「何であの選手が呼ばれないんだ!」。サッカー日本代表では、確かな実力を備えているのに、なぜか代表でのプレーに縁がなかった人々がいる。今回、代表に招集された経歴のある選手のうちキャップ1ケタ以下の選手たちで、各年代の影の日本代表「シャドージャパン」をつくってみた。実力者がそろった各チームは、かなり強く見える。

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天才系の揃った1990年代の選手たちで組んだシャドージャパン

<1990年代の「シャドージャパン」>

(FW)小倉隆史(5)、礒貝洋光(2)
(MF)菊原志郎(5)、石塚啓次(0)、増田忠俊(1)
(MF)浅野哲也(8)
(DF)岩本輝雄(9)、大嶽直人(1)、阪倉裕二(6)、森山佳郎(7)
(GK)菊池新吉(7)
※( )内の数字は日本代表国際Aマッチ出場試合数

 超豪華な攻撃陣がそろったのが1990年代の「シャドージャパン」だ。

「レフティーモンスター」として今でも語り継がれる小倉隆史と、天才ストライカーの礒貝洋光のツートップは強力。共にフィジカルの強さとテクニックを併せ持つアタッカーであり、国際舞台でも十分に通用するはずだ。


左足のプレーが魅力だった「レフティーモンスター」小倉隆史

 そして、トップ下には石塚啓次を置いた。これも超絶の天才だ。サイズのあるテクニシャンで、創造性溢れるロングレンジのパスを繰り出す選手であり、何よりもそこに存在するだけでスタジアム全体の空気を変えることのできる稀有なプレーメーカーだった。このアタッカー陣にテクニシャン菊原志郎が絡む、「天才4人が織りなす攻撃」は目を見張るものとなるはずだ。

 左足からの強烈なクロスを持つ左サイドバック(SB)の岩本輝雄と、豊富な運動量を武器とする右SBの森山佳郎がこの攻撃陣をサポート。センターバック(CB)のふたりとボランチの浅野哲也は、いずれもクレバーな守備ができる選手たちだ。阪倉裕二と大嶽直人は順天堂大学時代にコンビを組んでおり、その息の合った守備は今でも忘れられない。

 1994年に日本代表監督に就任したパウロ・ロベルト・ファルカンは、実際にここで紹介した選手を何人も招集している。

 前任のハンス・オフト監督は各ポジションの選手に細かいタスクを与える指導をしたが、元ブラジル代表のファルカンは才能溢れる選手たちを集め、彼らを自由にプレーさせようとした。

 だが、オフト監督の指導法に慣れていた当時の日本では、ファルカンの方針はあまり理解されず、半年余りで解任されてしまった。そして、天才肌の選手たちは、その後ほとんど代表に招集されなくなってしまった。

 天才たちを使いこなせるのは、自らも天才だったファルカンだけだったのかもしれない。ファルカン体制があのままつづいていたとしたら、こんな豪華な顔ぶれの代表が実現されていたのかもしれないのだが......。


サイド攻撃。攻守のバランスも整った、2000年代のシャドージャパン

<2000年代の「シャドージャパン」>

(FW)水野晃樹(4)、平山相太(4)、家長昭博(3)
(MF)大野敏隆(0)、山田卓也(4)
(MF)上野良治(1)
(DF)新井場徹(0)、水本裕貴(7)、岩政大樹(8)、田中隼磨(1)
(GK)菅野孝憲(0)
※( )内の数字は日本代表国際Aマッチ出場試合数

 2000年代の「シャドージャパン」では、大野敏隆にプレーメークを任せたい。大野は年代別代表に招集されていた頃は、中村俊輔と並び称される、いや中村以上の天才として知られていた。中村の繰り出す長距離パスとは違って、ワンタッチで相手守備陣を切り裂く鋭いパスが印象的だった。


鋭いパスに才能を発揮した大野敏隆

 家長昭博や水野晃樹は、本田圭佑と同世代のアタッカーだった。本田はガンバ大阪でユースに昇格できずに星稜高校進学の道を進んだが、家長はG大阪のユースでプレー。年代別代表でもふたりは共にプレーすることになったが、その後、本田がその才能を開花させ、日本代表のエースとなり、また海外に雄飛してカリスマとなった。これに対して家長は大きなケガもあり、20代前半の頃はそこまで大きなインパクトを残していなかったが、才能は本田を超えていたかもしれない。

 事実、ここ数年は川崎フロンターレの攻撃陣の中心となり、Jリーグの年間最優秀賞を獲得するなど、その能力の高さを存分に発揮している。ドリブルがうまかった水野も、同じように本田や家長と並ぶアタッカーだったが、才能を十分に伸ばすことができなかった。

 中盤で大野をサポートする役割の上野良治も、武南高校時代は天才MFとして見る者を魅了したが、プレーが淡白で守備をしない選手だったためか、代表には縁がないプレーヤーだった。だが、選手生活の晩年になって、横浜F・マリノスの岡田武史監督の下でプレースタイルを変え、攻守にわたって献身的なプレーを見せた。

 この2000年代の「シャドージャパン」は、3つの年代の「シャドージャパン」のうち、最も実戦的なチームと言えるだろう。家長と水野のサイドアタッカーに、田中隼磨、新井場徹のSBが組んだ攻撃は攻守ともに強力だ。

 センターフォワードに置いた平山相太が、国見高校時代のような天才ストライカーぶりを発揮できれば、得点力はかなり高いチームになるはずだし、大野、山田卓也、上野の中盤の好守のバランスも絶妙だ。


2010年代のシャドージャパンは、ポリバレントな選手が揃った

<2010年代の「シャドージャパン」>

(FW)川又堅碁(9)、渡邉千真(1)
(MF)柏好文(0)、大島僚太(7)、西大伍(2)
(MF)大谷秀和(0)、郄萩洋次郎(3)
(DF)車屋紳太郎(7)、谷口彰悟(3)、森脇良太(3)
(GK)東口順昭(8)
※( )内の数字は日本代表国際Aマッチ出場試合数

 2010年代の「シャドージャパン」は、ポリバレント性の高い選手が多いあたりが、現代のサッカーらしいところだ。

 車屋紳太郎や森脇良太は、3バックでも、4バックでもこなせるし、車屋は大学時代はCB、プロ入り後はSBでプレーしてきた選手だ(最近は、またCBでプレーする機会が増えている)。玄人受けするMFのバランサーである大谷秀和も、若いころはSBとしてプレーしていた選手だ。


玄人受けする実力者MF大谷秀和も、日本代表とは縁がない

 さらに、西大伍は右SBとして知られるが、守備的なMFとしても、さらにサイドアタッカーとしてもプレーできる選手であり、今後、リカルド・ロドリゲス監督の浦和レッズでは重要な役割を果たす可能性もある。西などは、どうしてもっと代表に招集されなかったのかと不思議に思える。

◆大谷秀和と長谷部誠。「同じ選手は必要ない」という日本代表の宿命>>

 ゲームメークをするのは郄萩洋次郎と大島僚太。ユース時代の郄萩は天才的なボールプレーヤーで、ボール扱いはうまいが淡白な印象の選手だったが、その後、海外経験を積むうちにスタイルを変化させ、汗かき役もできる総合的なMFに成長している。

 大島は、高いテクニックを生かした理詰めのゲームメークができる選手。招集されるたびにケガに泣かされる不運で、代表には定着できていないが、これから何年かは"絶対王者"の川崎フロンターレで攻撃のタクトを振るって活躍をつづけることだろう。

 GKには東口順昭を選んだ。シュートを止める技術だけを考えれば、現代の日本で最高の選手かもしれない。日本代表の正GKになっていてもおかしくはない選手だ。ただ、GKはチーム内で1つしかポジションがなく、またチームづくりのために固定されることが多く、これまでにも多くの優秀なGKが「セカンドチョイス」あるいは「第3キーパー」の地位に甘んじてきた。

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 いつの時代にも、どこの国にも、「あの選手は、なぜ代表に呼ばれないのだろう?」と思わせる選手はいる。たまたま、同じポジションに天才的な選手がいるとか、もっと極端に言えば、その時の代表監督とウマが合わないとか、その理由はさまざまだ。

 なにしろ、あの遠藤保仁でさえ、シドニー五輪では予備登録選手の地位に甘んじ、ドイツW杯ではフィールドプレーヤーとして唯一出場機会が与えられなかったのだ。また、代表でもあれだけ大活躍した中村俊輔も、ワールドカップにはあまり縁のない選手だった。

 ただ、ユース時代までは天才の名をほしいままにしながら、フル代表に定着できなかった選手の多くは、代表入りに対しての意欲が足りなかったというケースが多いような気がする。

 数少ないポジションを争う代表で生き残るためには、時には監督の要求に従って自分の本来のポジションでない位置でもプレーして、サポート役、汚れ役もこなす覚悟=貪欲さが必要なのだろう。