「イモムシ電車」が地下を走行!? 「東急新玉川線」建設時に浮上した幻の「玉電地下化計画」
田園都市線の地下区間である渋谷〜二子玉川間が建設される際、当時地上を走っていた路面電車を地下に走らせようという計画がありました。なぜそんな計画が生まれたのでしょうか。
渋谷〜二子玉川間はかつて路面電車だった
東急田園都市線の地下区間、渋谷〜二子玉川間の歴史は比較的浅く、開通は45年前の1977(昭和52)年です。それ以前は同じルートの地上を「東急玉川線」が走っていました。
電車とバスの博物館に保存されているデハ200形電車。かつての「東急玉川線」の車両(恵 知仁撮影)。
現在の東急世田谷線と同じ、路面電車のスケールの小さな電車がトコトコ走っていた路線で、当然ながら時代とともに輸送容量が限界に達しつつありました。そのため、一般的な電車規格の新線を地下に建設し、さらに地下鉄へ乗り入れて都心直通を図ったのです。この区間は2000(平成12)年まで「新玉川線」と呼ばれていました。
さて、この新玉川線は渋谷から駒沢大学を過ぎた地点まで、国道246号の真下を通っています。おりしも、この国道246号の真上に、首都高渋谷線の建設計画が浮上、それならば両者を一体で工事しようという方針になりました。
そこで首都高速道路公団(以下、公団)と東急の間で工事に関する調整が進められましたが、そこで浮上した課題が「国道246号を路面電車として走っている玉川線を、工事中どうするか」でした。
公団は、「玉川線を廃止してバス代行にすべき」と提案。いっぽう東急は「バス代行をすれば道路渋滞がひどくなる」と反対、そこで出した代案が「玉川線地下化計画」です。1967(昭和42)年8月のことでした。
この地下化計画は、高速道路の基礎を兼ねた地下鉄構造物を先行して建設し、完成後にその地下線で玉川線を仮営業。その間に高速道路を建設し、完成後に今度は地下線の本工事に移る、というもの。14年ほど前から社内で検討されてきた、東急の「腹案」とも呼べる提案でした。
実現すれば数年間にわたり、「芋虫」「ペコちゃん」のあだ名で親しまれた玉川線のデハ200形電車など路面電車の車両が、地下トンネルを走っていたはずです。しかしそれは現実にはなりませんでした。
結局「廃止」になるまでの紆余曲折
地下化の提案に公団は「事が大きすぎる」と難色を示します。代わりに公団は、「玉川線をいったん道路端の仮線に移設する」という計画を提案します。この提案に首都圏整備委員会や建設大臣も賛同。東急は建設省に直談判するなどしましたが、結局この平面移設案で進むことになりました。
この平面移設案は、両側の歩道を削って車道スペースを確保し、道路中央を走っている電車を、地下線と高架橋脚の工事進捗にあわせて仮移設していくというものです。
その平面移設案で施工計画を調整していくと、東急が懸念していたとおり、あちこちで支障が生まれることが判明します。まず車道の幅が十分に取れない場所があり、池尻と三宿で出入口の設置が困難となるうえ、三軒茶屋では道路の立体交差の建設ができず、工期も長くなってしまうことなどです。東急はこの時点でも地下化を再提案していましたが、工期や建設費用の面で課題があるのは同じでした。
1969(昭和44)年8月、玉川線の措置は、けっきょく公団の最初の提案である「バス代行」に決定。東急はこの案をのむ条件として、「玉川線全線と砧線(二子玉川〜砧本村)を廃止し、世田谷線は残す」「バス代行への準備期間は半年」「渋谷駅の東口の旧都電のりばを東急バスが使う」などを求め、認められました。さらに、軌道施設の撤去などのため、公団が補償金として17億円を払うこととなりました。
そのまま同年に着工。それから8年後、悲願の東急新線が開業を迎えることとなるのです。