「ゴム手袋をした人の指に噛みつくヒアリ(写真:砂村栄力)

その毒は人や家畜を殺し、かつてのアメリカでは年間60億ドルもの経済的損失を与えた猛毒生物「ヒアリ」。実はこの非常にたちの悪い侵略生物にも「天敵」がいる。その意外な正体とは? サイエンスライターの大谷智通氏による新刊『眠れなくなるほどキモい生き物』(イラスト:猫将軍)より一部抜粋・再構成してお届けする。

その赤錆色をした小型のアリは、刺されると火で焼かれたように痛いので「火蟻」という名前がついている。学名はSolenopsis invicta。先頭の属名Solenopsisはラテン語で「管のようなもの」を、後ろの種小名invicta は「征服されない」という意味である。

征服されない――そう、ヒアリは強い。ほとんど無敵だ。

無敵生物・ヒアリの生態

女王は多産で、働きアリの成長は早く、1匹の女王が5年もたつと約20万匹もの巨大コロニーをつくる。一つの巣の中で複数の女王が協力し、連合軍をつくることもある。

有機物の類いであればおよそなんでも食べるし、性質は極めて凶暴。自分たちの縄張りに侵入した生物は容赦なく敵とみなし、強力な毒針で刺したり、毒を浴びせかけたりして襲う。流れ着いた土地を瞬く間に侵略し、昆虫などの小動物、爬虫類、鳥のヒナや小型のほ乳類に至るまで、徹底的に貪(むさぼ)り食い、駆逐する。

そうして、元は南アメリカ大陸に土着の生物だったヒアリは、今や世界中にその勢力を拡大した。その破竹の勢いに、国際自然保護連合(ICUN)は彼女らを「世界の侵略的外来種ワースト100」に選定、日本も「特定外来生物」に指定している。

そう、ヒアリの侵略は自然界にとどまらない。私たちにも甚大な被害を与える。ヒアリは電気設備――彼女らは磁気に引きつけられる――をはじめとする社会インフラを物理的に破壊し、畑の作物の根を食い荒らし、農夫が蒔いた種を持ち去り、果樹園の若木を嚙みちぎり、食糧庫を汚染する。牧場の子羊や子牛、ヒヨコを襲撃して眼を潰し、最悪の場合は殺す。成牛を刺して乳の出を悪くする。

もちろん人も例外ではない。ヒアリの縄張りにうっかり足を踏み入れようものなら、たちまち土の中から大群が湧き出てきて咬みつかれ、毒針で滅多刺しにされる。刺されると火で焼かれたような痛みが走り、ひどく腫れるが、それで済めばまだ運のいい方だ。

毒への過剰なアレルギー反応は、まれに胸の痛み、吐き気、血圧低下、発汗、痙攣(けいれん)、意識の混濁、呼吸困難などの諸症状を引き起こし、死に至ることさえある。

1930年代にヒアリの侵略を許したアメリカでは、多くの人がヒアリの毒によって亡くなっている。経済的な損失も毎年60億ドルにのぼるという。

この非常にたちの悪い侵略生物を克服しようと、アメリカは大規模な農薬散布という撲滅作戦を1957年から82年にかけて断続的に展開した。

このとき散布された化学薬品が生態系に与えた影響は甚大で、当時のことは生物学者レイチェル・カーソンが『沈黙の春』に書いているが、結局、空からの一斉空爆ではヒアリを殺しきれなかった。それどころか、競争関係にあったほかの生物種を滅ぼしてヒアリの繁栄を助けてしまい、この根絶キャンペーンは後に「昆虫学のベトナム戦争」と揶揄(やゆ)された。

ヒアリはその学名のとおり、「征服されなかった」のだ。

しかし、一度は敗北したアメリカは、新たな撲滅作戦を考案した。それは「生物防除」と呼ばれる方法で、ヒアリの故郷から天敵となる生物を連れてきて、それを自律型の対ヒアリ兵器として連中にぶつけようというものだ。戦線に投入されたのは小さなハエだった。ただしそのハエは、もしヒアリたちがものを言えたなら、「悪魔」と呼ぶにちがいない、そんな存在だ。

ヒアリの天敵「タイコバエ」

ハエの悪魔といえば、小説家ウィリアム・ゴールディングはその代表作で、狩られたブタの生首とそこから飛び立つハエの群れを、人間の内面に潜む悪魔になぞらえて「蠅の王」と表現しているが、このハエはそれよりもずっと直接的に悪魔であるといえる。なにしろ、その悪魔は、現実にヒアリの首を狩り、そこから飛び立つのだ。

そのハエの名をタイコバエという。南アメリカ大陸を原産地とし、ヒアリに寄生するノミバエの仲間だ。寄生といっても、最後には宿主を殺してしまうので、その性質は捕食に近く「捕食寄生」と呼ばれる。


タイコバエとヒアリ(イラスト:猫将軍)

タイコバエは匂いをたよりにヒアリの巣にやってくる。そしてアリの頭上でホバリングして隙をうかがい、ハイスピードカメラにしか写らないような電光石火の突撃で、アリの胸部に産卵管を差し込み、素早く卵を産みつける。

アリも巣穴に逃げ込んだり動きを止めてやり過ごそうとしたりするが、ハエはアリに対して1時間に100回以上も執拗に突撃を仕掛け、約3割の確率で産卵を成功させるという。

卵を産みつけられたアリはすぐに死にはしない。卵からふ化した幼虫は急速に成長し、2齢になるとすぐにアリの胸部から首を通って頭部に入り込む。幼虫が頭の中に入り込んでも、アリは生きたまま仲間たちと一緒に過ごしている。ただし、あまり餌を採りにはいかなくなり、攻撃性も低下するようだ。

おそらく、幼虫が宿主の体内でなんらかの化学物質を放出し、その行動を変化させているのだろう。アリは餌を採りにいかなくても、仲間から食べ物を分けてもらえる。宿主がエネルギーを浪費しなければ、寄生虫が成長を遂げられる可能性はより高くなる、というわけだ。

アリの頭部でいよいよ3齢(終齢)にまで成長すると、幼虫は酵素を使って自分が入っているアリの頭部を切り落とす。そして、地面に落ちた頭の中で脳などの内容物を食べ尽くして蛹(さなぎ)になる。さすがに頭が落ちればアリは死に、その死体は仲間によって巣の外に捨てられるが、このときハエの蛹もアリの頭部と一緒に外に運ばれる。

そして、蛹になってから2〜6週間後、蛹からハエの成虫が羽化し、アリの頭部を突き破って外界に出現し、交尾と産卵のために飛び去るのだ。タイコバエの成虫の寿命は3〜5日だが、その間に1匹の雌が200匹近くものアリに卵を産みつけるという。

タイコバエとヒアリが同じ地域にいれば、ハエの捕食圧でヒアリの数が減る。また、寄生によるアリの採餌行動の減少や攻撃性の低下は、ヒアリと競合する在来の生物にとって有利に働くことだろう。


実際、タイコバエをはじめとしてヒアリの天敵が多く存在する原産地の南アメリカでは、多様な生物たちが食ったり食われたりしながら、それなりに安定した生態系を形づくっている。そこでは、ヒアリはアメリカ国内の5分の1から7分の1の数しかいないそうだ。

これまでのところ、タイコバエのアメリカへの導入実験は、ある程度うまくいっているとみられている。

ただ、あくまで局地戦での成果であり、アメリカを広く侵略したヒアリに壊滅的な打撃を与えるまでには至っていない。そこで、科学者たちはヒアリに特化した微胞子虫(極めて特殊化した菌類)、細菌、ウイルス、さらには遺伝子操作を施した新型の天敵の戦線投入を検討しているという。

本当の悪魔は誰か

このように、ある生物に天敵をぶつける生物防除は、化学薬品の無秩序な散布よりはマシなのだろう。しかし、この方法にしても、生態系のバランスの破壊であることに変わりはない。

生態系は大小さまざまなブロックが積み上がってできたジェンガのようなものだ。そのジェンガのある部分からブロックを引き抜いたらどうなるか。逆に強引にねじ込んだら? ハエの大発生くらいのことで済めばいいのかもしれないが、新たな『沈黙の春』が起きないともかぎらない。

ヒアリやタイコバエからすると、自然を思うがまま征服しようとする人類こそ、よほど悪魔に見えるかもしれない。