作家・作詞家として活躍する高橋久美子さんによる暮らしのエッセー。 今回は、年末にさしかかり片づけの季節になってきた今、物との向き合い方についてつづってくれました。

第59回「いつか遺品になる物たち」

●今年も片付けの季節がやってきた

ううー。寒くなってきました。こたつを出さなきゃねえ。

ラスボス12月が目の前に横たわっている。これを超えたらまた1から始まるんだなあ。冬が終わり春になり、またあの暑い夏がきて…なんとなくエンドレスな気がしてしまうけれど、いつか終わりがくるんだ。少々は片付けをしなくちゃいけないかなあ。

瀬戸内寂聴さんや、やなせたかしさんのように、100才近くまでお元気に活動しているなんて奇跡のようなことだもの。

ここでの連載を読んでくれている方はお察しだと思うが、私は荷物が多い。捨てたくないならそれでいいじゃないかと散々書いてきた私の、膨大な本やノートは私がいなくなったあとどうなるのだろう…と、40才を目前にして急にドキドキしてきた。ソニーの倉庫にもまだ沢山のドラムセットを置きっぱなしだしなあ。

これは捨ててくださいね、この皿は高く売れますよ。と、愛媛の甥っ子に頼んでおけばいいのかな。甥や姪の一人くらいドラムを叩かないだろうか。本好きにならないだろうか。

手紙は読まれても問題ないけど、日記とか詩作ノートなんかは先に焼き払いたい。いや誰も読まないか。自分が焼き払わなくても、誰かがとっとと捨てるか。小学生の甥に迷惑料を先に払っておこうかな。好きな物に囲まれて、捨てたくない物は捨てないでいさせてください。

自分の物はまだいい。私より夫が先に逝ったら、夫のこれまた膨大な本や私にはちんぷんかんぷんな専門書を一体誰が片付けるのか。その時を想像する。どれもこれも私は捨てられないだろう。だんだん頭もぼんやりしてきて、パソコンのパスワードとかを聞いていたとしても全部忘れて、メモした紙さえもなくしてしまうんだろう。

●40歳を前に本気で考える

あと数ヶ月で私の30代が終わるので、こんなことを考えてしまうのだよね。だってこの10年が2時間ドラマくらいのようにも思えて、あっという間だったから、この後の20年なんてもっと一瞬なんじゃないかと恐怖になるわけでね。

友人夫妻が先日「互助会みたいにしておこうよ」と言っていて、「それいいねー」なんて笑ったけど、本気でそれが一番いいかもしんない。自分亡き後、遠くの親族よりも、趣味や仕事の近い仲間の方が私の残した物を使ったり、趣味のあう人に分散してくれそう。レコードやCDや本や文房具、食器、着物、洋服、そういう物を、みんなの家で生かしてもらえたらいいなあ。人よりも物の方がずっと長生きするのものなのだと、祖父のセーターを着ながら思う。

夫の物は夫の仲間に見てもらえばいいのか。私よりも夫のことを知っているだろう。やっぱり仲間に頼んでおくのがいいな、とかぼんやりベッドの中で考えた。

一番やっかいなのはデータだ。パソコンの中に入れているデータはどうしたらいいんだ。最近はパスワードの壁を何回も何回も超えなければたどり着かないこともたくさんある。全く整理されていない私のパソコンに詰まっている書きかけの小説は誰にも読まれることなく消えていくのだろう。原稿用紙ならまだ発見されることもあるだろうけど、パソコンは難しいだろうなあ。貯まったアマゾンポイントは誰にも知られずひっそりと期限を迎えるのかな。

まあ、ポイントはいいとして…だから私は完成したものは次々に本にしてるんだな。たとえ自主出版でも、世の中に10冊でも20冊でも残せたら、いざというときはパスワードなしで読んだり、再版することができるものねえ。

そうか、その他の物は私は基本どうでもいいのかもなと、ふと思ったのだった。

「なんて言ってる人が100才まで生きるんだよ」と夫が言うので、この話はなかなか進まない。