月、故ポール・アレン氏の調査チームによって発見されます。場所はスリガオ海峡の水面下1450mの地点でした。ちなみに故アレン氏は実業家であっただけでなく、父が第2次世界大戦に従軍したこともあり、晩年は同大戦で戦没した各種艦船の調査に取り組んでいました。